名無しの甘味屋さん
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──名前があるというのは素晴らしい。この世にたった一つの自分だけの名前。どんな高価な物もかなわない、とても大切な宝物だと思うよ。
──そうですね、ご主人様。まだ、お名前は思い出せませんか?
──あぁ。あんなに毎日何度も呼ばれ続けていたというのに、すっかり忘れてしまった……。
──あっ、ご主人様、どうやらお客様がいらっしゃったようですよ。お店を開けましょう。
──そうだな。月も星も出ない寂しい夜は、きっとお客さんが来ると思ったよ。まだ若い女の子だね。あの子で何人目のお客さんになるんだろうか?
──そうですねぇ、もしかしたら……。
夜の風が冷たい真っ暗な深夜。岸壁に打ち付ける波の音が下の方から聞こえ、潮の香りを風が運んでくる。暗闇の中で、次第に海に近づいたことが感じられた。
「死ぬにはちょうど良い場所ね……」
制服姿の少女が低く呟き、薄く笑った。
「自殺の名所で死ぬなんてバカにされるかな? でも、そのベタなところが私らしくていいかも……」
少女は道路脇の公衆電話ボックスをチラリと見る。ボックスには『命の電話』の電話番号や自殺をくい止めようとする言葉が所狭しと書かれていた。
「『死なないで!』……そんな文句で私の気持ちが揺らぐはずないじゃない。『死んだって幸せにはなれない』って……今の生き地獄のような毎日よりはマシ。死ななかったら地獄が続くだけ……」
少女は電話ボックスから目を離し、岸壁へと続く山道へ足を踏み入れる。
「そんな安っぽい言葉で私の決心は変えられないんだから」
少女は険しい顔をして口を結び、枯葉を踏みしめながら山道を進んで行った。
岸壁に近づくにつれ道は険しくなり、海から吹き付ける風が強くなる。ゴーゴーという風のうなり、岩を砕く波の音。暗黒の世界はすぐそこまで迫っている。しかし、今の少女には何も恐いものなどなかった。
やがて山道が終わり、視界が開けた。そこは岸壁の頂上。後は深い海の底に飛び込めばいいだけ……。そう少女が思った時、ふと視界の隅に灯りが見えた。こんな人気のない山奥に人家がある訳はない。だが、灯りの方を見ると、そこには確かに一件の家が建っていた。
「……何? こんな所に人が住んでるの?」
岸壁ギリギリに建っている一軒の家。よく見ると、普通の家ではなく看板が立てかけられていた。
「……『名無しの甘味屋』?」
少女は思わず口に出して看板を読んだ。死を選んだ者しか来ないような場所に甘味屋があること自体信じられない。
「何なの? これ、冗談? 自殺者目当てに建てた店とか?」
少女は口を歪めてフッと笑った。家を出て学校に行かずただひたすらここまで辿り着いた。死ぬことしか考えていなかったから、朝から何も食べていない。お腹などちっとも空かなかった。しかし、その店の柔らかな灯りと、看板の優しい文字を見ていると、少女は急に空腹を覚える。
キュルルル、と小さくお腹が鳴った。心は死のうとしているのに、体はまだ明日も生きようとしている。少女はお腹に手をあてた。
「……『最後の晩餐』ね。死ぬ前に何か食べてみようか」
少女は招かれるように、その甘味屋の方へ歩いて行った。
暖簾を押して店の中に入ると、店の奥から甲高い声が響いてきた。
「いらっしゃいませ!」
声と同時に、小さな女の子が元気よく飛び出して来る。小さく円らな瞳、頭の上の方で髪を二つにくくり赤いリボンでとめてある。ちょこちょこと歩いてくる様子は、まるで子犬のようだった。
まだ小学生くらいにみえる。そんな子供が深夜にバイト? しかもこんな自殺の名所で……。少女はあまりにもこの場に似つかわしくない女の子に目を丸くする。
「どうぞ、こちらにおかけ下さい」
女の子はニコニコしながら、少女に席を勧める。店は思ったよりも狭く、テーブルと椅子が一つずつあるだけだ。滅多に人は来ないとは言え、テーブルと椅子が一つずつというのは、少なすぎるんじゃないか、二人ずれで来た時はどうするんだろう? と少女は思ったりする。
