中編
堂に戻ると栄蓮は座して目を閉じた。
己自身を立たしめ、我を忘れさせるおなご。
強く念じると瞼の裏にさまざまな女が現れた。
小僧時代に師匠の目を盗んで一緒に遊んだ女童。
樵の娘。
夜這いを仕掛けた名も知らぬ村娘。
祭りで舞を奉納する美しい女。
大路で見かける行商の女。
春を鬻ぐ厚く白粉を塗った女たち。
ある者は栄蓮に笑いかけ、ある者は声なく口の形で何かを語り、
ある者は尻を見せて駆け去り、ある者は上目遣いにただ見ているだけだった。
栄蓮は女たちの幻に幾度か手を伸ばしては、その都度躊躇った。
気を昂らせ己を擦れば、血潮は容易に奔流となり理性を押し流す。畢竟この若さを以ってすればどの女でも抱く気になれた。しかし栄蓮が求めるのは擦ることも触れることなしに、ただその姿を一目見るだけで己を屹立せしむるおなごだった。
そのような女には会ったことがない。
栄蓮はさらに念じた。
記憶が呼び集めた幻の数々を今度は仏師の目で執拗に見る。
頭の天辺から爪先まで、前から後ろから、右から左から、彼方からすぐ目の前から。
衣を着けたまま、衣無しの裸形。
これは要らぬ。
これも要らぬ。
仏師の目はそれら幻を切り刻んでは相応しくない部位を容赦なく打ち捨てていく。
女童の大きな黒目がちの瞳。
樵の娘の鹿を思わせるか細い足首。
月明かりを頼りに探った村娘のしっとりと手に貼りついてくる肌。
扇を持つ舞姫の白く嫋やかな指先。
行商の女の、炎天をも照り返す艶やかな漆黒の髪。
春を鬻ぐ女たちの、ゆるゆると動いて男を誘う丸い尻。
最後にこれだけが残った。
栄蓮は片目を開けた。
目の前には皮を落とし輪切りにされた檜の胴がある。
木でありながら、人の、それも女人の肌を思わせる甘やかな白さを湛えている。
仏師の目はその中にぼんやり浮かぶ蔭を見た。
そこに栄蓮は頭の中に貯めていた女たちの選りすぐった部位を足した。
現実には同時に存在し得ないそれら部位は、木の中で次第次第に蔭と混ざり合い収斂していき、遂にははっきりした一人の女体を形作るようになった。
このおなごなら抱けるだろうか。
出来上がった蔭の女体を前に栄蓮は自問した。
抱ける。
いや、是非とも抱きたい。
栄蓮はかっと残りの目も開いた。
すぐ側に揃えて置いていた鑿と木槌を手に取り、構える。
女が、木の中から栄蓮を差し招いていた。
『早う妾を此処から出してくれぬか』
声さえ聞こえたようだった。
栄蓮は鑿を木肌に当て、木槌を打ち付けた。
寺は堂で像を彫る栄蓮に一人の小坊主を付け身の回りの世話をさせていた。することは他の僧の世話とほぼ同じで、日に二度食事を運び、三日に一度掃除と汚れ物の始末をした。
しかし仏像を彫り始めてから栄蓮は堂の戸を閉め中に引き篭もり、小坊主が食事を運んでもほとんど手をつけずに返すようになった。
心配した小坊主が声をかけても応えようともしない。戸の隙間から覗くと、やつれて落ち窪んだ眼窩から目だけをぎらぎら光らせ、昼夜なくただただ鑿を振るう姿が見えた。
そして。
一月ほどが過ぎたある日、鑿を打つ木槌の音が止まった。
寺院は信仰の拠り所であるだけでなく、宿泊場所として主に貴族たちにその門戸を開いている。
栄蓮が歓喜天を彫る寺も例外ではない。
藤原家を後ろ盾に持ち、一門の者ならびに縁ある貴族たちが方違えや加持祈祷を理由にこの寺に逗留しては宿坊より望む四季折々の景色と夜闇遥か先に点々と浮かぶ都の灯を愛でていた。
数日前より寺には一人の男が逗留していた。
男は他の貴族たちがするように朝は僧に習って勤行をし、昼は僧正の講話を聞き、夕べは経の書写に励んだ。
そして一日で飽きた。
「つまらん」
従者に向かって男はぼやいた。
「せっかく都を離れたのにこれでは宮中と変わらないではないか。景色も一度見ればじゅうぶんだ」
「物見でしたらすぐにでも都にお連れ申し上げますが、この度の逗留は方違えのためでございます。占者の申した期日まではどうかご辛抱下さいませ」
男は小さくため息をついた。
「ここに美しい女でもいれば無聊の慰めになるのだが。どこを見ても坊主ばかり」
