表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

タマ

作者:

思いつきと勢いで書いてみました。初投稿。

 「落ちもの」という言葉がある。漫画やゲームなどで、ヒロインが空から落ちてきて主人公と出会うジャンルの作品を指すらしい。空から落ちてくる女の子がいるのなら、地面から生えてくる女の子がいてもいいはず、と考えると既に千年以上前に竹から女の子が生えてくる物語が存在するではないか。今の日本のサブカルチャー文化のルーツが千年以上前にあったとは。いやはや先人の教えというものはいつの時代になっても偉大なものである。しかし誰ともわからない竹取物語の作者でも、まさか猫が地面から生えてくるとはまさか思うまい。

 都内の大学に通う櫻井陽汰(ひなた)は朝からそんなことを考えながら、道路脇からこちらを見つめる生物を眺めていた。



 ゴールデンウィークも明け、半袖を着る姿がちらほらと見え始めた五月の半ば。大学という環境にも慣れ、入学したてにはやる気と緊張感に満ちていた学生の気も緩んでくる時期に、陽汰もその例外に漏れることなく寝坊をかましていた。友人に代返を頼む旨を連絡し、身支度をして下宿先のアパートを出ると、のんびりと大学までの道を歩き始めた。

 社長出勤ならぬ教授登校かな。そんなことを眠気が抜けない頭で考えていた陽汰は、路地の角を曲がるとギョッとした。曲がり角から10mくらいの道端に、雑草と一緒に猫の生首が生えていたのである。

「猫、バラバラ・・・?」

 野良猫や近所のペットの動物を刃物で刺して殺す、といった事件が咄嗟に頭をよぎり、周辺を見回してみるが胴や足などほかの部分は見当たらない。改めて頭部を見つめてみるが、目は開いているものの何となく生気を感じられないし、何よりピクリとも動

「にゃ〜お。」

 ・・・いた。死んだ生首だと思ったのはどうやら先入観によるものだったようだ。そばまで近寄ってみると、ちょうど排水溝の割れ目に首から下が入ってしまっていて頭だけが地上に出ている。生首の正体はこれであった。

とはいえ何とも可愛げのない鳴き方をする猫である。 排水溝に嵌まった理由は定かではないが、これ以上かまっていても次の授業まで犠牲になってしまう。そう判断して陽汰がその場を離れようとすると、再び可愛げのない声がして呼び止められた。

「お前、もしかして出れないのか。」

 言葉は通じるわけではないのだが、猫の方もニュアンスを感じ取ったのかこちらをじっと見つめて生首を伸ばしてアピールしてくる。

「しょうがない奴だな・・・」

 そう言いつつも荷物を下ろし、助け出す体勢になる。片膝をついて覗き込むと、10㎝くらいの排水溝のブロックが割れた隙間から生首が覗いている。前足を出すスペースがないために、穴から脱出することができないようだ。

「何で入ったのに出られないんだよ。そもそもよくこんなところに入ったな」

 そういえば陽汰の伯父が子供の頃、二段ベッドの上から落ちてベッドのはしごに首が嵌った話を聞いたことがある。入ったからには抜けるはずなのだが、どう角度を変えても抜けない。結局はしごをのこぎりで切断して脱出した、というオチだった。

 ぼやきながらも袖をまくって隙間から手を突っ込み、胴体を引き抜こうとする。溝の中に張っている蜘蛛の巣やらこびりついている泥の感触にゾッとしながらも前足の後ろあたりを掴むと、一気に引っ張りだした。

 現れたのは、排水溝の汚れでドロドロになった大きな茶トラである。体長も六十㎝近くあってかなりのものだが、それ以上に横にでかい。ずんぐりむっくりの巨体からは、残念なことに猫本来のしなやかさや俊敏さというものが全く感じられなかった。

 そのまま近くにあった公園に連れて行き、汚れた腕を洗うついでに猫も洗ってやる。水は嫌がらないので以前はどこかの飼い猫だったのか、もしくは単に鈍なだけかもしれないが、嫌がって引っ掻かれたりしないのはありがたい。水道の水で大雑把に汚れを洗い落とすと、大きいだけあってそこそこ立派に見えるようになった。

「お前ダイエットしたらモテるんじゃねぇの。猫のイケメン基準は知らんが」

 そう言いながら背中を撫でてやると、腕を舐め返してきた。見ると助け出したときにアスファルトで引っ掻いたのか、擦り傷ができている。

「愛嬌はいい奴め。ありがとな」

 そう言って喉を鳴らしてやると、嬉しそうに鳴く。普段もこの愛嬌で近所のおばちゃんから餌を頂戴しているのだろうか。

 しばらく癒されていた陽汰だが、時計を見ると本格的にギリギリになっていた。このまま午前中の授業を干すわけにもいかないので、そこそこに撫でるのを切り上げる。

「またな。次会ったらささみでも持ってきてやるよ。ダイエットに良さそうだからな.。」

 そう言って陽汰は公園を後にした。



 授業は何とかタッチの差でセーフ。代返を頼んだ友人からどやされながら午前中を終えると、サークルに行くという彼らと別れて生協でパンを買って近くのベンチで食べ始めた。ぼっちの昼ご飯も悪くない。それが一人暮らしらしく手弁当だったりすれば、なお気分も良いのであろうが。

