狂気に染まりて(4)
真っ白な部屋の中で、麺を啜る音のみが響き渡る。澪は悠美が持ってきたうどんに七味唐辛子を惜しげも無くふりかけて食べていた。悠美は御盆ごと置いていくと長居はせず、医務室を後にした。外からは二人分の足音と、うっすらと話声が澪の耳にも届く。ここ何週間か、悠美が食事を持ってくる時は決まって一人でわったことから、思わず澪も食べる手を止めて耳を澄ます。声の正体がわかるわけでもなく、ほどなくして食事を再開した。
今日の晩御飯であるかけうどんは幸い冷えており、温かいものと違って品温を損なって運ばれてきたわけでは無い。これだけの施設で食事を全てひとつの食堂で完結させていることに違和感はあれど、近くで食糧を獲得できない以上は手間をかけることも仕方が無く、温かいものを寄越せとなど澪は口が裂けても言えなかった。それは彼女の立場上の問題も含まれているのかもしれない。
澪は食事の時、毎回試すように指を鳴らす。「熱量操作」、それが彼女の超能力であり、指を鳴らすことは能力発現に対するいわばスイッチのような役割を果たしていたからだろう。今日も目の前に冷えたかけうどんに対して、指を鳴らして見せる。その後、確認するようにどんぶりを両手で持つが、どんぶりはひんやりと冷たいままだ。
澪もこの事実に今更落胆するわけでも無く、鼻を鳴らすようにため息を挟んで食事を再開するまでだった。悠美の治療のおかげか、取り乱すようなことはほとんど無くなっている。それどころか、独りでいる時は鼻歌を口ずさみながら本を読んでいたりする。もちろん、悠美の気配を感じれば即時に歌うことをやめてはいるが。
「織原莉乃……」
澪はぽつりと零す。憎き、あるいは畏怖の念を抱く少女の名を。彼女はこの上ない敗北を植え付けられた。その記憶は澪の中で鮮明にフラッシュバックされる。莉乃の手で視界が塞がれ、こめかみに爪を突き立てられたかと思ったら何もかもを失った。彼女は自身の手を握っては開いてを数度繰り返し、ベッドから降りて直立して、今の自分の状態を確認する。もちろん、今の澪は何事も無く、それどころか以前よりも動きのキレが増していることを自覚していた。カーテンレールを超えて、少し開けた所で軽い型のようなものを披露する。陽も落ちてきた窓に映る自分の動きを見ながら、幾つかの型をこなして頷くとベッドへ戻った。
悠美と落ち着いて会話ができるほどに回復してから、澪は様々なことを習慣的に確認している。彼女とて、この現状も監視下であることは何となく察しているものだろう。そこまで愚かではないのか、あるいは似た環境を知っているのか、それは澪の口から語られるまで知る由も無い。
そして、もうひとつここ数日で増えた習慣がある。
「やっほ~、坂上くん元気かなぁ?」
その声の主は澪が両親の仇とする彩音京介のものだった。電話があるわけでも無く、映像がどこかから出てきているわけでもない。澪は驚くわけでもなく、淡々と返事をする。
「よく言うよ。あんとき調子に乗らずパッと炭にしときゃ良かったと心底思う」
「あっはっは! そういうこと聞くと、やっぱり君もみんなも変わらないんだなって安心するよ!」
「用が無いならもうテレパシーを切ってくれ」
「そうツンツンしないでよ~。私がこれだけしつこく口説くなんてそう無いんだよ? それにどうかなこの思念伝達を利用した電話、何も埋め込まずにハンズフリーで便利じゃない?」
澪は大きくため息をつくと、相も変わらず彩音はやかましく笑うばかりだった。薄っすらと「人を遣っといて」と澪にも聞こえる。彩音が便利といういわば「思念電話」は彩音の能力というわけではなく、仲介する超能力者を介して澪との通話もどきを叶えているまでであったのだ。もちろん、思念伝達を司る超能力者による発言はなく、澪は度々その能力者に同情を漏らしていた。
彩音が軽く笑い終えると、彼は少しトーンを落として本題を切り出す。
「織原くんの件、一考しても良いよ」
「だろうな。むしろ断る理由がわからない、ウチにメリットなんてほとんど無いのはわかってるんだ」
「好奇心? それともやっぱり能力を?」
「ウチは頭良くないし、お前みたいな狂人でもない。敵地の中心で変な博打をする度胸も無いし」
彩音は未だに坂上澪を掴みかねていた。復讐を目的に単身乗り込んでおきながら、今や彩音と会話を普通に行っている。ヒューマンエンパシーについて話すことはほとんど無かったが、それでも特に手を焼かせるような行動を取るわけでもない。機を伺っていると考えるのが納得できる落としどころではあれど、悠美との会話や読心では脱出及び帰還の意思はなかったとも報告が上がっている。
「どうしたら良いか決められないんだ。ならせめて、アイツへの恐怖心を克服したいだけ」
次にどう茶化そうかと彩音が少し間を置いていると、澪が続けて口を開く。澪は目を伏せ、逃げるようにベッドへ横になる。彩音はそれをモニター越しで確認は出来れど、それで何がわかるわけでも無かった。
「坂上くん、私は本心で君と交渉をしたい。もちろん、いま思念を仲介してくれている子も無しで二人でさ」
「それは――彩音京也、アンタの気持ちは嬉しいしありがたいし、自分が情けない。でもさ、またアンタと対面して殴ろうとしない自信は無いし、ウチはそんなに大人じゃない」
「そーんなことどうでも良いじゃない、殴りなよ! あとで阿古くんに治してもらうからさ!」
神妙な口ぶりで応えた澪が馬鹿らしいかのように、彩音はまたして笑い声をあげる。澪もまた、彩音京介という男の全てを知れているわけでも無かったのだ。
「坂上くんの身の上はまだ詳しく知らないけどさ、もっとわがままで良いんだよ。言ったよね、私は君を救いたいんだ。これは私のエゴでもある、だから殴られても文句なんか言えないさ」
彩音の提案と笑い声に、澪は状態を起こしてベッドに腰をかけるように座りなおす。その顔には困ったような笑みが浮かび上がっていた。
「まぁそういう事なら、遠慮なくぶん殴らせて貰おうか……」
「じゃ、後で瀬良くんを通して日程を伝えるね! いや~楽しみだね~!」
「先生、まさかマゾでは――」
「そういう性癖は無いが、私はどちらかというと超能力者に何かしらで干渉されると思うとどうも――」
澪が良い返事をすると、次第に彩音の声と仲介者の声が遠のき通話が終わった。澪は最後の会話を聞かなかったことにして、天井を仰いだ。彩音の底知れぬ優しさか、あるいは好奇心か、はたまた野心か。彼女にはわからないし、関係も無いのだろう。彩音が人を導ける器の持ち主である、それは彼女が憎しみしか抱いていた頃から理解はしていたつもりだった。だからこそ超能力者が兵器として完成してしまったのだろうが、だからこそ今ここで澪は希望を見い出そうと出来ている。
眠りにつくわけでは無く、澪は何かを思い出すように目を閉じる。鼻歌を口ずさみながら思い浮かべる光景は、未来の希望か、はたまた過去の絶望か。それを知る時まで、そう遠くなくなったのかもしれない。




