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黒子(ほくろ)

作者: 田伏 まこ

         

        黒子ほくろ

                             田伏 マコ

国道一号線の交差点をやっとのことで渡り終えたキヌは、どこか日陰はないものかとキョトキョト見回した。

「もう、歩けぬ」

 観念したようにつぶやき、顎を突き出したまま歩道際にあるコンクリートの電柱を背に人目も構わずしゃがみこんだ。何のためらいもなく臀部を地面に落とす。曲げていた両方の脚もだらしなく歩道に向けて投げ出していた。

 何百台もの車が騒音をたてて南北に突進していく。それを憎々しげに眺め、ときどき、足元に置いた二つのビニール袋に目を落としては大きな溜息をついた。

 真夏の日差しが真正面から照りつけていた。額から、とめどなく汗が流れ落ち、半袖ホーム・ウエアーの背筋まで汗が染みていた。

 目の前を通り過ぎていく歩行者たち・・・。その中にはキヌの様子にチラリと視線をなげつけてゆく者もいるが、たいていは気づかぬ振りしてとおりすぎた。

「農業で鍛えた足腰じゃが、こうなると、おてあげじゃ」

 キヌはよく独り言をいうようになった。痩せ細った両腕と両足を交互にさすってはつぶやく。

 すんでのことで救急車の世話になるところだった・・・そう思い返すと、今更のように鼓動が激しくなる。交差点をわたり始めてほぼ真ん中まで来たときだった。斜め前に祭りの神輿を思わせるような赤、青、金色といった賑やかな装飾ランプをかざした大きなトラックが突進してきた。

「バカモンッ、ヨタヨタスルナッ」

 風圧とともに、威勢のいい怒声が空中に飛び、その瞬間、キヌは自分の胴体が宙に浮いたかに思った。と、そこへ、もう一台の白い乗用車が、パプパプという短いクラクションを鳴らして近寄ってきた。信号機は早くも黄色の点滅になっていた。あともどりしようか、それとも前にと、キョロキョロしたあげく運転手が促す無言の顎に急かされ前進の構えをとる。とは言っても両手にぶらさげている重いビニール袋が、ややもすると、体の進行方向に逆らい時計の振り子のように左右に動いて、木刀のように痩せ細ったキヌの脛骨をコツコツ叩く。脚が前に出ない。

「このスイカめがッ」

袋にめがけてそう罵ったとき、そのスイカが宙に舞い、辺り一面に真っ赤な果肉を飛び散らして跡形もなく消えさる様が頭に浮かんだ。その途端に、思いっきり背中をたたきのめされたような、胃袋の中身が逆流してくるような息苦しい不快感に襲われた。あとは、右にふらり、左によろりと腰が定まらない。それでもキヌは、ビニール袋を手から離さず両足に鞭打つ。ゴールまであと一息・・・と。「く」の字に屈んでいた図体は、「つ」の字に折れ曲がっている。

 [改ページ]

ところが、二メートルも行かないうち信号は赤になった。停車位置に待機していた屋根の鬼瓦みたいな面したでっかいトラックや山椒魚のおばけみたいな乗用車たちがキヌにめがけて一斉に蠢きだしたのだった。

「ほんに、あの格好は孫の言うカニの横這いちゅうやつじゃった」

 キヌは七、八分前の自分の這々の態を思い浮かべて、また、吐息をついた。走りたくても走れない足腰のもどかしさは何度思い出しても歯がゆい。

 キヌは、この夏、米寿を迎える。それにともなって、五人の子供と十二人の孫、曾孫たちが集まり心づくしの祝いとやらをしてくれることになった。それが明日に迫っている。同居している長男の嫁は、その日のために朝からスーパーを二度往復していた。それでもなお、

