素晴らしき人間たちよ8
朝方の四時、空が白み始めた頃に、明神大社の宿坊の玄関で大きな物音がした。小百合はそれを待っていたかのように、居間から玄関に出てきた。そこには傷だらけのマルベリーが、玄関で両膝を折り、一段高くなっている床に上半身を預ける形で倒れていた。
「帰ってきてくれてよかったわ、そろそろ迎えに行こうかと思っていたところだったから」
小百合が手を貸そうとして近づくと、マルベリーは相手を刺すよう見つめて言った。
「近づくな!」
それでも小百合は近づいて、マルベリーの近くに正座して両手を伸ばした。
「これ以上、わたしに惨めな思いをさせないでくれ……」
今度は一転して、懇願するような調子になっていた。それで小百合は、マルベリーが身体だけではなく、心にまで傷を負っている事を知った。
「大丈夫よ、これ以上惨めになんて、成り様がないわ」
小百合は淡々と言って、マルベリーを抱き起しにかかる。抵抗はなかった。マルベリーはされるがままになって、小百合に背負われると、奥の暗室に連れて行かれた。
小百合はマルベリーを布団の上に寝かせると、その服をパンティ以外は全部はぎ取って傷を確かめた。それでもマルベリーは、小百合のすることをただ呆然と見つめていた。小百合は腹部と右手を酷くやられているのを知ると、腹部の方に漆黒の札を張り付けた。
「……それは?」
「負の力を集める闇のお札よ。吸血鬼は人間とはまったく正反対の生き物だからね、これで傷の回復が早くなるはず」
それから小百合は、マルベリーに浴衣を着させ、それがおわると、いびつに変形しているマルベリーの右手を、多少強引に矯正しながら包帯を巻いていった。さすがに痛いのか、マルベリーは少しだけ顔をしかめた。
「あなたが例の化け物と戦っているのは分かっていたわ。本当は助けに行きたかったけれど、吸血鬼同士の戦いでは手の出しようがなかった」
「……懸命な判断だ。もし手出しなどしたら、わたしはお前を永遠に許さなかっただろう」
「まったく、プライドが高すぎるというのも問題ね」
それからマルベリーの右手は、ほとんど全体が白い包帯に覆われた。小百合は大方の治療を終えると言った。
「あなたが戦っている時に、とてつもない妖気を感じたわ。例の化け物は、貴方とわたしが協力したとしても、倒せそうにはないわね」
「……わたしが人間と強力するなど、有り得ない事だ」
「わたしが言いたいのは、もうそんな化け物に関わるのは止めなさいっていう事よ。どうして敵わないと分かっている相手に向かっていくの? 自殺志願の吸血鬼がいるとは思えないし、そもそもマルベリーのやっている事は、吸血鬼の倫理に反しているわ。自分よりも強い相手に従い、尊敬していくのが吸血鬼だと貴方自身が言っていたのに」
マルベリーは半身起き上がり、両手を組んでそれを額に押し付け目を閉じた。その表情からは苦悩が滲み出ていた。それを見て小百合はさらに言った。
「吸血鬼の本分を無視し、そこまでして自分よりも強大な相手と戦うという事は、貴方の誇りを掛けなければならない理由があるはずよ」
マルベリーは何も言わない。小百合は追及などせずに立ち上がった。
「まあ、貴方がそんな事を、人間のわたしに話すとは思ってないわ」
小百合は出て行こうとして襖に手を掛けた。
「わたしのお母様は、あの男に殺された」
マルベリーが不意に言うと、小百合がはっと振り返った。小百合は表情が少ない少女だが、この時は我が事のように悲愴な顔をした。
「止めようとしたんだ、あのヴォルフロードが女王を倒そうとしていることを知って、止めようとした」
マルベリーはその時の情景をはっきりと覚えていた。それは吸血鬼の永遠ですら消すことの出来ない、深い傷となって心に刻まれていた。
マルベリーは組んだ手を解くと、視線を落としたまま続けた。
「あの男を説得しようとするなんて、お母様も馬鹿な事をしたものだ。千年もの時を生きた人だったのに、あっさりと、簡単に殺された、心臓を一突きされてな。逃げようと思えば逃げられたはずなのに、それなのに、まるで自ら命を差し出すようにして……」
マルベリーは顔を歪ませて、内から押し寄せる苦しみに耐えていた。小百合は襖の前に立ったまま、じっと耳を傾けていた。
「わたしはお母様の事が嫌いだった。あの人は何故か、弱者を気にかけ、助けていた。普通は弱者など見向きもしないものだが、お母様はわたしが生まれた頃から、それが全てであるかのように、弱者の支援に奔走していた。四貴族の恥さらしだと、誰もが笑っていたし、わたしも恥と思っていた。しかし、あんなに嫌いだと思っていたのに、いなくなると空虚だ、まるで心の一部が欠けたようだ、そのくせ重くのしかかってくる、この気持ちは何なのだ……」
「それは悲しいっていうのよ」
マルベリーが顔を上げると、小百合は襖の前に正座してこちらを見ていた。
「悲しい? わたしはお母様の死を悲しんでいるのか?」
