ファーストキス(2)
阿古剛介は非常に焦りを感じていた。目の前の三人と自分という構図、実質客人である莉乃を意図も容易く奪われてしまったことに。少し先には剛介にとって最も優位なフィールドとも言える国立神経科学研究センターがあるものの、誰かへ助けを求めるにも施設内はあまりにも広く、それ以前に眼前の女性達がそれを赦すわけが無いと言わんばかりに剛介に警戒をしている。
聖の耳打ちから抵抗をやめてしまう莉乃を見て、剛介は莉乃の身が危険に晒されていることをより強く理解していたのだろう。彼は油断をしていたわけでは無かったが、莉乃に対する戦闘による信頼を置いていたことは間違いないだろう。能力的にも支援型の剛介としては、致命的なまでに勝算を欠いた状況を招いていた。
「阿古剛介、澪っちの場所をさっさと吐くです!」
無論、膠着することはなくカミラが剛介を指さし叫ぶ。だが、当然そんなことを剛介が応えるわけもなく、耳を貸さず彼は今の状況をどう覆すかに頭の容量を割いていた。剛介に無視されたカミラは不機嫌そうに頬を膨らませ、隣の淡色髪の女性へと不満を垂れる。
「こういう時のためにマインドスキャナー持ってこようって言ったですよ~……プリシラもカミラの意見を尊重してくれてれば良かったですぅ」
「それは難しいでしょう。何故なら敵地において、非戦闘員を抱えた移動はリスクが高いでしょう」
プリシラと呼ばれた淡色髪の女性は、赤眼鏡をクイッとあげながらインテリジェンスに一般論を返す。マインドスキャナー、つまりは精神操作の能力者が戦略的に役立つのは現場ではないことは確かである。
「その敵地だってのにのんびり三人行動とは、随分呑気じゃねぇか」
剛介は左半身を少し前に出すように構え、二人へと問いかける。その右手にはスマホが握られており、身体で隠しながら操作していた。誰かしらへ連絡をすることで、形勢を逆転しようという算段なのだろう。
「当然でしょう、私達には聖という足があるでしょう」
「プリシラ、僕を便利なタクシーみたいに言うのはやめてくれよ」
プリシラの返答に対し、莉乃を抱き止めたまま少し距離がある聖が叫んでくる。プリシラは聞こえないように意識して呟いたほどの大きさでは無かったが、それでも聞こえていたことに残念がるような表情をしていた。
「それにですよ、もう日本は世界であり、この研究所が最高峰と言える時代は終わってるです!」
「バカを言うんじゃない、かつて戦略級として名を轟かせた化け物が席を置くのは彩音先生の下だけだ」
「間抜けはお前らです! 気付かないです? 織原莉乃の来るタイミングを見てカミラ達が――」
カミラが言いかけるも、プリシラがげんこつをして発言を遮った。結構な力が入っていたのか、カミラはその場でうずくまり痛そうに頭を撫でている。そして剛介は何か思い当たることがあったのか、一気に緊迫した表情になり、口が開いてしまっていた。
「阿古剛介、貴方は聞きすぎたでしょう」
げんこつを決めたプリシラは剛介へと歩みを進めゆったりと近づいてくる。剛介はスマホをしまい、向かってくるプリシラへと右拳を掲げ走り出した。
「そのガキが勝手に喋っただけだろ! あんまり俺をナメるなって――」
その瞬間、剛介の意識が暗転しかける。鈍痛に鈍痛を重ねたような痛みが身体全体で発生し、走っていた彼は頭から着地し、コンクリートの地面に身体を擦り付けるようにプリシラの目の前で倒れた。
「貴方の身体は正常でしょう。それ故に、貴方は私に殺されるでしょう」
冷酷に地を這う剛介を見下ろしながら、プリシラは彼に死の宣告を告げる。死ぬことを知らぬまでに成長させた剛介の自己再生力であったが、その能力を持ってしても再度立ち上がることが困難なほどに追い詰められ、もがき苦しんでいる。
またもやられている剛介に、莉乃は少し残念でありながらも彼の能力ならそう容易く死ぬことは無いだろうとどこか心配を他所へやっていた。だが、莉乃の考えている以上に事態は深刻であることを、ただひたすらもがき続ける剛介が物語ることとなる。
「阿古さん……? なんで立たないの……?」
「立たないも何も、彼の体内では血液が逆流し続けているんだ。まだ生きていることの方が驚きだけど、これに慣れる前に身体がもたないよ」
聖が莉乃へと親切にも解説をしてくれるが、莉乃としては意味がよくわからなかった。だが、つい先程の剛介との会話を思い出す。「能力ってのはやっただけ上手くなる」、この結果として剛介は傷口や欠損をアニメやマンガの無敵キャラも驚くだろう速度で再生を果たしている。
だが、目の前の現状はどうであろうか。剛介が自ら、あるいは彩音の実験で体内の血液を逆流させる経験を積んでいたか、そしてそれに伴う体内組織の異常や破壊に対する経験値はどれだけあるのか。残念ながら、その答えは今まさに莉乃の目先で苦しみ続ける剛介の姿が教えてくれていることだろう。
「悪いけど、阿古剛介は今殺しておかないと後々困るんだ。織原莉乃もわかるだろう?」
聖は悪魔にも思えるような問いかけを莉乃へ囁くも、莉乃は血の気の引いた顔で目の前の悪夢を見ることしか出来なかった。先程までいつも通り笑い、少し深い話をしてくれ、莉乃を励ましてくれていた剛介が「殺される」というのだ。敵に自分の命を握られ、仲間と認めてくれた人を救うことすら出来ない非力さからか莉乃は強く拳を握りしめるのみだった。