「あれぇ、レタスとパセリがたれへん」

 と、一人ごとを言っては出てゆき、今度はスイカを買い忘れてきたという。キッチンで仏花用にと白や黄色の小菊を揃えていたキヌは、

「仰山買うときはメモしなはれ。ほんまにどんくさいおなごじゃ、秋には娘の婿養子がくるんやろ。しっかりせにゃ」

 跡取りの孫娘に縁談が纏まりかけていた。嫁が、冷蔵庫の前で、また小言かという顔付きをして突っ立ているのを見て、

「ええわ。スイカは爺さんの好物じゃったから、ウチが行ってくる。花だけ供えといて」

 キヌの嫁に対する小言は毎度のことだった。

「仏壇は、ちゃんとしときますけどぉ、スイカは重うまっせぇ」

 嫁の間の抜けたような京都弁にキヌは、なおのこと苛立つ。

「わかってますがな、スイカが重いか軽いかぐらい」

 言うか早いか、しぶっている嫁から、無理やり財布をひったくって、キッチンから勝手口に降り、そこに並べてあった男物の大きなつっかけを引っ掛けると、嫁の声も耳に止めずに外に飛び出していた。


《誰か知った顔は、おらんのかな》

 電柱にもたれたままのキヌは、亀が首をのばしたかのような格好で交差点を眺めている。この状態では自宅に辿り着くまで二十分か悪くいけばもっとかかるだろう、そう思うと、気持ちがますます滅入ってくる。スイカだけならまだしも、八百屋の前にあった本屋で曾孫たちの喜ぶ顔を思い浮かべて数冊の絵本も買い込んでいた。

[改ページ

 向かい側の信号機の手前にいるのは、タイトスカートの中年女性が一人と、一組の男女だった。男性の片腕は女性の背中に回っている。女性の手は男性の腰に密着している。中年女性の腕の中にいるのは赤茶

色の毛糸の玉をほぐしたような毛質の子犬で、その子犬と若い女性は腕の中同士互いににらめっこの状態で向き合っていた。

 しばらくして、秋田犬らしい大きな犬が、その中に割り込んできた。鎖を握っているのは華奢でなよなよとした五十前後の女性だった。黒っぽいサングラスをかけ同色のつばの広い日よけ帽を波うたせている。子犬の女性とは知り合いなのか互いに会釈しあってから、なにやら喋っている風だった。

《風景も人の顔もすっかり変わってしまもうたなぁ》

 と、キヌは思う。

 一昔前ならまだ青田が残っていた。その青田にしゃがみこんで、ヒエを抜いたり肥やしを撒いたりしながら道行く人に挨拶を交わしたものだ。今はマンションやら新興住宅が建ち並んで昔の名残はどこにもない。

《うかうか歩いていると道に迷うて自分の家に戻れんもんな》

 そう思っていたら、信号が青になった。犬の女たちは大きな犬を先頭に若いアベックを追い越し歩調を並べた。後からやってきた自転車の学生十数人が勢いよく、それを追い越しキヌの足元近くを通って走り去り、犬の女は、そのまままっすぐに来て、キヌの座っている目の前に立ち止まった。左に行けば住宅街で、右に行けばマンション地帯だ。

「ほんとに、奥さんのいわはるとおりですわ。なにもこの暑いときにねぇ、べったりひっつかなくてもいいのに。見ているだけで暑さが倍増しますわ」

 そういって首をすくめたのは子犬の女だった。大型犬の夫人は真正面で見ると、、小柄だが思ったより太って見えた。

「そうでしょう。近ごろのお若い方って、どういう神経をなさってるのかとうたがいたくなりますね。開放的でいいのかもでしょうけど、その点から思いますと、宅の息子は、からっきし意気地がありません。結婚だって全く親任せです。お母様の気にいった人ならいいよだなんて・・・」

 大型犬はキヌの顔を一瞥しただけで、口に唾しながら喋っている女主人の顔を見上げている。

「そういえば、お宅のぼんぼん、結婚されるんですってね」

「あら、お耳のはやいこと。実はね、そのことで散々頭をなやましたんですよ。先方のお嬢さんは、お家の跡継ぎなので、入り婿なんですよ、宅の息子は」

「その先方さんって、大層なご景気やと聞いてますよ。貸し倉庫に、貸しマンション、たんとお持ちやそうで、ええご縁やないですか」

[改ページ]

「ええまぁ、それはそうですが、元は農家でしょ。うちは小さくても一応、会社役員ですからね。うまく付き合えるかどうかが心配で。それにね、先方さまには、今年米寿のお年寄りがいらしてね、土地の風習がどうのこうのと、お口がうるそうございましてねえ・・・」

