無情なヒロイン(2)
彩音はスッと立ち上がり、部屋の隅で這い寄ろうともがく澪へと近づく。澪は歯が割れんばかりに歯ぎしりをし、瞼がめくり上がりそうなほど眼をカッと開いていた。澪の数歩前まで行くと、彩音は膝をつき彼女へと視線の高さを寄せる。
「殺す! 喉首噛みちぎってやる! お前は絶対にウチが殺してやる!くそっ!」
澪は肘で無様に、だが確固たる憎悪の念を全身から溢れだし彩音へ吠える。剛介はただまっすぐに彩音の行動を見つめるが、莉乃は強い負の感情に怖気づいてしまう。
「何が救いたいだ! ウチは知ってるぞ、お前だ、彩音京也。お前が世界を滅ぼし、ウチらを異常者扱いしていじくり回して、兵器にして……」
威勢良く叫んでいた澪だったが、次第にその声は掠れて小さくなり、彼女も顔を伏せて肩を震わせる。嗚咽を堪えるように肘を地に打ち、未だ満身創痍の身体に鞭を打っている。
「返してよ……ウチらの平和を……パパとママを……」
澪の顔の下にはぽつりと涙が床を跳ね続けていた。四肢の自由を奪われた彼女は何もかも奪われきった後で、唯一拠り所としていた能力をも実質奪われてしまったのだから。澪の能力の練度は彩音から見ても口に出して驚くほどであったのだ、その背景には想像を絶するほどの努力があったことだろう。
強気な発言を繰り返していたが、彼女の精神は既に擦り切れていた。何もかもを無くし、憎むべき相手には見降ろされ、拘束されているわけでもないのに立ち上がり殴りかかることさえ叶わない。そんな人間がどうすれば気持ちを保てるというのだろうか。
目も当てられない程に打ちのめされた澪に、莉乃は思わずその場に倒れるように座り込む。剛介は澪へ近づき手をかかげようとするが、彩音がそれを止めるように腕で遮る。
「かたき討ちを譲るわけにはいかないが、君の助けをしたいんだ」
彩音は腕を下ろし、目の前でうずくまることも叶わずむせび泣く女性へ語りかける。
「私は多くの研究に携わってしまった。その中で君のご両親をも巻き込んでしまった事は、ただ謝るしかできない。でもせめて、それで苦しんでしまった君を救いたいんだ」
真摯な眼差しを澪に送るが、伏せたままの彼女が彩音と目を合わせることは無かった。
彩音の研究室内に静寂の時間が流れる。彼の語りかけに澪は答える気配もなく、ただ静かに涙をこぼすのみだ。莉乃は3人をしきりに見ては困惑し、どうするべきかわからないでいる。剛介は彩音と澪を見つめ続けるが、次のコーヒーを勝手に淹れ、またもガムシロップとミルクを片手間に注ぎ込む。
痺れを切らしたように、彩音が一息つくと立ち上がって剛介を見る。
「阿古くん、ひとまず彼女の腕と脚を治してやれるかな?」
「待ちくたびれましたよ。でもそれ、さっき言った通り治したこと無いんでわからないっすよ」
おかわりを淹れたコーヒーカップを近くの積み重なった本の上に置き、剛介は再度澪へと近づき手をかざす。淡い光が患部から溢れだし、澪の見えざる傷を癒やす。だが、剛介は怪訝な顔をして光を見つめていた。
剛介の表情から何かを察したのか、彩音は莉乃へと顔を向け手で招く。
「織原くん、阿古くんの手伝いをしてやってよ」
思いもよらぬセリフに莉乃は驚くが、小さく返事をして立ち上がると澪の元へと小走りで向かう。未だすすり泣く澪と距離を縮めたことで、莉乃の表情が一層暗くなる。
莉乃はここまで重い重い事情を抱えた人に関わることもなく、死というものも遠くに感じたままの少女である。表面上の健やかさのみを享受し続けた少女には、今日だけでも新しく得た情報の量はあまりにも多すぎたのだ。
だが、戦いの中では常人の域を逸脱したセルフコントロールを平然とこなし、超常の力をも天才的な閃きで使いこなす。眉ひとつ動かさずにおこなった非情な選択をしておきながら、莉乃は今その結果にすくみあがっている。異様な光景に剛介は強い違和感を抱くが、彼自身の目の前の仕事に尽力するように澪へと目を向け直す。
