2 御使い
眩しさに目を細めながら、ソオは目を覚ました。
薄曇りの空のように、ぼんやりと輝く天井が見えた。ここはどこだろう、と、起き上がろうとして力を入れた手が、ふわりと沈む。打ちたての綿もかくや、驚くほど柔らかい敷物の上に、ソオは横たわっていたようだった。
と、虫の羽音のような音がどこからともなく微かに聞こえてきて、ソオの背中が優しく後ろから押された。
寝台だと思っていたものが、みるみるうちに椅子のような形になってしまった。ふかふかの背もたれが、まるで母の腕のように、ソオの背中をすっぽりと包み込んでくれている。
ソオは恐る恐る辺りを見回した。
左手には、白い壁があった。木でも石でもない、何でできているのかさっぱり分からないが、滑らかで継ぎ目の無い壁だった。
右側を向けば、ソオが座っているのと同じ椅子が三つ、背もたれを平たく倒した寝台の形で並んでいる。一列に四つ、それが五列。その全てに、ソオと同じぐらいの年かさの娘が、穏やかな表情で横たわっていた。
長さまは何処なのだろう。嫁取りの儀はどうなったのか。咄嗟に立ち上がろうとしたソオは、自分の身体が黒い帯によって腰のところで椅子に固定されていることを知った。
ソオの背筋を、冷たいものがつたい落ちた。恐怖のあまり叫びだしそうになるのを必死で耐え、胸を押さえて荒い息を繰り返していると、どこかで聞いたことのある声が部屋の中に響き渡った。
『お目覚めかね、ソオ』
息を詰め、声の主を探すソオの前方、壁の中央にぽっかりと通路が口をあける。
『こちらへ来るがよい』
ソオの身体を拘束していた帯の留め具が、カチャリと音を立てて外れた。
まるで雲の上を歩いているかのように、ふわふわと身体が軽い。もしかして今私は夢を見ているのだろうか。訝しがりながらも、ソオは薄暗い通路に足を踏み入れる。
数歩進んだところで目の前の戸が音もなく開き、先ほどの部屋と同じ、白い壁に光る天井がソオを迎えた。
ガランとした室内の中央には、立派な椅子が二つ並んでおり、その少し奥には、広い机が見える。
「ようやく気がついたか」
左側の椅子から、若い男が立ち上がった。目もくらむばかりの黄金の髪に、ソオは一瞬息を呑んだ。
「ここはどこなのですか?」
「天が原へ向かう船の中だ」
思ってもみなかった答えに、ソオは目を見開いた。
「船? 船で天へまいるのですか?」
「大鳥が変化した、天駆ける船だ」
「ならば、向こうの部屋にいる方々は、一体……」
「お前と同じ、神の花嫁だ」
男の言葉を聞くなり、ソオの足から力が抜けた。
「大丈夫か」
「は、はい……」
ふらつくソオを支えながら、男がどこか愉快そうに口角を上げる。
「一口に神と言うが、天が原の住人は大勢いるからな。老いも若いも、男も女も。なに、お前達と同じで夫一人に妻一人と決まっている。安心しろ」
「……そうなんですか」
神と人とを同列に語ることなど許されようはずもないが、それでもソオは、自分が二十人の中に埋もれてしまわずにすむと知り、心の底からほっとした。
「皆さんは、眠ってらっしゃるのですか?」
「そうだ。天が原に着くまで、目覚めることはない」
「ならば、私は……?」
男は、ソオの問いには答えずに、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「本来ならば、嫁取りは、しもべ達に任せることになっている。我々は天が原で、妻となる女達の乗った船を、ただ待っているだけ。だが、それではつまらない、と思わないか?」
男が「我々」と言うのを聞き、ソオは目をしばたたかせた。と、同時に、茅場での神の言葉が彼女の脳裏に浮かび上がってくる。「地上に降りる機会など、そうそうあるものではないからな」あの時、確かに神はこう言った。
しかし、目の前の男は、ソオ達人間と何ら変わらないように見える。あの、ずんぐりとした影とは似ても似つかない。
「お前を眠らさなかったのも、つまらない、からだ。天が原を発って以来、話し相手といえば、愛想の悪いしもべばかり。息が詰まる」
「あなたは……一体……」