 陽汰は自炊をしていない。

 一人暮らしを始める段階では一通り鍋や調理器具も揃え、初心者向けの料理本も買った。中高の家庭科などではそれなりに調理実習が好きだったし、簡単なものからやっていけば自炊くらい出来るようになるだろう。そのくらいの考えとやる気は、入学前までは持っていた

 だが大学一年の四月というのは、陽汰のような自炊入門学生たちを篩い落とす期間という面も持ち合わせているのである。

 簡単に言えば、サークルの新歓活動だ。

 どのサークルも新入部員獲得のために力を注ぐ。そしていつの時代も、最も新入生が釣られるのは、やはりご飯である。

「新入生はタダ!」「奢りだからとりあえずご飯と話だけでもしていってよ!」

 魅力的な謳い文句で、多くのサークルが新入生を捕まえていく。

 ほぼ毎日何かしらの勧誘行事が行われている四月は、うまくやれば食費はほぼゼロで過ごすことができる期間。先輩からの教えどおりに陽汰も数々のサークルを渡り歩き、毎日歓迎会で遊んで家には寝に帰るだけの生活となった。

 そうして一ヶ月近くを過ごした陽汰に、当然自炊の習慣などつくはずもない。

 せめて周りに自炊仲間でも出来れば少しはマシだったのかもしれないが、あいにく学科の友人は端から諦めた者ばかり。頼みのサークルも、ノリと盛り上がりで入った旅行サークルで、普段遊ぶのは楽しいが大抵集まった後はそのままご飯ないし飲み会という流れが多く、むしろそっちで先輩の奢りにお世話になることの方が多いくらいだった。

 結果一人のときの食事の中心は学食とコンビニ飯。当初は僅かながら働いていたフライパンや鍋も、週に一、二度カレーや焼きそばを作るだけで、後は袋ラーメンのために出てくる程度の体たらくだ。

「自炊しなきゃなぁ」

 そう呟きはするものの、普段しない陽汰の家には食材はほぼ皆無。買い物に寄って帰って作って食べて後片付け・・・と流れを考えると、今日の夜も手軽に牛丼チェーンでいいか、となってしまうのであった。

「はぁ〜・・・」

 ため息をつきながら空を見上げていると、膝の上にずしりと重しがかかった。

「うおっ!」

 驚いて目線を戻すと、大きな茶と黄色の縞々が鎮座していた。

「お前かよ。っていうか学校まで来たのか」

 見てみると、自慢げに蓋のようなものを口にくわえている。

「弁当の蓋?何でこんなもん持ってんだ」

 そう尋ねたところで、また別の声がかかる。

「あ! いたー!!」

 そう言って駆け寄ってくるのは、同じ学科の安達美帆だ。

「櫻井くん!その子!抑えて!」

 何だかよくわからないがとりあえず茶トラを抱きかかえると、美穂が陽汰のところにたどり着いた。

「この猫櫻井君の?」

「違うよー。会ったのは今朝なんだけどさ・・・」

 陽汰は美帆にかいつまんで朝の生首事件を話す。

「へぇ〜。それで仲良しさんってわけだ」

「仲良しかは知らないけど」

「でもしっかり懐かれてるじゃん」

「みたいだね。ところでこれ、安達さんの?」

 陽汰は手に持っていた弁当の蓋を差し出す。

「あ、忘れそうになってた! そうそう。この子がいきなり取って逃げちゃって」

 そう言う美帆の手には、食べかけの弁当が握られている。

「安達さんって一人暮らしだったよね?」

「うん、そうだよー」

「じゃあ自分で作ってるんやね。すごい」

「すごくないよ〜。簡単なのとか昨日の余りだけだし」

 そういう今日のメニューは、卵焼きとアスパラのベーコン巻き、ポテトサラダにミニトマトである。確かに手が込んだものは入っていない。

 だが

「昨日の余りってことは毎日自炊してるってことじゃん。朝もちゃんと起きて作ってるんでしょ。俺四月で自炊挫折したから純粋に尊敬」

陽汰は美帆が学科の女子のグループでお昼を食べているところを食堂やテラスなどで見かけることがある。周りの女子は学食を利用したり購買のパンやおにぎりを食べている子も多い中、美帆はいつも弁当だ。そして視界に入る美帆の弁当は、特別なおかずが入っているわけではないのがむしろ好印象な感じすら受ける。

