前編
「姫様」
御簾ごしに女房が囁いた。
「今宵も主上がお渡りになられます」
その声を聞くと、女は目を落としていた書物を閉じ、薄絹の単衣の襟元を合わせた。
はたして女房の知らせから半時も経たないうちに数人の足音が板張りの回廊を軋ませて近づいてきた。
「お待ち申し上げておりました」
女房が慌ただしく出迎える気配がする。
「姫の顔を見に参った。酒肴は要らぬ」
たちまち女房や小間使いの女童たちは中庭を挟んだ対殿に追いやられ、宿直の侍が回廊の四隅に座するだけとなった。
「嬉子」
御簾が巻き上がると女は前に立つ人影に向かい深く頭を下げた。
「顔を見せよ」
女は声に従い、その顔を上げた。
「会いたかった」
人影は女の傍らに膝をつくと、やにわにその細い肩を抱き寄せた。
「一日とはつくづく長いものだ。どれだけこの時が来るのを待ち望んだことか。嬉子、お前はどうだ」
女は唇に微かな笑みを浮かべ、それに応えた。
「・・・私もお待ち申し上げておりました」
男は灯明の下に置かれた書物に目を留め、拾い上げた。
「これを読んでいたのか」
本を開き、それが漢字のみで書かれているのを知ると、男は感嘆の声を漏らした。
「唐詩か。さすがは寺にいた女子だけある。他の姫どもはやれ双六だ絵合わせだと遊ぶばかりで本など手に取ろうともしないのに。まあ、あの者たちは読めても仮名だろうが」
他の姫、と聞いて、女の表情が強張った。
女が寝殿に連れて来られて以来、男の寵愛は彼女一身に注がれている。そして男の愛情が深まれば深まるほど、女は嫉妬に狂った他の女御更衣たちにいじめ抜かれていた。曰く、この世のものとも思えぬ美貌は男を誑かす凶相である、名の通った家の姫でない、宮中の作法も知らぬのは賤しき出自に違いない、等々、思いつく限りの理由を挙げて彼女らは女をいたぶった。
「しかし、今宵ばかりは本を遠ざけてもよかろう」
たちまち薄絹が肩を滑り落ち、帯が解かれ、女のまろやかな白桃に似た柔肌が露になる。
「嬉子。歓喜天の現身よ」
男はそう呟くとやにわに己の冠を毟り取り、直垂を脱ぎ捨て裸身になった。
「今宵も極楽を見せてくれ」
薄絹の上に横たえられた女は目を閉じ、体の力を抜いた。
摂津の国笹森に栄蓮という男がいた。
仏師としての腕は抜きん出ており、特に檜を使った彫刻ではこの国一と称される師匠の興膳と並ぶとも劣らぬとの評判があった。今年数えで二十歳という若さではあるが、興膳の許しを得て既に弟子を数人抱え、主に師匠の彫る仏を取り巻く童子や神将を造っていた。
師匠と弟子の間柄であっても二人の造る物は似ておらず、興膳の彫り口が直線的で男性的であるのに対し、栄蓮のそれはなだらか柔らかく、殊に彼の彫る童子は見目かたち清らながら、見る者にそこはかとない色気を感じさせた。
ある日、都より興膳のもとへ使者が訪れた。
「帝に献上する歓喜天を拵えよ」
歓喜天とは三千とも言われる観音の一体であり、男女の情交を司る。一般に性を感じさせない肢体の観音の中で歓喜天は肉感的な天女を思わせる形態をしており、古来より恋愛の成就を願って寺院に奉納されてきた。
使者は左大臣藤原朝臣道景の家の者であった。
道景といえば、娘の程子が昨年入内し、今や朝廷で飛ぶ鳥を落とすほどの勢いを誇っている。事細かな説明はなかったが、この献上も程子に関わるものとみて間違いなさそうだった。
使者が帰るやいなや興膳は栄蓮を呼んだ。
「お前、造ってみろ」
簡単に事情を話したのち、興膳は単刀直入に切り出した。
栄蓮はあっけにとられて、師匠の顔を見つめた。
「私が、ですか」
興膳は顎を引いて見せた。
「お前は歓喜天を知っておるな」
栄蓮はうなずいた。
「はい。菩薩さまの変化でございましょう」
「そうだ。では像を見たことはあるか」
しばらく考えてから栄蓮は今度は首を振った。
「いえ、ございません」
歓喜天はその姿形から公の目を憚られ秘仏として寺の奥深くに隠匿されていることが多い。よって腕はあっても栄蓮のような若く身分の低い仏師には見たくとも見るすべがなかった。
「だろうな。だが臆するな。見たことがなければ、お前の思うままに造ってよいのだ」
「私の、思うままに」
「そうだ。歓喜天は見る者の思いを変幻自在に映し出す。物事や道理に囚われぬ若く自由な心がなくては造れぬ」
栄蓮は自分の手を見つめた。
若く自由な心。
手先の器用さを買われ幼い頃より興膳に小僧として仕えてきた栄蓮はこれまで何も考えず一心に鑿をふるって木を削ってきた。
その自分に師匠に勝るものがあるとは。
「儂は、歓喜天を造るにはもういろいろ見すぎて目が濁り、心も枯れ切っておる。それに」
そう言うと、興膳は瓢箪に入った酒を直に飲んだ。
「柔らかいものを造るには、もう指がいかん」
その手先が震え、酒が床に零れた。
栄蓮は平伏して師匠の粗相を見まいとした。