恐る恐るの問いかけに、男は微笑みで答えた。
「お前の夫となる者だ」
「え、でも……先ほどとはお姿が……」
「あれは、地上でのかりそめの姿だ。これが、私の真の姿となる」
ソオは、改めて夫と名乗った男――神を見つめた。
緩く曲線を描く金の髪は、首の後ろで軽く一つに結わえられている。眼は空のように青く、肌は雲のように白い。すらりとした、しかし力強い手足は、まさしく白い牡鹿のよう。なんて、美しいんだろう、と、ソオは溜め息をついた。
「コオリの里が最後の寄港地だった。己が花嫁をこの手で迎えるついでに、一度この足で大地を踏みしめてみよう、と思ったはいいが、うっかり、あの姿が帯電しやすいことを失念していた。それまで同様しもべに任せておけば、お前を無用に驚かせることもなかっただろうに、すまなかったな」
タイデンとは何だろうか。だが、疑問を口にする間もなく神の謝罪の言葉を聞いて、ソオは大慌てで両手を振った。
「そんな、謝られるようなことではありません!」
ほんの一瞬、彼は薄い笑いを口元に浮かべた。だが、眼差しはすぐに温かみを取り戻し、文字通り神々しい笑みをソオに向ける。
「折角椅子があるんだ、座ろうか」
遠慮するな、との声に、ソオはおずおずと空いている右の椅子に近寄った。と、左手を強く引かれ、そのままあろうことか彼の膝の上に倒れ込んでしまった。
「す、すみません……!」
血相を変えて立ち上がろうとしたソオを、逞しい腕が背後から抱きとめる。うなじに熱い息を感じ、ソオは思わず身を震わせた。
「あ、あの、手を離してください」
「こんなに待ったのに、まだ待てと言うのか」
切なげに吐き出される声に驚いて、ソオは後ろを振り向いた。
熱の籠もった青の瞳が、正面からソオを見返してくる。
「お前を見初めてから、この嫁取りまで、私がどれほどの月日を待ち続けたか分かるか? その間にお前の周囲の男どもが掟を破ってしまわないか、どんなに狂おしい気持ちで見守っていたか分かるか?」
しなやかな指が、ソオの顎をすくい上げた。唇と唇が重ねられた瞬間、ソオの身体をえもいわれぬ震えが駆け抜ける。
初めて味わう口づけは、微かに薄荷の香りがした。
「どうして、私を選んでくださったのですか……」
上気した頬でソオが問いかければ、再び唇が塞がれた。
「お前はよく、草笛を吹いていただろう」
水音を立てながらソオの唇を何度もついばみ、神が囁く。
「一日の畑仕事を終えたあと、姉と妹にねだられて吹いていたな。お前自身も疲れていただろうに」
深さを増す口づけに、ソオの呼吸が上がってくる。そしてソオが喘ぐように息を継ぐたびに、より一層口接は深まっていくのだ。
「あの音色を、直接この耳で聞いてみたい、と思った」
大きな手のひらが胸のふくらみを包み込み、ソオの喉がごくりと音を立てた。
「お前のために特別な部屋を用意しよう。草を植え、風を起こし、地上そっくりの風景を再現してやろう。そこで、私に草笛を吹いてくれ」
胸を覆った手が、勿体ぶるようにゆっくりと蠢き始める。
自分が漏らした声の甘さに驚いたのは、ほんの一瞬だった。ソオの意識はみるみるうちに、彼の愛撫がもたらす官能に侵されていく。
「あ……あの……神様……」
僅かに残った力を振り絞りながら、ソオは必死の思いで神に呼びかけた。
「ユハニ、だ。私の名は」
「ユハニ様……あの……嫁取りの儀が終わるまでは、私は純潔を守らなければならないと、伺っておりますが……」
先刻の話では、妻を迎える神々は、本来なら天が原で女達の到着を待つ、とのことだった。ならば、ソオが天が原に到着していない今は、まだ儀式が完了していないということになるのではないだろうか。このまま流されてしまっては、掟を破ることになりはしないのだろうか。
「搭乗の際の検査で既に陰性だと確認されている以上、つがい同士がまぐわうに問題はない」
「トウジョウ? インセイ?」
ソオの問いかけを舌の上で転がして、ユハニが囁く。
「心配するな。悪いようにはしない」
深まる、口づけ。激しさを増す、愛撫。ユハニの腕の中でソオの身体が艶めかしく波打ち始めるまで、大して時間はかからなかった。