「そこまで言われると照れるね〜。節約のためには頑張らないとだから」

「いやいや、この卵焼きとかほんと綺麗。さすが!」

「でも逆に料理ばっかりで、課題とかサボっちゃうこと多いなー」

 確かに、美帆が友人から課題などを見せてもらっている姿は目にすることがある。課題そっちのけでハマる程度には、美帆は料理が好きなのだろう。

 そんなふわふわした会話をしていると、膝の上の猫が陽汰の手のパンへと口を伸ばした。

「待て待て。これタマネギ入ってるから」

 猫の口から食べかけのピザパンを遠ざけると、腕に爪を立ててきた。

「いたたたたたたたたたたた! 痛い痛い!」

「うわっ。大丈夫? おなかすいてるのかな?」

「多分ね」

「じゃあこれ、食べるかなー?」

 美帆は手の中の弁当から卵焼きを箸でつまみ上げると、猫の口へと運んだ。

 もちろん頂きます、と言わんばかりの素早さで飛びつくと、陽汰がうらやましそうに見つめる目の前で、綺麗に巻かれた卵は茶トラのお腹の中へと消えていった。目線の先の本人、いや本猫はたいそうご満悦な様子でゴロゴロと喉を鳴らしている。

「喜んでくれたみたいでよかった」

「野良猫のくせに贅沢なんだよ。見てみなよこの腹の肉」

「あれ、もしかして櫻井君も食べたかった?」

「猫に妬くほどいやしくありませんー」

「でもじーっと目が釘付けだったよ?」

 にやにやしながら見つめてくる美帆の視線といじられる距離感が、くすぐったい。

「からかわないでよ。

 でも卵焼きはほんと、久々に食べたくなったかも。今日は久々にごはん作ろうかな」

「お。やる気になりましたな陽汰クン。明日はお弁当かな?」

「それはハードル高いです。修行してきます美帆教官。」

「教官とか、そんな偉くないよー」

 そうこうしていると、美帆に声がかかった。

「美帆ー?何してるのー? 見つかった?」

 一緒に昼食を食べていた女子が探しにきたようである。

「そろそろ食べちゃわないと午後間に合わないね。じゃあまた、今度は修行の成果を見せてくれたまえ陽汰クン」

 そう言って美帆は戻っていった。

 陽汰の方は、四月の初めのように浮き足立った気分で帰りの買い物の算段などをつけつつ残りのパンを平らげた。



 美帆と自炊の件でやり取りをした日から陽汰の自炊熱は再び燃えあがり、その日の夕食はもちろん卵焼き。翌日の朝まで早起きしてみそ汁と卵焼きを作るほど勢いがあった。

 しかし大きな炎は燃え上がるのも早いが燃え尽きるのもあっという間だ。最初の数日は不格好な卵焼きも楽しみのうちだった陽汰だが、一朝一夕では美帆のように綺麗には巻けるようにはならないのが現実である。元々少ないレパートリーもすぐに底を尽き、かといって変わったものを作ろうとしても持たない調味料などを買い足すのも億劫で、 などといううちにモチベーションも下がり気味に。

「最近修行はどうかね、陽汰クン」

「ああ、うん。ぼちぼちかな。でもまだまだやね」

 授業で顔を合わせると声をかけてくる美帆に対しても、ごまかすように返事をするだけ。

 追い討ちをかけるように、昼間の気温が徐々に高くなっていくのと平行して食材の足も早くなり、冷蔵庫の中身が次々とやられていった。

 こうなるとキャンプファイヤー並だった炎もただの燃えかすである。六月に入った頃には、陽汰の食生活は完全に元に戻ってしまった。

 あれからちょくちょく気が向いたように昼時にやってくるようになった茶トラも、最初は出来損ないの卵焼きなどを貰えていたのが、それがなくなってくると毎回不満そうに陽汰の膝の上に座るだけになった。



 そんな六月も十日を過ぎた頃。陽汰は週末のサークルの飲み会から帰ってくると、冷蔵庫を漁った。一応食べてはきたのだが、物足りない。帰りにコンビニに寄ってくればよかった、と後悔していると、卵焼き修行の名残の死にかけの卵が生き残っていた。冷凍庫からは小分けされたご飯も発掘。

 ここで運命の分かれ道が訪れる。死にかけを危惧して卵焼き、せめて目玉焼きにする守備策か。はたまた卵かけご飯に討って出るか。

 下された決断は、突撃。

 卵は常温でも加熱するなら一ヶ月持というし、これは冷蔵庫にあったから余計大丈夫。

 全く大丈夫ではない言い訳をしながらチンしたご飯に卵を落とすと、さっさとかき込んで寝てしまった。

 翌朝。 猛烈な腹痛に叩き起こされた陽汰は、わけもわからずトイレへと直行した。座ると同時に水のような下痢が流れ落ち、便座から離れられない。尋常ではないことに、腹を壊したことは理解できる。だがここまでのものは経験したことがない。とにかく出るものは出すだけ、と割り切った。そして腹の中のものを出し尽くしたと思えるくらいになってようやく下痢は一段落し、脳も覚醒状態に追いついてきた。

 と思いきや、意識がはっきりするのと同時に今度は上から、激しい吐き気が襲ってきた。下痢はないが腹の痛みは相変わらずで、そんな状態でトイレから離れる訳にもいかない。一旦ボウルをキッチンから嘔吐用に持ってきて対応することにした。

