「いつでもあなたは。」♯4
「考えすぎなければどうってことはありませんでしたね」
松岡先輩は本を開きながら、そんなことを言った。
もう外は夕暮れ。エアコンが入って涼しくなった部室内を、オレンジ色が淡く染めていく。
「この部室の本棚は作者名の五十音順で並べられています。入室して左側の棚には上から順に〈あ行〉から〈な行〉、右側は同じく上から〈は行〉から〈わ行〉。
倉橋くんは、間違えて〈あ行〉の棚に本を置いてしまったんですね。『きみへ綴る』は、蓮野東次郎さんの作品。棚は、入室して右側の最上段にある〈は行〉のところですから」
「つまり、このメモは」
「顧問の上原先生ですね。鹿島さんの身長では最上段の間違いに一目では気付けません。メモの字を見るに急いでいたでしょうから、鹿島さんが最上段を確認するためにわざわざ椅子に乗っているとも思えませんし。その点、この棚を設置した張本人である上原先生ならば、一目見て間違いに気付くはずです。メモにあった「返す場所」とは、本棚に入れる時はちゃんと、五十音順に並べるというルールに沿って本を片付けなさい、ということだったんですね。
うっかりさんでしたね、倉橋くん。倉橋くんが読んでいた『コバルトブルーに会いに行く』は、芦田ワタルさんの作品で〈あ行〉。同じ最上段ですし、ついそちらに置いてしまったのでしょう」
先輩は犬を撫でる時のような柔らかい声だった。滑らかで、可愛らしくて、僕が大好きな、優しい声。
でも先輩、それは違うんですよ。
僕は間違えたんじゃないんです。あえて、〈あ行〉の棚に置いたんです。移されて、無意味にはなったけれど。
先輩が昨日まで読んでいた本。僕、よく憶えているんです。次に読もうと思っていたから。
『いまいちど』――作者は、深川秋雄。五十音順で、〈は行〉。
置けるわけがなかったんです。
もし、先輩の方が早く部室に来て、椅子に乗って〈は行〉の棚を見られたら、蓮野東次郎の『きみへ綴る』に、気付かれてしまうかもしれないと思ったから。
「あの、先輩」
僕は、動揺に動揺を重ねた先程までの時間を払拭するように、意を決し、声を張った。
「はい、なんでしょうか」
先輩の微笑みは何時なん時であっても美しい。夕陽のオレンジ色が小さく可愛らしい頬を薄く染めているようで、胸の高鳴りは一層強くなっていく。
僕が椅子から立ち上がると、先輩もすっと立って、スカートを直した。
おぼつかない足取りで、先輩の隣に立つ。
先輩と目があった。僕を見上げる先輩の可愛らしい目が、心をつかんで離さない。
その瞬間、僕は、心臓を目視しているかのような感覚に襲われた。一拍が手に取るように分かる。高鳴る鼓動に、全身がぴりぴりと震えだす。
「先輩……、僕……、その……」
夜通し考えた言葉が出てこない。頭が稼動することを諦めたかのように、思考がぴたりと止まった。
情けない。情けない。
僕は手を差し出した。やっと動かすことが出来た。
「これ、読んでください」
手には一冊の本。
『きみへ綴る』。
僕と先輩が出会うきっかけになった、大切な一冊。
図書室のラベルが貼られたこの本がなければ、僕は先輩と、こうして話すことも出来なかっただろう。僕の学生生活を一変させた一冊。
きっと先輩は、この意味を理解している。この本をオススメコーナーに置くまでに愛した、先輩ならば。
『きみへ綴る』は、主人公が多くの恋をしていく中で、学び、変わり、そして成長していくストーリーだ。
作中、主人公は、幾度も繰り返した出会いと別れを、一切飾ることなく、一つの小説にしている。
それこそが、この本のタイトルにもなっている、作中作『きみへ綴る』。
最終章にて、主人公はその小説を、一人の女性に手渡した。
想いを告げるラブレターを、『きみへ綴る』に挟んで。
僕には言葉で伝えるだけの勇気がなかった。だから、僕はその主人公の力を借りることにした。
『きみへ綴る』の主人公と同じ方法で、想いを告げることにしたのだ。
この本の内容を知っている先輩に、一瞬で伝わる、この方法で。
「はい。承知しました」
そう言う先輩は、驚く素振りも見せずに、本をじいっと見つめた。
「しっかりと、読ませていただきますね」
先輩の微笑は、とても真剣なもののように、僕には思えた。
僕の心臓は依然激しくなるばかり。
でもやはり、僕の心は、夕暮れに映える先輩の笑顔から目を逸らすことを、頑なに拒んでいた。
次で「いつでもあなたは。」は最後です。