「寺故に「かみ」無きは仕方ございませぬな」
従者は慣れた調子で主の愚痴に頓智で返した。
その朝。
不承不承勤行をしていた男は物音に瞑想を破られた。
「外が騒がしいようだが。何が起きた」
「調べてまいりましょう」
従者は宿坊を出、しばらくすると戻ってきた。
「何でも妖かしが現れたとか。小坊主が一人と中方の僧が一人、誑かされて衣を脱ぎ裸で伽藍を走り周っておったそうです」
「裸で、か」
男は声を上げて笑った。
「日頃 厳しく仏の教えを説く坊主どもが無様に走り周る姿、是非見たかった」
「左様でございますな」
景色は見事ではあるが戒律の厳しい宿坊生活に主同様に閉口していた従者はその言葉に同意した。
「ときにその妖かしは。もう逃げたのか」
「いえ。堂に閉じ込め、高位の僧が戸口で調伏を試みているところです」
男は目を輝かせた。
「ぜひ見てみたい。その堂とやらへ連れて行け」
「お勤めのほうは」
「こんなもの、どこから始めようがどこまで終えようが分かりはしない」
男は経を投げ出すと従者を追い立て部屋を後にした。
「危ないのでここから先へは行ってはならぬ」
堂の近くまで来たところで一人の僧兵が男と従者を呼び止めた。具足と頭巾を身につけ武具を持ち、これから戦に向かうような出で立ちをしている。
「構わん。我らは妖かしを見に来たのだ。多少の危険は承知のうえである」
「どのような危険か分からないから止めておるのだ」
勤行のために地味な身なりをした男を見て下級貴族と思ったのか、僧兵は居丈高に声を荒らげた。
「今、この寺はさる高貴な方をお迎えしており、その御身を守るために宿坊のみならず、境内をも一間ごとに衛士を立てぐるりと囲っている。それにも関わらず妖かしは我々の警護を嘲笑うかの如く堂内に現れたのだ」
「妖かしとやらはどこに」
男は背伸びをして僧兵の肩越しに堂を窺った。辺りの物々しい雰囲気に気圧された様子は全くない。
「今も堂の中におり、既に一人殺られたと聞く。行ってはならぬ」
「それを聞いて是非とも見たくなった」
従者に目配せすると、男は僧兵の脇をすり抜けた。
「こら、戻れ」
「心配は無用だ。ひと目見たらすぐに戻る」
意気揚々と先を行く男の後を追いつつ、従者はちらりと振り返り僧兵を小さく拝んだ。
堂の外には護摩が焚かれ数人の僧が炎に向かい朗々と声を張り上げ読経をしていた。男と従者が堂の前に立つと、その中央に座していた初老の僧が読経の輪から離れ側に来た。
「これは見苦しい所を。お恥ずかしい限りでございます」
「構わぬぞ、僧正。私は妖かしが出たと聞いて見に参っただけだ。申してみよ、どんな妖かしだ」
初老の僧は男の言葉に眉を曇らせた。
「それが。まともに見ると妖気に当てられると聞いて、堂の戸を閉めたままにしております」
「見てもいない物相手に祈祷を上げていたのか。ならば私がこの目で確かめてやろう」
従者が慌てて止めようとする前に、男は堂の戸に手を掛け一気に引き開けた。
粗末な板の間には木屑が雪のように積もっていた。
「何だここは」
「仏師が工房に使っておりました」
男の背後で僧正が小声で言い添える。
「なるほど。檜のよい香りがする」
「主上、あれを」
従者が指差す先に、木屑に半ば埋もれるようにして何者かがひれ伏していた。
薄暗い堂の中で、まず白い肌が目についた。
その者は袈裟を纏い、俯くうなじから流れた黒く艶やかな髪がその体を伝って板の間までうねっている。
「そなたが妖かしか」
男が声をかけると髪の奥から返事があった。
「わたくしは妖かしではございません」
か細い、鈴虫の羽を擦り合わせたような声だった。
「ならば何者か」
声は沈黙した。
「構わん面を上げよ。顔を見ないことには話にならん」
男が強く命じると、その者はびくびくと肩を震わせながら顔を上げた。
「何と」
その姿を見て男はうわずった声を出した。
裸に袈裟を羽織った女が男を見上げていた。
「仏に仕える者の装束を何と心得る。寺を愚弄するつもりか。脱げ」
「僧正様、何卒主上の御前では」
激高する僧正を従者が小声でなだめる。
「何という美しさだ」