不思議に思いながら、少女は言われるまま木造の椅子に腰を下ろした。
「何になさいますか?」
女の子は笑顔を崩さぬまま、少女を見つめて問う。
「……何って……」
少女はキョロキョロと辺りを見渡す。真っ白な壁にはお品書きは書かれていない。女の子もメニュー表を渡す気配がなかった。
「メニューがないじゃない」
「ご注文はお客様がお決めになって下さい。私どもが何でもお作りします」
小学生のくせにやけに大人びた言い方をする、と少女は小さなウェイトレスを横目で見る。彼女はずっとニコニコして、営業用スマイルを崩さない。
「オーダーメイドってこと? それってテレビの真似? 私が言う品なら何だって出せるっていうの?」
少女は女の子の幸せそうな笑顔にイライラし、つい強い口調になる。
「はい! デザートでしたら、洋風、和風、中華、その他どんなデザートでもお作りしますよ、ワン」
「ワンって……」
さっきよりも満面の笑みになる女の子に、完全にバカにされているような気がする。
しっぽがあれば、大きく振りそうな勢いだ。
「あっ、失礼致しました!」
女の子はペコリと頭を下げる。
「久しぶりのお客さまで、ついつい嬉しくなりまして!」
「……」
少女はツンとすまして女の子から視線を外す。幸せそうな顔して笑う人は嫌い! 笑う人間はみんな嫌い! やっぱり、こんな変な店に寄らず、さっさと崖から飛び降りれば良かった……。
「お客様が今まで食べたデザートの中で、一番美味しかったものをお作りしますよ」
ふと、奥から別の声がして、一人の少年がお店の方へ姿を現した。
少女は怪訝な顔つきで少年を見つめた。所謂、坊ちゃん刈りをした、あどけない顔の少年。どう見ても中学生以下にしか見えない。その少年がサロンを着て、まるで店主のような大人びた口調で話し掛けてくる。
「あんた誰よ?」
少女はジロリと少年に鋭い視線を投げかける。
「この店には子供しかいないの? こんな山奥で深夜まで開いてる店なのに……まさか、あんたがこの店の店主って訳じゃないわよね?」
「そのまさかなんですが、実は私が店主なんですよ」
少年は少女のキツイ言い方にひるむ様子もなく、柔らかな笑顔のままで答えた。
「……」
「ご主人様は、こう見えても随分長くこの店の店主をしていらっしゃいますよ」
言葉を詰まらせた少女を見て、女の子が微笑む。
「私をからかってるの?……あんた達まで私をバカにして……」
少女は表情を曇らせ俯く。おかしな店の住人達に呆れて忘れていたが、これから自分は死ぬんだということを急に思い出す。学校にも家にも自分の居場所なんてない。両親は幼い時に離婚して母親と二人暮らしをしていた。中学になったばかりの頃に母親は再婚した。その後、直ぐに母親は妊娠し新しい父親との間に子供が産まれた。
幼い妹と両親。幸せそうな三人の中に、少女は溶け込めないでいた。
──私より妹の方が可愛いに決まってる。私は邪魔者……美人じゃないし勉強もスポーツも出来ない。何の取り得もないんだから……。
涙が溢れそうになる。いじけた自分がとても惨めに見える。
高校に入りようやく親友と呼べる友達に出会え、学校生活は以前より楽しくなった。いつも一緒で何でも話せて、理想の友人だった。そして、少女にも好きな人が出来た。親友と相談して、勇気を出して告白しOKされた時は死ぬほど嬉しかった。
──ほんとに私ってバカ……。
彼の出来た嬉しさで眠れぬ夜を過ごした翌日。親友と彼が腕を組んで目の前に現れた。その瞬間、裏切られたと分かった。何もかも親友と彼の演出。
『あんたって暗いから彼氏なんて出来そうもないと思って、あたしの彼にお願いしたのよ。一日だけ夢を見させてあげてって。良かったでしょ? 楽しい夢が見られて』
親友も彼も面白そうに笑っていた。鈍感な自分が情けなかった。クラス中の笑い者。親友と彼を同時に失い、少女はまた一人ぼっちになった。