織原莉乃はある種の走馬灯のようなものを見ていた。これまでの阿古剛介という人間との出会いから、そして今別れへと繋がろうとしているここまでの、短いながらも彼女の16年強の人生をも凌駕する濃密な期間を。そして、莉乃は思い出す事となる。
『その能力に、君自身に誇りを持つんだ』
澪を治した時の彩音のセリフである。これを受けた莉乃は、自分でも思い及ばなかったことを平然と導きだし、そしてこなしてしまった。
これは彼女のスイッチとして最高に機能することになる。過去でも、そして今でも。
「お姉さん……私怖い、怖いの……」
莉乃は肩を抱く聖の方へと顔を向け、怯えきった子犬のような表情で聖を見つめる。その目には涙が浮かんでおり、端正な顔立ちもあって人の庇護欲を爆発させんばかりの存在となっていた。そんな莉乃を見た聖は少しの動揺が見えるも、すぐに笑みを浮かべて莉乃の頬へと手を伸ばす。
「織原莉乃、安心して。君は僕が優しくしてあげる」
「お姉さん……」
色欲が溢れんばかりに莉乃の肩から腰へと手を下ろしていく聖に、莉乃は向かい合うように向き直り、唇を触れあう程に顔を近づける。
「私の初めて、優しくしてね……」
莉乃と聖はその薄いピンクの唇を重ねる。それにとどまらず、莉乃は口を軽く開き、積極的にも舌を絡ませる。聖は手慣れているように莉乃を受け入れ、二人は瞼を閉じお互いのみを感じあう事に全てを集中させた。
――かのように見えた次の瞬間、莉乃は顔をスッと引き、そのまま聖を頭突き飛ばす。
「セクハラに恐喝、これなら立派な正当防衛よね」
聖は何が起きたか理解をすることに時間を要したのだろう、目が泳ぎ、頭突かれた額をさすって痛みを確認する。しかし、それを許さないように莉乃は聖の両肩を掴むと、彼女の鳩尾へと膝で一発くれてやる。莉乃の細くも健康的な脚が聖の華奢な身体へ吸い込まれるようにめり込むと、聖は異様な呼吸音をあげながらその場でうずくまり、彼女の朝食か昼食で食べたらしい吐瀉物を吐き出した。
「本っ当に最悪な気分よ、気持ち悪い。これなら先に瑠奈にでもしてあげた方が良かったわ」
目の前で嘔吐し苦しむ聖を見下ろしながら、莉乃は唾を吐きつけてやる。相当に聖との熱いキスが不服だったのだろう、一度ならず二度も三度も唾を吐いた。
「聖!? なにしたです織原莉乃!」
異変に気づいたのはカミラだった。頭をさすりながらプリシラが剛介を痛みつける様子を傍観していたが、後ろからの異音と聖の悲鳴にもならない苦しむ声で気付いたのだ。カミラも状況が理解出来ていないながらも、莉乃へと距離を詰めるように走って近づく。
莉乃も応戦に入るが、その動きのキレは相手のカミラが気の毒になるほどだった。莉乃が地を数回蹴り加速するとカミラへ飛びかかり、お家芸とも言えるようになってきた回し蹴りをカミラの惻頭部めがけて放ってきた。常人離れした動きだったが、カミラは歯を食い縛ると下へと避けた。この時、空中を舞う莉乃は気づかなかったが地面が強く揺れ、カミラのいる位置だけが局所的にくぼむ。結果的にカミラもしゃがみはしたが、莉乃の蹴りを避けた一番の要因は地表の変化にあった。
「無傷で確保はもう無理です!」
カミラが両手で指を鳴らすと、今度は莉乃も知覚出来るほどに強い揺れば周囲を襲う。街路のコンクリートに亀裂が深く走り、大きな震災を思わせるほどだった。見事にその亀裂な莉乃の着地点を通り、宙から足を戻す際に体勢を崩し、受け身を取るも脇腹を割れた地面へと強打する。
苦痛で顔を歪ませる莉乃を尻目に、カミラは聖のもとへと駆け寄り、肩を貸して立ち上がらせる。
「プリシラ! そっちは終わったですか!」
カミラが叫ぶも、その先のプリシラは既に莉乃の標的と化していた。大きな揺れによって、剛介はどうしてか苦しみから解放されたように上体を起こす。プリシラは剛介から視線を反らし、後ろを向くとそこには脇に血が滲み出るも表情を崩さず一直線に向かってくる莉乃の姿があった。プリシラが能力を発動させる前に、莉乃の拳が彼女の顔面を捉えようとするも空を切った。莉乃は辺りを見回す。すると、後ろでプリシラとカミラが聖の肩を持つように立っていた。
「まだ使えたんだ、舌までいれたのに失敗かぁ」
聖が瞬間移動を出来ることに対して莉乃は落胆しているが、その莉乃を見る聖の表情はいつかの澪を思わせるように、いやそれ以上に憎悪の念が籠ったものだった。それを見てもなお、莉乃は自分の思い通りにことが運んでいないことが気に入らない様子であった。
「おろふ……おのうおアマぁ……」
「なに? ちゃんと喋ってよ、ふざけないで」
聖は呂律が回らないのか、何を言っているかよくわからない莉乃が聞き返す。すると、聖は更に激昂し、二人の間で弱々しく暴れて喚く。
「私は親切なので訳しましょう。『殺す、このクソ女』と言っているでしょう」
「一言多いです! 聖をこれ以上怒らせたらカミラ達が祖国へ帰れないです!」
捨て台詞らしいものは聖が吐いたことのみで、他の二人は特に莉乃へぶつけることもなく、気づけばその場から三人は消えていた。
莉乃にとって二度目の敵との邂逅。割れた地面、聖の吐瀉物、そしてようやく立ち上がる剛介と肩を貸す莉乃が、一応の二人の勝利を示しているのだろうか。