 思い当たる原因はどう考えても昨日の卵である。しかし出すもの出してしまえば何とかなるだろう。そう考えていた陽汰だが、食中毒はそれほど甘くはなかった。

 昼過ぎになっても収まらない腹痛と吐き気。特に腹痛は人生で一番と言えるほどの激しさで、動くことすらできないレベルになっていた。

 ここまでくると市販の薬でどうにかなるとはさすがに思えず、かといって自力で病院に行くことは不可能。救急車、という選択肢も浮かんだが、腹痛程度で呼んでいいものかと逡巡し、結局実家に助言を求めることにした。

 かけた電話を取ったのは父親で、事情を聞くか聞かないかのうちに電話口でも縮み上がるほどの大声で怒鳴られた。

「さっさと救急車を呼ばんかアホウ! 死にたいのか!」

 鬼の一声でようやく119番通報。お陰で死に至るのは免れたが、かなり酷かったらしく搬送先の救急病院で四日の入院が言い渡された。

 実家の方では陽汰の連絡後すぐに動き始めたのか、それほど遠くないのもあって入院先を伝えるとすぐに両親と妹がやってきた。ズボラするからだ、あれほど言ったのに、などと手続きなどの傍ら説教がついてくるのは標準仕様。そもそも今の状況では言い訳できるはずもなく、ありがたくしおれて受け取るしかない。

 しかし一通りのことが済んでしまえば暇になるのが見舞客である。他にやることもなく、陽汰もトイレと病室の往復で忙しくて話すこともできないため、言いたいことを言い終えると家族は早々に引き揚げていってしまった。

「可愛い看護師さんにお世話してもらえるし、ラッキーだね」

 と帰り際に妹が余計な一言まで残していく始末だ。



 記憶にある限りでは初めての入院。最初の一日こそ腹痛吐き気との闘いだったが、二日目になると点滴も効いてきて少し症状も和らぎ、三日目にはかなり元気を取り戻していた。

 健康に近づくと暇になってくるのが入院生活というものである。暇な友人を呼びつけて話し相手ついでに漫画などを持ってきてもらうが、肝心なときに薄情な男の友情。病室に看護師さんが来ると病人そっちのけで盛り上がり、それが満足するとさっさと帰ってしまう。全く現金なものである。