それから、少女はよく学校をサボるようになった。制服を着て家を出るが、学校へは行かず夕方まで街をふらついたり、公園で時間を潰したりした。両親も毎日遅くまで仕事をし、母親は妹を保育園に迎えに行って帰る。帰宅は夜の七時や八時になり、少女が学校へ行かなかったことさえ気付かない。
少女は虚しかった。少しは両親が心配してくれるかと思っていた自分が惨めだ。少女はある朝、学校に行く途中いつも乗る電車とは別の電車にのり、行ける限り遠い所に向かった。あてなどなく、ただ死を求めて。そして、気付いた時この場所まで来ていた。
「辛いことがたくさんあったのですね」
頭上で少年の優しい声がして、テーブルにのせていた少女の手がふと温かくなる。少年がそっと少女の手に手を重ねていた。少女はムッとして、顔を上げる。
「何よ! 私のことなんか何も知らないくせに!」
少女は少年の手を払いのけた。
「知ったような口聞かないで! 私は、私はこれから死ぬんだから! ここから飛び降りて死ぬ。死んだ方がずっと幸せだもの」
「……そんなことはないですよ。生きている方がずっと幸せです」
「あんたなんかには分からないわ! 幸せそうな顔して笑っていて! 私よりもっと悲惨な生活をしている人はいるとか、病気で苦しんで生きたくても生きられない人もいるんだから、とかそんな慰めなんか言ったって無駄よ! 豊かな生活でも元気でも死ぬほど辛いことはあるんだから!」
少女は興奮して叫ぶ。
「そうですよ。貧しくても病気でも幸せな人はたくさんいます」
「……!」
穏やかな少年の声は、余計に少女の怒りをつのらせる。少女はサッと椅子から立ち上がった。
「こんな店入るんじゃなかった! 私、もう出ていく!」
「お待ち下さい」
少年は少女の手を優しく掴む。
「その前に、この店で美味しいデザートを食べて行って下さい。まだ、ご注文はお聞きしていません」
「……私、お金はほとんどないわよ。電車代で使っちゃったし、後はどうせ死ぬだけなんだから」
少年はニコリと笑う。
「お代はいただきません。どうぞ、もう一度腰を下ろしてください」
「……」
ようやく怒りのおさまってきた少女は、ゆっくりと腰を下ろした。
「死んでしまっては、美味しいデザートを食べることも出来ません。最後に最高のデザートを食べて行ってください。あなたの思い出のデザートをお作りしますよ」
「……思い出のデザート……」
少女は視線を落とし、じっと考える。幼い頃、両親と三人で暮らしていた幸せな頃。小さなアパート暮らしで生活は決して裕福ではなかったが、母親は休みのたびに少女にお菓子を作ってくれていた。中でも美味しかったのは、母親が作るプリンだ。とろりととろけるような柔らかいプリン。たっぷりとのった甘いキャラメルシロップ……。
少女はそのプリンの味を思い出した。
「ご注文はお決まりになったようですね」
少年が微笑んで答えた。
「えっ……?」
少女は不思議な顔をして少年を見上げる。
「私、まだ何も言ってないわよ……でも、今プリンが食べたいって思った」
「プリンですね!」
小さな女の子が嬉しそうな顔で言う。
「私も大好きですワン。今から直ぐにお作りします!」
女の子はそう言うと、スキップを踏みながら奥の部屋へと消えて行った。少女はその様子を目で追う。
「変な子……あんたの妹?」
「いえ、違います。私の大切な友達です」
少年は微笑むと、どこかから用意してきた椅子を持って来て、少女の向かいに座った。
「デザートが出来上がるまで、少しお話しませんか?」
「私、話は得意じゃない」
「私が話ます。あなたは聞いていてくださいね。一つだけ質問していいですか?」
「何?」
「あなたのお名前を教えて欲しいんです。聞いても宜しいですか?」
「名前? たいした名前じゃないわ。相沢あかね。ごろが良いってだけでつけたような意味のない平凡な名前よ」
「そんなことありませんよ。素敵な名前です。あなただけの素晴らしい名前です」
「あんたの名前は?」
「それが……」
少年は口ごもる。
「どうしても思い出せないのです。」
「思い出せない? 記憶喪失なの?」
「いえ、そう言うわけではなくて、名前を失ってしまったんです」