「先生、私に何ができるの……?」
莉乃は不安げに彩音に訪ねるが、同時にどこか顔色を伺うようにも見えた。そんな莉乃を見て、彩音は優しく微笑みながら莉乃を導く。
「織原くん、まずは君自身が落ち着くことからしようか。君なら簡単に出来る、絶対に。その能力に、君自身に誇りを持つんだ。そして、それを取り巻く何もかもは決して怖がる必要は無いんだよ」
彩音に対して莉乃はこくりと頷くと、祈りを捧げるように眼を閉じる。彼女が心で何を思い、反芻したのかはわからないが、次に眼を開けた時には別人のように落ち着いた表情になっていた。
顔を上げた莉乃は治療に従事する阿古の、澪の患部へかざした手首を掴む。
「阿古さん、これは治療とはまた違う。何かの欠損による障害じゃないから、多分アンタの能力の対象外」
「どういうことだ、ちゃんと説明を――」
剛介が言い終える前に莉乃は彼を澪から引き離してしまう。すると、莉乃は澪の顎を添えるように持つとガッと勢いよく顔を上げさせる。ぐしゃぐしゃに泣いている澪の顔が露わになるが、彼女は抵抗することも出来ずにただ泣き続けるだけだ。
それだけではなく、莉乃は先程の戦闘で澪の顔につけた爪跡の傷口にグッと人差し指を突き刺す。傷口は開き、浅いながらも多量の血液が澪の顔を滴り流れる涙と混じり合う。
「あ……あああぁぁぁぁぁぁあああ!!!!」
静かに泣いていた澪だったが、能力と四肢の自由を奪われた光景がフラッシュバックしたのだろう。鼓膜が破れんばかりに叫び、泣き喚き始めてしまう。
「ここが織原くんの悪い所だねぇ」
「鬼かよ……」
彩音が莉乃の無慈悲な所業を見て呟いた。泣きじゃくる女性の顔を強制的に上げ、それにとどまらず顔の傷口を広げているのだ。流石の彩音ですら若干引いたような表情をしており、隣まで下がってきた阿古に至っては更に数歩実際にあとずさる。
ただ、指を刺したかと思うとすぐに抜き去ってしまう。噴き出す事は無いが、痛々しいほどに血は流れ出し、澪の顔はほとんど赤く染まってしまった。
「はい、終わり。お姉さん動けるはずだよ」
莉乃は指に着いた血を振り払い、澪へ告げようとする。
だが、それを告げるまでもなく莉乃が指を抜くのと同時だろうか。澪は上体を手で起こして立ち上がり、跳ねるように部屋の隅へ逃げる。つい今まで這う事しか叶わなかった澪だが、両脚で見事な逃げっぷりを披露した。
「来るな! 来るな! 来るなぁぁあ!」
しかし、当の本人は恐怖に支配されてしまっており、自由に身体が動くようになった事実に気付かず狂ったように莉乃へ叫び散らかす。
「マジかよ……手足の治療も回復も、何も手応えが無かったのをどうして……」
澪の元気に発狂する姿に剛介は開いた口が塞がらないようだった。彼自身の能力では何一つ変化の手応えを感じ得なかったものを、回復を剛介に頼っていた莉乃が一瞬で解決してしまったのだから無理もない。
「阿古くんは機能障害は不可と――」
「先生、これ治療とかってのと違うんです」
彩音が顎に手を添え考え出そうとするが、莉乃が間髪いれずに否定した。自身の好きな時間のひとつである考察を邪魔された彩音は少しムッとするが、その続きを求めるように莉乃を見つめた。
莉乃は鼻で笑うと少し間を置き、敢えて焦らすようにゆっくりと口を開く。
「私、先生のヒントを貰って逆のことを試してみたくなっちゃったんです。それで、『手を動かそうとしたら眼を開いちゃう』とか、別の部分へ動きって移せないかなと思って。それを元に戻してあげただけですよ」
莉乃の答えに、彩音は堪え切れず高笑いを始めてしまう。
彩音京也の研究室には悲鳴と笑い声が交錯する、先程とは一転して大変賑やかな様子となり果てた。