 そんな見舞いもひとしきり終わり、暇つぶしも尽きかけた三日目の夕方。四人部屋の開けっ放しのドアから、思わぬ顔がひょこっと表れた。

「あ、櫻井君」

「安達さん?何で?」

 「飯島君たちが、櫻井君が食中毒でぶっ倒れて入院したーって言ってたから、病院聞いて様子見に来たの」

 美帆が出した名前はよく陽汰が一緒にいるメンバーの一人だ。この時ばかりは薄情な友人共に感謝である。

「わざわざ来るなんてびっくりした。ありがとね」

「食中毒は私もなったことあるから。きついのわかるからちょっと心配でね」

 加熱など気をつけていそうに見える美帆にしては意外なことである。

「え、安達さんも卵かけご飯?」

「違うよ〜。お店で食べた牡蠣が微妙に火の通りが甘かったみたいで当たっちゃったの」

 これは失敬。言われてみれば牡蠣の方が食中毒としてはよく聞くネタである。

「っていうか櫻井君、生卵で当たったの?今時珍しいよ!そんなに古いの食べたの?」

「一ヶ月くらいのやつ・・・かな?」

「え、そんなの食べたの? しかも卵かけご飯で?」

 美帆は心配から一転、 もはや呆れ顔である。

「すぐ食べたかったんだよー」

「目玉焼きとかすぐじゃん! ていうか修行じゃなかったのかな?」

 激しいツッコミで痛いところを突かれる。

「ちょっとめんどくさくて・・・」

「だからこんなことになるんじゃん、もうー」

 陽汰からは言い訳の言葉ももう無い。

「まぁ、何となく自炊またサボってそうだなーっては最近察してたけどね」

「え?」

「だってごまかしてる感じあったし」

 どうやら全てお見通しのようだ。

「私も最初続けるのけっこう苦労したもん。コンビニとかの誘惑っておっきいよね。洗い物もいらないしさ」

「それに櫻井君の周り、自炊ガッツリしてそうな感じの人いないじゃん? 私も友達とかお母さんとかと話しながらやっとーって感じだし。そうじゃなかったら続かなさそう」

 やはりつまずくポイントは誰しも同じなようだ。しかしつまずいても転ばなかった美帆は、きっと誘惑に時々は負けたりしながらも自炊を楽しんでいっただろう。

 そんなことを陽汰が考えていると、美帆が思わぬことを口にする。

「と、いうことで。退院して元気になったら、卵焼き、作ってあげるよ」

「え?どゆこと?」

 予想しない方向に話が転がって戸惑う陽汰に、美帆は続けた。

「だって今は食べれないでしょ?」

「そりゃそうだけど」

 陽汰の食事はようやく点滴のみから流動食が加わったところである。

「だから、元気になったら教官から直接指導してあげましょう、みたいな」

「直接?作りにくるの?」

「せっかくならできたてがいいじゃん。猫ちゃんに妬くくらい食べたそうだった卵焼きだしね」

 以前と同じようにニヤニヤしてくる美帆。対して陽汰の方は、美帆が家に来る、ということしか頭に浮かばず、頬が緩むのを隠すので精一杯だ。

 そこでふと、その最初のきっかけを作った主を思い出す。

「そういえばあいつ、見かける?」

「猫ちゃん?いるよー。櫻井君がよくいるベンチでいっつも寝てる」

「そっか。ならよかった」

「なんだかんだ言って、櫻井君も気に入っちゃってるね」

「あんだけしょっちゅう来られたらそりゃ少しは気になるよ」

「素直じゃないなあ。そうだ! 卵焼きの時は猫ちゃんも呼ぼっか!」

「はいはい。うちがペット可でよかったねー」

「ペット可なのか! よくやった陽汰軍曹!」

「それもう何キャラかわかんないし!」

 そんな軽口を叩いているうちに、面会時間の終了を知らせるアナウンスが流れた。

「それじゃ、そろそろお(いとま)しようかな。」

 そう言って椅子から立ち上がる。

「また学校でね。看護師さんといちゃいちゃしすぎてこじらせないようにー」

 最後は定番の文句を残して、美帆は帰っていった。



 陽汰の入院は特に長引くこともなく無事退院。週末を挟んだ翌週の月曜日には、完全に復活した。

 いつも通り昼休みにベンチでパンを齧っていると、一週間何も無かったようにまた茶トラが膝の上へとやってきた。相方が不在だったのも何のその、といった様子である。に

「可愛げのない奴だな」

 そう言いつつパンを千切ってやる。今日の具はツナ。玉ねぎも入っていない。 

 手の中のものに食いつく姿を見ながら、前よりは少し可愛く思えなくもないな、などと思って背中を撫でてやる。

 すると、タイミングを見計らったように声がかかった。

「お二人さん、今日も仲良しですなー」

 夏至間近で張り切る日差しにまぶしそうに目を細めながら、美帆が近づいてきた。半袖から覗く白い腕が眩しい。

「お邪魔してよろしいですかな?」

「どうぞどうぞ」

 陽汰の隣に腰を下ろした美帆は、今日は手ぶらである。

「あれ、お弁当は?」

「済ませてきたよー。そう言う櫻井君は、もう完全復活かな?」

「おかげさまで、元気ぴんぴん!」

「よかったよかった。じゃあお見舞いのやつ、早速やらなきゃだ! 櫻井君のお昼のためにもね」

 そういってパンを齧る陽汰を覗き込んでくる。

「うるさいなー。っていうかお見舞いっていうよりもはや退院祝いじゃない?」

「まあまあ、細かいところは気にしない!」

 それじゃいつにしよっか?今日とかでもいい?」

「また急だね。安達さんはいいの?」

「サークルもないし、暇だもん。櫻井君は?」

「俺も何もない」

「じゃあ決まりだね!」

 にっこりと笑う美帆の勢いで、あっという間に退院祝いの予定が決定した。



 午後の授業が終わると、陽汰の家の最寄りスーパーへ二人で買い出しをに向かう。招待された茶トラも店の外まではしっかり同伴である。

 スーパーは陽汰の家から学校とは反対方向にある。少し回り道、程度ならそれほどでもなかったかもしれないが、スーパーに行く前に家に辿り着いてしまうために足を運ぶのが億劫になってしまう。一旦家で落ち着くとそこから動きたくなくなるのは人の性である。

 それを美帆に話すと

「怠け者」

の一言で一蹴されてしまった。教官は思った以上に手厳しいようである。

 約束の卵焼き以外にも肉や野菜などの材料を買い込み、陽汰の家へと来た道を戻る。意外に思ったのは、それほど食材の量が多くはなかったことである。料理をする人は一週間分くらい買い込むものと思っていた陽汰は少し拍子抜けした。

「だって今の季節そんなに買い込んでも痛んじゃうでしょ」

 帰り道で既に美帆のレクチャーは始まっている。

「ちゃんと毎日作る保証があるなら別だけど、サークルとかもあるからまちまちでしょ? だから、二、三日分作るメニューまで決めちゃって買い物するようにするの。そしたらすぐなくなるから痛まないし、サークルとか挟まってもその次の日にメニューは回せばいいしね。

 慣れてきたらいっぺんに買った方が行くのめんどくさくもないけど、まずは作る習慣が先だしね。」

 二、三日分というのはそいう意味でもちょうどいい量らしい。

 買い物レクチャーが一区切りのところで陽汰の家に到着した。鍵を開けて中に入る。

「お邪魔しまーす.。へぇー、意外と綺麗にしてるじゃん!」

「意外は余計なお世話」

 答える陽汰だが、これを見越して退院後一番最初に大掃除をした。ガスコンロ周りやシンクまでピカピカである。

「嘘。普段からずっとこれだったら合格だけどねー」

 どうやらお見通しのようである。

「今日みたいに誰かちょくちょく呼べば片付けるようになるんじゃないの?」

「いや、どうせ呼ぶの男ばっかりだし」

 サークルや学科の友人で集まる場所として陽汰の家が使われることもあるが、少々汚かろうが男所帯で気にするような奴などいない。ここに女の子の一人でも混じってくるなら全く話は違ってくるのだろうが、生憎そんな浮いた話は大学に入って全くである。女子を含めた飲み会などがあるとしてもそれは外で集まるため、片付けをする意気はなかなか生まれない。