「意味わかんない……」
「では、私の話を少しだけ聞いてもらえますか?」
少年は言葉を切り、微笑みながら少女を見つめる。そして、静かに語り始めた。
「今からかなり昔のことです。あるところに一人の少年がいました。少年は両親と三人暮らしでした。少年の両親は医者で、少年はかなり裕福な生活をおくっていました。欲しいものは何でも手に入り、人に羨まれるくらい何不自由ない生活でした。けれど、少年はいつも寂しかったんです。両親が家にいることはほとんどなくて、いつも家政婦さんと過ごすことが多い毎日でした。。
ある日、彼は学校帰りに道ばたに捨てられている一匹の子犬を拾いました。その犬は雪のように真っ白な犬でしたが、雨に打たれ今にも死んでしまいそうなくらい弱っていたんです。どうしてもほうっておけなくて、少年は家に連れ帰りました。
少年は両親に犬を飼ってもいいか? と頼みました。しかし、両親は薄汚れた子犬を飼うことを許してくれません。どうせ飼うなら血統書つきの良い犬を飼いなさい。そんな犬は直ぐに捨ててきなさいと……。
その時、少年は初めて両親に反抗しました。今まで両親の言うことには何でも従ってきた大人しい少年の反抗に両親は戸惑い、どう対処していいか分からなかったようです。父親は初めて少年を激しく殴りました。殴った父親も少年も、その衝撃に驚きました。母親はただ立ちつくすだけです。
気付いた時、少年は子犬を抱いて家を飛び出していました。雨に濡れながらひたすら走りました。行くあてなどなかったのです。ただ、少しでも遠くへ逃げたかったんです。
ずぶ濡れになり最後はよろよろと歩きながら、少年はいつの間にか山奥の岸壁に来ていました。腕に抱いていた子犬はぐったりとして、かろうじて息をしているだけでした。
後戻りはもう出来ない。少年はそう感じました。目の前に広がる荒れた海。砕け散る波音。その時、子犬は薄目を開けて少年を見上げました。そして小さく鳴いたのです。
少年は引き返すことも出来ました。子犬は少年に何かを訴えたのかもしれません。しかし、少年に考える余裕はなかったのです。
子犬と一緒なら恐くない……そう思った瞬間、少年は子犬を抱いたまま絶壁を飛び降りていました」
「……バカみたい。そんなことくらいで死ぬなんて……」
少女は低く呟くが、今、まさに自分も岸壁から飛び降りようとしていることに気付き口をつぐんだ。自分が死ぬ理由は、少年と大差があるのだろうか? 少年が海に飛び込む瞬間の映像が鮮明に目が浮かび、軽く目眩を覚えた。
「少年は一瞬にして自らの命を絶ってしまいました。命の尊さや大切さなど考えもせず、ほんの一時的な感情で死を選んだのです。海の底に落ちた少年はその瞬間、大事な二つのものを失ったのです……」
しばらく、二人が黙っていると、奥の方から明るい声が聞こえてきた。
「出来ましたよー! お客様ご注文の手作りプリンです」
女の子がお盆にプリンを乗せ、鼻歌を歌いながら運んできた。その場の沈んだ空気がいっぺんに明るくなる。女の子は少女の前にプリンをちょこんと置いた。
「……私が昔食べたプリンの味なんて知らないでしょ」
少女はそっけなく答える。何の変哲もないない普通のプリン。だが、そのプリンを見つめているうちに、少女の心の奥で何か温かいものがわき起こってくる。
「どうぞ、ご遠慮なくお食べ下さい」
躊躇している少女に、少年は優しく告げた。
「これは間違いなくお客様がご注文されたデザートですよ」
「……」
少女はスプーンを手に取ると、そっとスプーンですくって口に入れた。
「あっ……」
じわじわっとプリンが口の中で溶ける感覚と同時に、幼い頃の思い出が鮮明に蘇ってくる。両親と小さなテーブルを囲んで食べた懐かしいプリンの味。両親の笑顔とともに、幼い自分の笑い顔も浮かんでくる。満面の笑み。自分もあんな風に楽しそうに笑えたのだ。 少女はスプーンを握りしめたまま動けなくなった。どっと瞳に涙が溢れ出し、次から次へと流れ出す。涙はポタポタとテーブルの上に落ちていく。
「だ、大丈夫ですか!?」
