虚構の実績、孝行の一擲(2)
「ごちそうさま!」
いつぶりだろうか、三人にとって笑顔の絶えない食卓を程々に莉乃は自室へと駆け上がっていった。莉乃が部屋に籠った後でも、彼女の両親は明るく会話を続ける広間を続けていた。
莉乃はベッドに腰をかけるとスマホとイヤホンを手に取り、音楽を聴き始める。流行りの、よくメディアに露出しているようなアーティストばかり聴いていた莉乃だったが、ここ最近は様々な音楽を聴く努力をしていた。
ジャンルを問わず、好みを広げて、あるいは莉乃自身の趣味を意図的に殺してどんなものも聴く。言語も問わず、楽器も問わない。ポップでキャッチーなもの、ノイズの多い騒音のような音楽、かつてアジアと包括されていた文化圏の各所で見られた民族的な音楽など、一貫性なく「音」であれば全て受け入れて聴く。
その中で、莉乃は耳を研ぎ澄ませて特定の音を汲み取るように聴いて回していた。ボーカルを意識して聞いた次にはギターを。次はドラムを、その次はベースを。音楽に興味関心が薄い彼女にとってはそれすら新鮮であり、だが数日で聞き分けることを可能としていた。
更に、莉乃は無意識的にそれぞれの音における複合波を分解を頭の中で行うようになる。弁別閾を任意にコントロールすることで特定周波数を弾きだす――さながら、編曲ソフトでいじるような――ことをし、同じ曲でも違う印象を抱けるような程に差を感じるよう努力していた。
学校にいる時でも自宅に帰った後でも、莉乃は自分を包んでいた世界を再認識するように努めていたのだ。平凡で退屈な、刺激の無い毎日だと思い込んでいた世界。しかし、それは「超能力」という新たな尺度を持って再定義することを図れば、一気に新鮮味を帯びて魅力にあふれて行く。
通学中、隣を歩く会社員は何の疑いもなく社会に順応していても、莉乃とは違う歩き方をして、彼女とは違う視線を街並みへと向ける。クラスでスクリーンの授業に没頭する純粋無垢な学友の多くは、彼女とは全く違う文字を書き、問いに対して十人十色の見解を抱く。巷で溢れている、聴きたくなくとも耳につく音楽でも、彼女が表面的には聞き取れないでいた多くの音で表現されている。通うほど好きな喫茶店のケーキは、「甘味」のはずなのにどこかで「苦味」を発見できる。
全て、変わったのは織原莉乃という一人の少女であって、世界は何一つとして変化していない。
音楽を楽しみ、しつこい程に咀嚼しながら莉乃は思いを巡らせていた。今、彼女の中で確実に新たな体感が生まれて行っている。出来なかった、意識が至らなかった多くのことを知覚出来ている。簡単か難しいかすら興味の無かったことすら、やってみようという動機を持って取り組むことが出来る好奇心が芽生えている。そしてそれらは、時には容易く、時には意外と難航しているが、自分の納得いく程度で成し遂げられている。
これが莉乃の「神経を司る」という超能力のおかげであることは、他者の多様性を観察し、取り込みながら彼女自身が強く感じていた。興味の矛先を向けるだけで、退屈な世界はこうも色づいていくのかと日々驚くばかりであっただろう。
容易にこなせるわけでも無く、且つ多くは無意味にも映る行動だ。しかし、それは剛介の言うところの「遊び」でしかない。莉乃はしっかりと自分の個性と化している超能力を楽しんでいた。感覚を研ぎ澄ますこと、鈍感にすること、人の模倣をしてみせること。それら自体は彼女にとっても無意味であれど、過程で得られる「目標に近づく」という実感が、彼女を満たし、積極的にさせていた。
「あっ――気持ちか」
一世紀近く前に流行ったポップスを聞きまわしている時、莉乃は思い出したように呟く。感情の変化、それも彼女の課題としてあった。
多くを楽しんで生活している莉乃には、正の感情で満ち溢れていた。怒り、悲しみ、憎しむという現代で強く排除された感情を獲得することも、何となく彼女は理解していたのかもしれない。陽気な音楽を耳で受けながら、どうしたら何が起こるか考え唸る。
自室の片隅、ただ座って音楽を聴いているだけでは何を抱こうにも難しい。ここ数日を振り返れば感情の起伏も容易に作れるかもしれないが、それを露呈させるほどのエネルギーまで持っていくことは莉乃であれど難しかったようだ。
「――これじゃ何で泣いてるかわかんないね」
何が起こるわけでもなく、莉乃の頬を涙がつたう。莉乃は泣いていた。泣いていたというよりも、眼から涙が分泌されただけという方が適切かもしれない程、表情は乱れていなかった。
織原莉乃は、「悲しい」という気持ちを真には知らない。
日常には多くの悲しみも未だ残っている。しかし、両親もまだ存命、祖父母も未だ亡くなっていない莉乃はあまり「身近な死」も知らないでいる。創作の物語は味気なく、彼女の心に刺さることもなく、どうにも掴めない感情でいた。
ただどうしてか、涙の流し方はわかっており、「悲しい」という状態が「涙を流すこと」に繋がることは把握していたようだ。ただ、それまででしか無かった。
感情の模索をすぐにやめてしまい、莉乃はベッドで横になると音楽へと没頭していく。心地よい音の粒が莉乃の頭を埋め尽くす。それらを淡々と処理することに彼女は喜びを感じるように笑みを浮かべ、口ずさみながら目伏せた。
幸せそうに映る莉乃だが、彼女は「嬉しい」という感情も真には理解できていないのかもしれない。
極端でいびつな世界による感性の抑圧は、相対的な幸福すらも歪めてしまっている。「悲しい」という気持ちがあるからこそ、「嬉しい」という感情を導き出せるのではと考えた時に、莉乃は欠落した感情の責任を世界に要求するだろうか。
莉乃はまだ若く、そして幼い。平和がいびつに体現されている世界では、拍車をかけて知らない領域を増やしている。幸か不幸か、現代社会に身を投じ続けるだけであればまた違ったであろう。しかし、織原莉乃はその「虚構」を知り、受け入れようとし、真実という沼へ片足を踏み入れてしまっていた。
それもまだ、少女は氷山の一角すらも眺められていない。世界が、莉乃にだけ優しいということは決して無いのだ。
少し短いですが、これにて二章完結です。感想やレビュー、評価など励みになりますので頂ければ幸いではありますが、これからも莉乃ちゃん達を読んでいただければと思います。
長く、重く且つ読みやすいかは怪しい文章ながらお付き合いいただき、本当にありがとうございます!