「彼女でも出来れば頑張るんだけどねー」

「ふふふっ。じゃあその彼女さんに食べさせてあげるために、しっかり修行しないとだ、陽汰クン」

 探りを入れる陽汰だが、意識してか無意識か、美帆にはさらりと流されてしまう。その内心を伺うことは出来ない。

「さ、それじゃ始めよっか!」

 美帆が気合いを入れて腕まくりをする

「今日のメニューは何でしょうか、美帆教官」

「何かそれ料理番組みたい。

 今日のメニューは、卵焼き、鮭と野菜の蒸ししゃぶ、キノコの佃煮、ご飯と味噌汁です、陽汰クン」

 言いつつ美帆もノリノリである。

「早速調理の方にいきたいと思います。まずはお味噌汁。」

「それくらい俺だってできるぞ」

 普段ほとんどしないとはいえ、それくらいはやったことある。

「わかってないですねえ陽汰クン。」

 俺はあなたのキャラの方がもはやわからないです美穂教官。

「今日は櫻井君の自炊復活のための特訓でもあるのです!

 料理を、楽しく! 素早く! 毎日! 続けていくコツを教官直々に伝授するのです! いいですか!」

 完全にキャラが変わってしまっているが、要するに料理番組というより即席料理教室、ということらしい。

「はじめに鍋に水を入れて火にかけます。そして沸くまでの間にじゃがいもを剥いて切ります」

 説明しながらてきぱきと美帆は調理を始める。

「ここで大事なのは何でしょう、先生」

「先生じゃなくて教官だよ、櫻井君。

 大事なのは、お湯を沸かしてる間に下ごしらえ、ってとこ。湯がいたり煮たりするのは沸くまでに時間あるでしょ? だからその間でやっちゃうのだ」

「なるほど」

「ちなみに入れるタイミングはわかるかな?」

「根菜と芋類が水から、他のは沸いてから、ですね」

「その通り。火が通りにくいから水から入れてゆっくり加熱するわけですね」

 慣れた手つきでじゃがいもを切り終えると、鍋へと投入。

「続いて、蒸ししゃぶと味噌汁の残りの具材を一緒に下ごしらえです。

 野菜は、キャベツ・もやし・にんじん。」

「野菜は何か決まりみたいなのは?」

「ないです! キャベツじゃなくて白菜でもいいし、キノコとか好きなのを入れちゃっていいです。」

「キャベツはざく切り、にんじんは短冊切り、もやしはそのままで、全部一回水にさらします。そしてフライパンに入れてあげたら、一番上に鮭の切り身。今日は三人分なので三つだね。」

「三人?」

「猫ちゃん忘れてるでしょ」

 そういえば。部屋の奥の窓際で優雅におやすみの茶トラの存在はすっかり頭から抜け落ちていた。

「せっかく招待したんだから、忘れたら陽汰君がご飯抜きだからね」

「それは勘弁。反省します」

「よろしい。じゃあ戻るよ。」

「教官、お味噌汁の方が沸いています」

「はい。ではここで、この蒸ししゃぶのにんじんをキャベツを少し拝借してお味噌汁に入れます。こっちはこれで終わり。後は火が通ったら味噌をたてるだけー」

 ここまで所要時間十分。手際がいいとは感じたが、陽汰は時計を見て驚いた。特別包丁さばきなどが上手い、というわけではないのだが、時間の使い方が効率的なのである。

 そうこうしている間にも美帆の手は淀みなく動いてく。

「さっき準備した蒸ししゃぶに、酒をひとまわしふりかけたら、蓋をして隣で火にかけます。中火くらい。これも後は火が通ったらおしまい。」

「これは簡単だね」

「簡単だけどいろいろ応用もできるからお勧めの一つだよ! 今日は魚だけど豚肉でも鶏肉でもいいし、味噌を中に入れてあげてればちゃんちゃん焼きみたいにもなるし! チーズとかもお勧めだね」