 大型犬の女は、そこまで言ってから、ジロリとキヌを見下ろした。キヌは慌てて視線をそらしたが、女の唇の傍にあった大豆ほどの黒子は見逃さなかった。

《世の中には、よう似た話があるんやなぁ。うちもこの秋、孫娘が婿を迎える。見合いに付き添った嫁が言うとったが、『あちらはんのお母はん・・・唇のそばに大きい黒子がおましたえ』たしか、そう言うとったような・・・》

「まぁねぇ、お年寄りいうのは今も昔もねぇ・・・けど、お齢がお齢だし・・・少しの我慢ですよ・・・でしょう」

 妙な疑問符を残し、オッホホッ・・・と、大きく笑った。その大型犬の女の声を尻目にキヌはヨッコラショとそれも聞えよがしに声をあげて立ち上がった。足元に置いてあるビニール袋を持ち上げて、ふと思う。

《そうじゃ、新興住宅街を突っ切ると、かなり近道になる》

 キヌは歩き出した。

 ところが、その住宅街の出入り口まで来ると、

-私道につき、通り抜け禁止-

 と、大きい立看板がたっていた。

《ここに来るのは、何年ぶりかの。ま、ええっか。一回くらい通してもらおう》

 キヌの心は、まるで手放してしまった愛犬にでも出あったかのような気の弾みと、それとはまた異なった不快感が交錯している。

《なにが米寿のお年寄りじゃ・・・土地の風習がどたらこたら・・・そない気に障る縁談ならさっさとぶち壊したらええんじゃ。うちも、あんたはんがいう農家じゃったが、孫の縁談にまで口出ししとうないわ。それにしても、その米寿のお婆さん、死に待ちされて、哀れじゃの。》

 他人事とは思っても気に障る。キヌは喘ぎながら歩き続けた。

 住宅街は日中のせいか人影もなくひっそりと静まりかえっていた。道の両側には背丈よりやや低めのブロック塀が並び、どの家の軒先にも植えてから間がないと思われる勢いのない常緑樹が小枝を広げている。その先に幼児が乗り捨てたと見える赤い三輪車が二台、白く乾いた土の上にハンドルを傾けていた。

 ビニール袋の紐が掌にグイグイ食い込んでくる。額に流れる汗が両眼にしみる。それでもキヌは地面から伝わってくる熱気に底しれない親しみを抱き、わき目もふらず歩を進める。

[改ページ]

 足の下に羊羹色に肥えた地肌を思う。肌に緑の匂いを求める。ナスやキュウリやトマト、ブロッコリーと、さまざまな野菜の香りを思い浮かべる。

 黄金色に輝く稲穂の群れがオイデオイデをしている。どこからか不意に柔らかな手が伸びてくるような・・・。それをまた思いっきり抱きとめてやりたいような、充実した思いに酔っている。

 大きく吐いた息が、何かにぶっかってコッキン、と、微かな音を立てたかに思った。ちょうど、そのとき、

「チョット、アンタッ」

背中に突き刺さるような声。

「そこはさ、わかってるでしょ、玄関先だってことぐらい」

「そうよそうよ」

「あなたって、いつもそうでしょ。困ってるのよ、あたしたち」

《そうじゃった・・・ここはもう人さまの敷地・・・それにしてもなんと恐ろしい・・・人たちじゃ・・・大勢でよってたかって・・・》

 そんな思いで振り向きかけたとき、目の前の玄関から白髪の婦人が出てきた。片手に柄の長い庭箒を握りしめている。キヌは思わず眼をそらせた。手向かえば向かってくるとでもいうのだろうか。全身に婦人の尖ったような血走った眼を想像した。けれど、辛うじて胸を張った。

《それほど通って悪い道なら、柵でもするといいんじゃ》

 喉を振り絞ったが声にならない。それどころか噛み合わせの悪い入れ歯がコチコチと音を立て始めた。そんじゃ逃げるが勝ち、そうは思ってみても、足の甲部分を豚皮で被った大きなツッカケは、まるで獲物に歯を食い込ませた生き物みたいに地面にへばりついていて微動もしない。それに歯向かうようにビニール袋がカシャカシャと音を立てる。