当代一の仏師として名声を欲しいままにしてきた興膳ではあるが、若き頃よりの暴飲が祟り、手の震えや痺れがここ数年顕著になっている。直線を得意とするその技法も、或いは震えが止まる一瞬を狙って打ち込む鑿の鋭さから来るのかもしれなかった。
師匠に代わって見たこともない仏の像を造る。
仏師としての力量を問われる仕事は栄蓮の若い探究心を刺激した。
「できるな、お前なら」
頭上から師匠の声がした。
「さっそく明日から堂に入ります」
栄蓮は床板に顔を押しつけたままくぐもった声で答えた。
言葉の通り、翌朝日の出とともに栄蓮は寺の一角にある小さな堂で仕事にかかった。
仏像は仏師の工房で造られ完成してから寺院なり貴族の屋敷に搬入されるのが習わしであるが、道景はこの像の霊験が高まるようにと、仏師を寺に遣わしそこで像を造らせることにしたのだった。
栄蓮はまず最初に秋の初めに切り出し一冬寒中に曝した檜の大木のなかから年輪が薄く肉色をしたものを注意ぶかく選び、堂に運び入れた。
次に、身の丈程という注文があったため丸太を身の丈に合わせて輪切りにした。
続いて鑿で荒削りにし、余計な部分をそぎ落としていく。この時点で傷や黒ずみのあるものは打ち捨てられる。
たちまち堂の周りに木片と木屑の山が出来上がった。
いつもなら、ここから鑿を小振りのものに替え一気に細部に入って行くのだが、ここで栄蓮は壁にぶつかった。
像の有り様が思い浮かばないのである。
脇持の童子や四天王、十二神将なら彫り慣れていて細部まで頭の中に入っている。仏や観音も師匠の手伝いをして見知っており、実際に勅命を受けたことこそないものの、命ぜられればすぐにその場で彫る自信はある。
しかし。
「歓喜天とは…」
栄蓮は神や仏は彫れても、女体を彫ったことはなかった。
立位にしたものか座位にしたものか、結跏したものか手を開いたものか、それすらも思いつかない。
栄蓮は思いあまった末、堂を出、師匠のもとを訪れた。
気づかぬ間に季節は変わり、初めて訪れた時には雪が消え木の芽がわずかに顔を出すだけだった堂の周囲は花咲き乱れる春を過ぎ、草が高く生い茂り蝉が喧しく鳴く夏を迎えていた。
師匠は病の床にいた。
身の回りの世話をする弟子の手を借りてなんとか体を起こしたが、床を出ることはなかった。
死期が迫っている。
医術の心得がなくとも、乾いてどす黒く変色した肌とや白く濁った目を見れば興膳の病状は明らかであった。
栄蓮は喉の奥が熱くなるのを感じた。
「お前には儂が臥せっていることは知らせなかったはずだが。さすれば‥‥歓喜天が思うように彫れずに苦心していると見た。どうだ」
即座に言い当てられ、栄蓮は深くひれ伏した。
「やはりお前のような生真面目な男には難物かの」
やせ衰えてひとまわり小さくなりながらも興膳のどこか猿を思わせるひょうきんな顔は栄蓮の苦悩を面白がっているように見えた。
「だが儂に聞いても出るものは出んぞ」
もつれる舌でそう言った。
「出る、のですか」
栄蓮はその禅問答じみた言葉が解せなかった。
興膳は側にいた弟子に用事を言いつけ部屋の外に出すと、栄蓮にささやいた。
「お前、あっちのほうは達者であろう」
「は」
「おなごを抱いておろう」
栄蓮はたちまち赤面した。
長年の奉公で見知ってはいるが、未だに栄蓮は興膳の真っすぐな物言いに戸惑わされる。
「‥は。夜這いなら何度か」
「そうだろう。儂などお前の年頃には夜這いの合間に仕事をするようなものだった」
栄蓮は束の間、師匠の病いを忘れ破顔した。
「歓喜天とは、すなわちおなごの中のおなご。一見した男のへのこはたちまち天を衝くという」
師匠の言葉に栄蓮は目を輝かせて身を乗り出した。
「では、型は。型はいかように。菩薩ならば立位も座位もございますし、手の形もいく通りもございましょう」
「まだ分かっておらぬな」
興膳は渋い顔をした。
「観音を作ろうとするから手が止まるのだ。お前は堅く結跏趺坐を崩さぬおなごを抱きたいと思うか。思わんだろう」
「…確かに」
震える指先で興膳は宙を指さした。
そのまま指を動かしていく。
栄蓮の目はその指を追った。
緩やかな線が一時宙に残っては消えていく。
真っ直ぐな彫りを得意とする興膳が舌打ちをし、苦労しながら丸を描いていた。
「これが…胸乳…そしてこれが腹。臍は深く周りがぷくりとしておるとよいな…。尻はむちりとしておって乳と同じように触ると滑々(すべすべ)冷やり…掴んでも掴みきれないほど大きいのが好みだ。こんなおなごに出会うたら、儂のへのこは今でも天を衝くぞ。…おっと、顔の造作をすっかり忘れておった」
興膳はぜいぜいと喉を鳴らし、掠れた笑い声を立てた。
「分かったな、栄蓮。おなごを彫れ。お前のへのこを立たしめ、我を忘れさせるような」
「はいっ」
涙を堪え栄蓮は強く頷いた。