女の子は驚いて少女の顔を覗き込む。少女は涙を流しながら、頭を左右に振った。
「ううん……私、最近笑ったことも泣いたこともなかった」
少女は両手で顔を覆って泣き続ける。
「私、とっても幸せだったんだって思う……両親に愛されてた……」
「今だって、ご両親はあなたのことを愛していますよ。今頃、とても心配されている」
「……私、まだ死にたくない……家に帰りたい」
自分のことしか考えていなかった。夜も寝ないで心配している家族の様子が目に浮かぶ。少女はテーブルに突っ伏して泣いた。
「大丈夫、今からでも間に合いますよ」
「どうやって帰るの? ここがどこかも分からないし、お金なんてない……」
「大丈夫、この店を出ればタクシーが待っています。お金の心配はいりません」
少女はゆっくりと顔を上げ少年を見つめる。
「ごめんなさい……後で必ずお金は払います」
「いいんですよ。多分、あなたとお会いすることはもうないと思います」
「え……?」
「あなたの名前、相沢あかねさんという名前、大切にしてくださいね。もし、ここから飛び降りてしまっていたら、大切な命と名前をなくすことになっていました」
きょとんとしている少女に、少年は優しく言った。
「あなたの名前は……? もしかしてあの話の少年って……」
「そろそろ、夜が明けて来ました。あなたはもう店を出た方が良いですよ」
少年は少女の質問には答えず、静かに言った。
少女がその店を出た時、東の空が明るくなり夜が明けようとしていた。岸壁の下から岩を打ち付ける波の音が聞こえてきたが、昨夜ほど海は荒れていない。
東の海から昇ってくる太陽の光を、少女は目を細めて見つめた。頬を撫でる朝の風は冷たかったが、その冷たさは自分が生きていることを実感する。
と、背後でクラクションを鳴らす音がした。振り向くと一台のタクシーが止まり、運転手が窓から顔を覗かせている。
「お客さんですか?」
「あ、はい……」
少女は急いでタクシーの元に走り寄る。
「いやぁ、こんな山奥まで走ってきたのは初めてですよ。道らしい道さえないんですから。あんた、何しに来たんですか?」
「あ、私は……?」
少女はさっきまで入っていたお店の方に目をやる。しかし、店があった方角には何もない。山道から真っ直ぐに岸壁に向かって道が一本あるだけで、店など建てられるスペースさえないのだ。
「……ちょっと海を見に来ただけです」
怪訝な顔をしている運転手にそう言うと、少女はタクシーに乗り込んだ。
──ご主人様、良かったですね。また一つ命を救うことが出来ましたね。
──お店に入ってくるお客さんなら、大丈夫だよ。まだ、生きることに興味を持っているんだ。お店にも気付かない人は残念だけれどね……。
──ご主人様、私の計算が間違っていなければ、あの方がちょうど百人目のお客様だと思います。とうとうこの日が来たんですね! ご主人様も、お名前を取り戻すことが出来たのですよね?
──あぁ、百人の命を救うことが出来れば、失った名前を返してもらえる約束だったからね……けど、私はまだ、この世界に残っていようと思う。まだまだ救わなければならない命はたくさんあるような気がするんだ。
──そうですか。それじゃ、私もご主人様のお供を致します。私はご主人様に『シロ』という名前をいただきました。ご主人様のお名前も知りたいです。
──いつか名前を取り戻せる日もくるだろう。それまで私は『名無し』のままでいることにするよ。
朝靄の中、山道を走る一台のタクシーを見送るように、二つの小さな光が空を走った。 了
実は「甘小説」企画に投稿しようと考えていた作品です。その時は他の作品を書いていて参加出来ませんでしたが、「名小説」でも書けるんじゃないかと思い、投稿しました。シリアスとコミカルとほのぼのをミックスしたような作品となりました。^^; 自殺を決心するのも、思いとどまるのも、ほんのちょっとしたきっかけなんじゃないかと思います。
自分の名前は好きじゃないと思うこともありますが、命とともに大切にしたいなと思います。