《なんてことじゃ、知らん街ならまだしも、この住宅地の殆どが爺さんと肩を並べて鍬を奮っておった大事な農地じゃった・・・涙が出るほど懐かしゅうて、一歩、一歩その思いをかみしめて歩いておったというのに・・・そんなウチのどこが悪いというんじゃ。化け物みたいなバカでかいマンションや貸し倉庫やとそんなもん仰山建ててもろうたかて、ウチは、ちぃっとも嬉しゆうない。汗流せる農地が恋しい。贅沢などしとうない。金など要らん。それをウチのあのバカ息子が・・・嫁も嫁じゃ、このまま行けば農地も宅地なみの資産税がかかってきますのやってぇ。いつの日に決まるのかもわからん政治の話など持ちかけて、とうとう一枚の田地も残さず売りはらってしもうて・・・尻叩かれた息子も息子だが、その娘も娘じゃ。一流大学を出た秀才と聞いただけで、就職もしとらんくだらん男との縁談を承知しよって。社長のボンか重役の子息かくわしくは知らんが・・・》

[改ページ]

 キヌは動転していた。足元がゆれ始めて心は千々に乱れた。長閑で、どこまで行っても周囲は田畑だったあのころ・・・隣の家にも自分の家にも生垣はあっても刑務所みたいなブロックの囲いなどなかったあのころ・・・と、思う。

 暖ったかぁい人の情けが、そこにもここにも溢れていたのじゃったと、キヌの記憶は、真っ二つに割れて、そこから訳のわからないないなまぬるい液が流れでてきたかのような妙な心境に陥ってしまった。

「ずうずうしいわね、これほど言ってるのに、何とか返事くらいしてくださいよ」

「無神経な人ね」

 後ろからの声は止まない。

「そ、そんな」

 と、キヌは、震える五体に鞭打ち、恐る恐る後ろに体をよじった。すでに敗北者の心境だった。が、そこに展開している光景が眼に入って一挙に力が抜けおちた。

 誰独りとしてキヌに刃を向けている人はいなかった。

「どうかなさいましたか?」

「どこか、お悪いんですか?」

 しゃがみこんでしまったキヌのそばに走りよってきて、手を差し伸べたのは箒片手の婦人と、たった今まで喚いていた四人の若妻たちだった。その中には幼児を抱えている人やよちよち歩きの子供の手をひいている人もいる。

「いえ、ちょっと、めまいが・・・」

 キヌは、ぼそりと、そんな風に応えたが、若妻たちに取り囲まれていたと思われる女の顔が視野に入って愕然とした。

「きょうの暑さは特別ですね。わたしも自律神経失調症とでも言うんでしょうか、最近は特に眩暈がひどくて、あれまぁ、スイカですか?そんな重いものお持ちになって」

 箒の婦人はキヌの足元に転がっているスイカに目をやってから、さも非難げに眉を寄せた。

「どこからいらっしゃるのか、あの方ね、殆ど毎日なんです。よりによって、この辺りの玄関ばかり目掛けて、ああやってね、犬が糞をしてるのを知らんふりして、掃除もしないで立ち去るんですよ。わたしは、その後始末ばっかりさせられて・・・だから、きょうはみんなで申し合わせて・・・」

「後始末さえしてくださったら、文句はいいませんよ」

「ほんと、後始末をわたしたちにさせないでよ」

 若妻たちも口々に言う。総攻撃を受けても何処吹く風と宙をにらみつけているのは、先ほど、キヌの前で口に唾して喋っていたサングラスの女だった。その女が立っている門の際に、

-犬に糞をさせないでください-

[改ページ]

 と、大きく書いた半紙大の張り紙が眼につく。

 門柱に胴体をこすりつけるようにしゃがみこんでいた大きな犬が、のっしと腰を上げた。

「ネネちゃん、玄関、玄関って、うるさいわね、一歩出たら道なのにさ」

 犬に言ったのか、みんなに聞えよがしに言ったのか無表情を装った女の口から、そんなつぶやきが漏れた。

 キヌの眼には、その上唇の端っこにある黒子が、一層、膨れあがって、でかく見える。

 女は、会釈すらしないでキヌが来た道を堂々と背を張って歩きだした。

 キヌも先を急いだ。

《常識のないおなごじゃな。あんなおなごの育てた息子の顔が見たいわ》

 キヌは毒々しげに独りごちる。その息子が、この秋、自分の義孫になろうとしているのを知るよしもなかった。



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