「お母さんが死んだら、誰だって悲しいわよ。人間だって、吸血鬼だって、それは変わらないわ」
小百合が言うと、マルベリーはぎこちなく微笑した、まるで痛いのを我慢しながら浮かべたような笑みだった。
「人間の中に吸血鬼にとっての救いがある、お母様は最後にそう言って死んだ、まるで死んだのが嬉しいように微笑を浮べていた、そうして灰になって消えていった」
痛むかのように右手で頭を押さえ、そうすると真紅の瞳が奥から来る熱いもので照り始めた。
「お母様、どうして最後にそんな事を言ったのですか、どうして死して尚わたしを苦しめるのですか、どうして死して笑うのですか、わたしを苦しめるのが楽しいとでも言うのですか…………」
それは誰に訴えるものでもない、マルベリーは心に蟠っていた苦しみを、堰を切ったように吐露していた。いつしかマルベリーの赤い瞳から涙が溢れていた。彼女自身は泣いていた事に気づいていなかったかもしれない。小百合は黙ってマルベリーに近づいて、抱き寄せた。マルベリーは一瞬驚いたが、そのまま小百合の胸に頭を預けて泣いた。
「違うわ、苦しめる為じゃない、お母さんは貴方を愛していたから言ったのよ、愛していたから最後にそれだけは伝えたかったのよ」
「わからない……わからない…………」
マルベリーは泣きながら、何度も同じ言葉を繰り返した。
それからしばらくして、マルベリーは落ち着きを取り戻すと、小百合から離れて言った。
「お前は不思議だな、人間なのに嫌とも思わない」
マルベリーは今までに感じた事のない温かいものに安らぎを覚えた。
「貴方が今成さなければならない事は、お母さんの言った言葉の意味を知ることよ。ヴォルフロードという男の事は、もう忘れなさい」
マルベリーは黙した。小百合の言っている事が正しのは分かっていたが、母の仇を見過ごす事など出来なかった。
「今ここで約束するのよ、ヴォルフロードには手出しはしないと」
黙っているマルベリーに、小百合は諭すように言った。吸血鬼はその誇り高さ故に、一度交わした約束を破る事はない。この場で約束させるのが肝要だった。
「……嫌だ、奴が現れたら、わたしは戦う」
「負けると分かっていても、死ぬと分かっていても戦うというの?」
「知れた事を、母の仇を目の前にして見過ごすなど、誇りある吸血鬼のすることではない」
「じゃあ、どうしても戦うと言うのね」
「くどい」
「わかったわ、ならその時は、わたしが貴方を止める」
小百合の言った事は、マルベリーの理解の範疇を超えていた。彼女がその言葉の意味を整理するのに、少し時間がかかった。
「何だと、本気で言っているのか!!?」
聞くまでもなく、小百合の目は本気だった。マルベリーはそれが分かると、忌々しそうに歯を食いしばり、牙を見せながら言った。
「わたしとお前が戦えば、互いにただでは済まない、それが分かっているのか!? いや、それ以前に、何故お前がわたしを止める必要がある、何の得があると言うのだ!?」
マルベリーは更に食ってかかろうとしたが、小百合の瞳の輝きに撃たれた瞬間に、言葉が詰まった。まるで、いきなり手で口を塞がれたような感じだった。
マルベリーは小百合に見つめられるほどに、何か例えようのない恐れを抱いた。それは強大な敵を前にして起こる恐れとは全く次元が違っていた。心に差し迫るような、全てを見透かされたような、そんな感覚から生まれる恐れだった。
「どうしてそんな目をする……」
マルベリーは思わず口にしていた。小百合の瞳に宿るのは怒りでも悲しみでもない、その瞳の輝きの中に別の世界があるように思えた。
「お母さんの言葉の意味を知ることが、お母さんの死に報いる事だと知りなさい」
マルベリーの心を直に殴りつける一言だった。
『人間を知る事です。そこに、わたしたちにとっての救いがあるのです』
マルベリーは、最後の母の声が聞こえたように思えた。
「お母様…………」
マルベリーは両手を拳にして固く握りしめ、身を焦がすような葛藤に、体を震わせて呻いた。そこへ、小百合が小指を出して言った。
「人間は本当に大切な約束をする時に、小指と小指を合わせるのよ、指切りと言うの」
マルベリーは苦悩の深い顔を上げて、ゆっくりと小百合の方に右手を出す。その白い手は震えていて、その間も葛藤を続けている事を表白していた。
小百合はマルベリーの右手が近づいてくるのをじっと待っていた。そして、二人の手が触れ合うくらいに近づいた時に、マルベリーの小指と自分の小指を合わせてから言った。
「決して約束を違えないように」
「……約束は違えない、誇りにかけても」
マルベリーは観念したかのように言った。小百合は頷くと、微笑を浮べた。
「それでいいわ、後はゆっくり休んで傷を治しなさい」
小百合は電気を消して部屋から出ていった。もう朝になっていたが、マルベリーは心の整理を付けるのに苦心し、なかなか寝付かれなかった。