「トマトとかもアリかも?」

「それいいかも! いただきました!」

 図らずもアイデアが採用され、ちょっと得意げな陽汰。

 残るおかずは二品だ。

「お味噌汁の具に火が通ったから、先に味噌を溶いちゃいます。ここで大事なのは?」

「火を止めてから味噌を溶く?」

「正解!」

味噌まで溶いた鍋は、一旦傍に避けてコンロを空ける。

「では、お待ちかねの卵焼きに参りましょう」

「きました本日の主役ですね」

「今日は具材とかは何も入れずに、味付けもシンプルにいきましょう」

「と、いうと?」

「味付けに使うのは、白だし、砂糖、それに塩。この三つだけ。出汁・薄口醤油・みりん・酒でちゃんとするのももちろんおいしいけど、白だしでも全然オッケーだよ!」

それらの調味料を、溶いた卵に合わせていく。分量のベースは、卵2つに対して白だし小さじ1、砂糖小さじ2、塩ひとつまみ。あとは個人の好みで微調整である。

「陽汰君は、甘いのとしょっぱいのはどっち派?」

「断然甘い派! そしてマヨネーズ入れたりするのも好きです」

「それ私も好き! じゃあマヨ入れちゃおっか!」

 時に気分で足しちゃったりするのもまた自炊の楽しみの一つ。基本ができてないうちにこれをやって自爆する人も多いので注意は必要であるが。

 卵焼き用のフライパンを熱して油をひき、いよいよ焼いていく。

「火は強すぎたら焦げちゃうから、中火か弱火くらいでね。油はキッチンペーパーとかでやってあげると横のとこまでちゃんと塗れてくっつきにくいよ」

 念願の卵焼きの実演に、陽汰も気が引き締まる。

「まずは最初、1/4くらいを流し込みます。卵が焼けてきたら、ふつふつーって泡みたいになってくるのね。これをお箸で潰してあげるのがポイント。こうするとムラが出来にくいんだよー

 そして半熟くらいになってきたら、奥から手前にくるくるって巻いてきます。序盤は若干不恰好でも大丈夫。フライ返しとか使ったらやりやすいよ」

 慣れた箸裁きで、フライパンの上の卵が巻かれていく。

「手前まで来たら奥まで全部押しやって、第二弾の卵を流し込みます。この時最初のやつの下にも卵液がいくように持ち上げてあげてね

 あとは同じ作業。ふつふつーってなるのを潰しながら、焼けたらくるくるーって巻いてあげて、奥にやって次の卵ーって具合にね」

 後半にいくにつれて着ぶくれて大きくなっても、美帆はフライパンを持つ左手と菜箸の絶妙なコンビネーションで、割れ目一つ付けずにひょいひょいと返していく。惚れ惚れするような手つきとはまさにこのことである。

「はい、出来上がり」

 皿に乗せて差し出された卵焼きは、綺麗に焼き目のついた黄金色で、ふわふわのその肌から湯気とともに立ち昇る甘い香りが、陽汰の胃袋をくすぐる。

「一口味見する?」

  目を輝かせてコクコクと頷く陽汰を見て苦笑すると、美帆は一切れ切って陽汰の口へ運ぶ。

「はい、どうぞ」

 綺麗な渦巻きを巻いた断面。近づけられると、焼けた卵の香ばしい香りと甘い香りが混じり合い、いっそう芳しさを増す。

 差し出された菜箸にそっと食いつくと、口いっぱいに優しい甘さが広がる。ほんのり出汁の味と、マヨネーズを入れたまったり加減がたまらない。自然と頬が緩んでしまう。

「・・・どう、かな?」

 恐る恐るこちらを伺ってくる美帆。それに対し、陽汰は満面の笑みで答える。

「めっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっちゃおいしい!」

「ほんと! よかったー」

「甘さとかちょうどいいし、今までで一番ってくらいおいしいよ!」

「それは言い過ぎじゃないー? 大げさだよ」

「そんなことないって! うちの母親のより超好みの味です。このふわふわ加減とか本当に最高。」

 幸運気味褒めちぎる陽汰にやや気圧されながら、しかし嬉しそうに照れる美帆。

「あはは、ありがと。」

 しかし、ここで美帆の目がキラリと光った。

「それじゃあ美味しいものを食べた陽汰クン。最後の一品は、せっかくだから君にやってもらおうかな!」

「え、ええ!?」

 突然の振りに、戸惑う陽汰。

「今日は美帆のレクチャーじゃなかったの!?」

「そのつもりだったけど、ほら、講義の後は演習でしょ? やってみるのがなにより大事!」

 強引に包丁を握らせてくる美帆に敵わないことを悟った陽汰は、渋々場所を交代する。

「最後のも超簡単だから大丈夫大丈夫!」

「それは教官レベルの簡単でしょ・・・」

 料理出来る人が言う簡単・お手軽は決して信じられないことを知っている。

「むぅ〜。今日のやつは全部簡単だったでしょ」

「確かに・・・そうだけど」

「いけるいける!

 それじゃ早速いくよー。最後はキノコの佃煮です。材料は、好きなキノコ!好きなだけ!」

「大雑把! 簡単っていうのがもう信憑性ゼロなんですけど!?」

 薄々感じていたが、美帆は料理をしているとキャラが変わるようだ。いつもより勢いがあるというか、テンションが高い。それだけ料理をするのが楽しいということなのだろう。

「そんなに気にしなくていいってことだよ。大体いつも二種類くらいを一袋ずつ使ってます。今日はしめじとえのき。両方石突きを取って、えのきは半分に、しめじはそのままでほぐします」