男は気がつかぬうちに二歩三歩と足を進め、女のすぐ目の前に立っていた。
「そなた名は何と申す」
女は童女を思わせる黒目勝ちの目を大きく瞠り男を見返した。瞬きすると風が送れそうなほど睫毛が長い。
「わたくしは…」
形のよい唇が開いて優しげな音の声が漏れ出る。
男は堪らず膝をつき、女ににじり寄った。
「主上。ここは寺にございますぞ」
僧正の言葉と後ろから袖を持つ従者がなければ、そのままこの場で女を押し倒し思いを遂げていただろう。
「どうかお気をつけあそばせ。この者、隙あらば食らいつくかも知れませぬゆえ。あのように」
従者の視線の先に広げた一枚の布があった。
大きく開いた男物の衣である。
衣は人型に盛り上がっており、見ると裾のところから足首が突き出ていた。
「あれは…死人か」
僧正は衣に向かって合掌した。
「この堂で寝起きしていた仏師にございます。恐らくはこやつに殺められたものかと」
「わたくしはそのようなことは」
「黙れ、妖かしめが」
か細い声で否定する女に向かって数珠を振り上げ僧正が一喝した。
「妖かしでないのなら、何者だ。どこから参った」
男の問いに女は項垂れ小さくかぶりを振った。
「わたくしは…わたくしは…気がついたらこうしておりました。この姿で。今、身に着けている袈裟は御坊様に頂いたものです」
「世迷い言を申すな。お前が妖術で誑かしたに違いない」
僧正が再び数珠を振り上げる。
「本当です。どうか信じてくださいませ」
女の瞳が潤んだかと思うとたちまち大粒の涙が湧き上がり零れ落ちた。
唇を震わせすすり泣く女の嫋々とした声に男は思わず女に手を差し出した。
「触れてはなりませぬ」
女が男の手に向かっておずおずと手を伸ばすのを見た従者はすかさず両者の間に割って入った。
「女よ、その身を辨えよ。この御方は帝にあらせられる。方違えでこの寺にいらしたのだ」
帝、と聞いて女はひどく取り乱した。
「わたくしは、その、歓喜天を、その…申し訳ございません」
跳ねるように後ずさると白く嫋やかな両手を床に付き、額を擦りつけるほど頭を下げる。女の動きに合わせてその長い黒髪ものたうち、僅かに差し込む光を受け艶々と照り輝いた。
「ご覧あれ。歓喜天の名を畏れて妖かしが苦しんでおる」
「否、帝の威光に打たれたのでございましょう」
男の後ろで僧正と従者が言い募る。
だが、男は女の奇矯な振る舞いは全く気にならなかった。寧ろうずくまったときに突き出された尻の丸みやほっそりとした華奢な足首に強く心を奪われ目が離せなくなっていた。
「歓喜天がどうかしたのか」
女に目を落としたまま問う男に僧正がささやいた。
「実は左大臣様は主上と中宮様の末永き御幸せを願って仏師に歓喜天の像を拵えさせておりました。ところが仏師はあのようなことになり、彫っていたはずの歓喜天も行方知れずに」
「歓喜天の像はなく、女がここにいた。そういうことか」
「左様でございます」
男の顔がぱっと輝いた。
「もしや、この女は歓喜天の化身ではあるまいか」
その言葉を聞いた女は顔を上げた。
細い眉を微かにしかめ、苦悶の表情を浮かべている。
「…そんな…まさか」
しかし男の耳には女の呟きは届かなかった。
「間違いない。ここで私がそなたに出会ったのは偶然ではなく、仏のお導きだったのだ。ならば、私は有り難く仏の御慈悲を頂戴するとしよう」
女と自分自身に言い聞かせるようにこう言うと、男は後ろに控える従者を大声で呼んだ。
「馬を曳け。今すぐここを出て都に戻る」
「しかし、迎えの者は方違えが終わるまで山へは」
「待ってはおれぬ」
男は声を荒らげた。
「このまま留め置けば、あの坊主どもはあの女を妖かしと見做し始末するだろう。何としてもその前に救わねば」
堂を走り出た男は質素な身なりのまま寺の主だった僧を本堂に集めた。
「あの女人は私に縁ある者である。都より沙汰あるまで丁重に遇するように」
平伏する僧たちに向かって言い放つ。その中には先ほど男の行く手を阻もうとした僧兵も混じっていた。
そして。
男は従者が曳いてきた馬に飛び乗ると慌ただしく山を下っていった。