 美帆から渡された袋を開け、指示通りにほぐしていく。

「小さめの鍋を中火くらいであっためて、ごま油を軽くひいてキノコを入れます」

 ごま油で炒めると、いっそう芳ばしい香りが立って食欲をそそる。

「酒、みりん、醤油を小さじ2ずつ入れて、そのまま煮からめてあげれば完成!」

 あっという間に出来上がりだ。

「ほんとに簡単だった」

「でしょー? ほら、食べてみて?」

 勧められるままに箸で少量をつまんで口に入れる。

「おいしい・・・かも?」

 甘辛い醤油味がキノコから出る旨味と絡んで、ご飯が恋しくなる味だ。ごま油で炒めたのが更にアクセントになっている。

 疑問系がついてしまうのはしょうがない。目の前に料理の鉄人がいるのだから。

 その鉄人が、口を開いてその中をつんつん、と指差す。自分にもくれ、ということらしい。ひとつまみを軽くふーふーしてから、開いた口に入れてやる。

「ん、おいしいよ。」

 優しい笑顔でそう言われると、指示通りに作っただけなのに今までにないくらいの嬉しさがこみ上げてきた。美帆もこの楽しさで料理に()まったのだろうか。

「それじゃ、蒸ししゃぶもちょうどいい感じだし、ご飯にしよっか! 」

 二人分の箸や取り皿を陽汰が食卓に使っているテーブルに準備し、美帆は味噌汁などをつぎ分ける。ご飯の匂いに釣られ、窓際で終始お休みだった茶トラも起きてきた。テーブルに前足をかけて、お腹が空いたアピールをしてくる。

 そして陽汰が茶碗を持って炊飯器の蓋を開けた時、重大なことが発覚した。

「・・・・・・教官。」

「どうしたんだい軍曹?」

「ご飯・・・・・・炊きましたっけ?」

「・・・・・・・・・あ。」



「あーーーーーー悔しい!」

 美帆が座椅子に座ってテーブルに突っ伏した状態でむくれる。

 結局米が炊けるまでの数十分、三人は出来上がった食事を目の前にお預け状態となっていた。茶トラは空腹に耐えかねて意味不明にゴロゴロと転がり始めている。

「せっかく出来立てだったのにねー」

「まぁまぁ、温めなおせばいいんだし、忘れてたんだからしょうがない」

「温めなおしたのは何か気分が違うよ!」

 確かに、出来立ては特別である。わざわざ作りに来て出来立てを供せないというのは、美帆のプライド的にも不満があるのだろう。

「むぅ〜。これはまたリベンジしに来るしかないね!」

「えっ? リベンジ?」

 また作りに来てくれる、ということだろうか。思わぬところで嬉しい予告を貰ってしまい、舞い上がる陽汰。

「陽汰君がレベルアップしたら、中級編があるかもねー?」

 いいように転がされているような気もしなくもないが、目指す目標がある方が長続きするのもまた事実。ここは転がって楽しむ方が勝ちというものだろう。

「超上達して腰を抜かしても知らんぞー?」

「お? 言いますなー。返り討ちにしてあげますよ」

「首を洗って待ってるがいい」

「何このやりとり」

 謎のバトル漫画風の流れに二人して笑っていると、ふと美帆が優しい笑顔を浮かべた。

「でもよかった。陽汰君が楽しんでくれたみたいで」

「ん?」

「最後佃煮作ってる時、何だかんだ言いながら楽しそうにやってたの見て、来てよかったなーって。」

 改まって、それも自分の無意識に出ていたところを言われると、嬉しいのやら恥ずかしいのやらで顔が火照ってくる。言った本人も、少し気恥ずかしそうだ。

 と、ここで、炊飯器がピーッと鳴り、炊けたことを知らせた。

「じゃあ今度こそ、ご飯にしよっか!」

 立ち上がる美帆に続いて、陽汰も再び準備にとりかかった。



 七月。蝉の声とともに夏本番の日差しが降り注ぐ中、楊汰はいつものように校舎の陰へと昼食を食べに向かう。

 美帆による入門講座から復活した陽汰の自炊生活は、追加でレシピを教わったりしつつ、あれから一月近く経った今もマイペースに続いている。週に二、三日は弁当も作るようになっていた。当面の目標は、告知されてはいない美帆のリベンジまでにレシピの一通りのマスターである。

 今日は先客は無し。ベンチに腰を下ろして弁当を広げると、中からやや不恰好さが残る卵焼きが顔をのぞかせた。日々亀の歩みで上達はしているものの、目標達成はまだまだ先のようだ。

 そこへ遅れてやってきた茶トラが、陽汰の横にするりとするりと座る。さすがの巨体も、夏バテ気味なのか若干やつれたように感じる。

 あれから陽汰の家に住み着くわけでもなく、相変わらずあちこちをほっつき回っているようなのだが、弁当を作ってきた日は大抵こうしてお昼をねだりにくる。ささやかではあるが、弁当作りの楽しみの一つにもなりつつあるのであった。

 今日も拙い卵焼きを箸でつまんでやると、嬉しそうに食いついてくる。その姿を眺めていると、ふと思いついて話しかける。

「そういえばお前、ちょっと卵焼きに似てるよな」

 黄色に茶の縞が入った毛並み、ぽってりと栄養を蓄えたお腹は、確かに焼き目のついたふわふわの卵焼きをどこか連想させる。

「卵焼きだから、タマって今度から呼ぶか」

 唐突に決まった名前は、由来の割に王道の中の王道になってしまったが、猫は満更でもなさそうに、目を細めながら陽汰を見上げて、ニャア、と鳴いた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