素晴らしき人間たちよ6
学校が終わると、マルベリーは神社に戻るなり宿舎の居間に入っていき、お茶の用意をしていた小百合を見下ろした。マルベリーは何か言いたそうな顔で立っていたが、すぐに掘り炬燵に腰を下ろす。黙ってお茶を出す小百合を、マルベリーはずっと不満を抑えたような顔で見ていた。
「怒っているの? さっきの食堂でのことかしら?」
「あれは確かに腹が立った、まったく余計な事を言う。しかし、それよりも気になった事がある」
「何かしら?」
「お前は何故あんな矮小な人間と、いとも簡単に友好を結べるのだ? その上、私邸に招待するなどとても考えられない事だ……」
「矮小な人間って、宮子ちゃんのこと? 別にあんなのは普通よ、人間は知り合って気が合えばすぐに友達になるのよ」
マルベリーは明らかに理解しかねるという顔をしていた。小百合はあえて何も言わずに待っていた。すると、すぐにマルベリーの方から口を開いた。
「お前は相当に強い退魔師だ、それは分かっている。それほどの力を持つお前が、何故あんな小さき者と対等になれるのか、まるでわからん」
「あなたはそんな風に考えるのね、吸血鬼にとって力は絶対的なものだという事ね」
「当然だろう。力ある者が支配し、力なき者はそれを尊敬し服従する、吸血鬼の社会では当たり前の事だ。例え親兄弟、友人でも力に対する尊敬と服従が存在する、そうでなければ、秩序を保つことも出来ない」
小百合は無言でマルベリーの話を聞いていた。さすがの小百合も吸血鬼の社会の事までは知らなかったので興味深かった。
「なるほど、吸血鬼にとって力は神聖なものなのね、宗教的と言ってもいいわね。だから吸血鬼女王という一人の絶対者による統治が成り立つのね、人間の世界では考えられないことだわ」
「人間は力ある者が絶対ではないのか?」
「力をどう定義するかにもよるけれど、基本的には力ある者は周りの力なき者の罠にかけられて追い落とされる事が多いわね」
それを聞いたマルベリーは、深い軽蔑の念をしかめた顔に表白した。
「人間の世界ではそんな事があるのか?」
「そんな事は大昔から当たり前のように行われてきたわ。力のない人間は、悪知恵を使って自分より力のある者の上に立とうとするから、争いが絶えないのよ」
「……信じられん。人間には誇りというものがないのか? それは己の誇りを傷つけるどころか、種族の尊厳をも傷つける行為だ。そんな事を人間は続けてきたと言うのか?」
「それが人間というものよ。でも悪い事ばかりではないわ、力が絶対ではないから、わたしと宮子ちゃんが気軽に友達になれるのだし、だいたい宮子ちゃんは矮小な人間などではないわ」
「あの人間は犬ころのように尻尾を振ってついてくるだけの存在だ」
にべもなく言うマルベリーに、小百合の目が少し鋭くなった。人間を理解しない吸血鬼とは言え、宮子を無条件に卑下する事にいくらか腹が立っていた。
「あなたは上から見下ろしているから、そんなふうにしか見えないのよ。よく考えてみなさい、あなたに近づいてくる人間は宮子ちゃんだけでしょう、他の人間は吸血鬼に対する恐怖を本能で感じていて、近づく事すら出来ないのよ」
「宮子には吸血鬼に対する恐怖がないということか」
「あなたくらいの吸血鬼になると、普通の人間は近づかれただけで無条件に恐ろしくなるわ。宮子ちゃんは恐怖を跳ね除ける力を持っているのよ。それは特別な力などではなく、心の強さとでも言えばいいかしら。あの子なら、マルベリーの求めている答えを教えてくれると思うわ」
マルベリーは視線を落とし、湯飲みの中の緑茶を見つめて考えた。
「……わかった、もう少しあの人間と行動を共にしてみよう」
マルベリーは小百合の示す道に素直に従った。人間の中にこれと思うものを見つけるまでは引き下がれないのだ。人間の事を全く理解しないマルベリーにとっては、小百合の助言だけが一縷の希望とも言えた。
真夜中の境内を強い夜風が通り過ぎる。冷たい風にさらされた草木がうるさいくらいに騒いでいた。マルベリーそのざわめきを耳にしながら、ゴスロリ系白一色の装束で腰の後ろ側に二振りのショートソードをクロスさせて差し、巨大な鳥居の頂上に立っていた。夜空に浮かぶ少し欠けた月は赤く、宵闇には禍々しい気配が潜んでいた。
「奴がいる、まだ存在は感じないが、分かる」
吸血鬼の発達した感覚が、危険な存在の胎動を知らせていた。マルベリーは鳥居の上で、目標が動くのをじっと待ち続けた。そうして半刻が過ぎ、夜風がぴたりと止んだ瞬間に、彼女は背中から蝙蝠の翼を広げた。
「見つけたぞ!」
マルベリーは闇夜に向かって飛び立つ、彼女が境内の森の上を通り過ぎると、翼の起こす風圧で紅葉した枝葉が激しく波立った。
明神大社の周りに民家は少ない。神社から少し離れたところにある杉並木に囲われた国道の向こうに小さな駅とそれなりにまとまった数の家が集まる団地がある程度だ。マルベリーの感じる黒い気配は、団地とは逆の森の方にあった。真夜中の吸血鬼の速さは並ではなく、十数キロの距離を一分もかからずに移動していた。
マルベリーは森林公園の上空で停滞した。
「そこか」
マルベリーが目標に向かって急降下し、着地した。そこは左右が森林に囲まれた歩道で、昼ともなれば家族ずれや恋人たちが散策を楽しむところだが、真夜中ともなると、暗黒に沈んだ不気味なだけの場所となっていた。しかし、マルベリーには良い闇など無いも同然だった。真紅の瞳が闇を見通す。彼女の眼の前で二つの黒い影が動いた。女の細い影が、巨大で異様なものに抱かれていた。
「見つけたぞ、ヴォルフロード」
「何奴か、食事の邪魔をするとは無粋な」
巨大な影の発した低く渋い声色には深い味と響きがあった。影の上の方で真紅の瞳が見開かれた。マルベリーは同じく真紅の瞳でそれを見上げる。影の大きさは雄に二メートルを超える長身だった。
影から開かれた目がマルベリーを見て細められた。そして、女の影が巨大な影からずり落ちて地面に崩れ落ちる。
「ほう マルベリー、生きていたか! てっきりのたれ死んだものと思っていたが」
「この命ある限り、わたしは貴様と戦い続ける」
「あれだけの目に合って、よくそんなことがほざけるものだ」
「黙れ」
マルベリーは叫ぶと同時に二本のショートソードを抜き、右手の剣を影に向かって突きつけた。
「この聖水で磨き上げた銀の剣を、貴様の心臓に撃ち込んでやる」
「よかろう、己の無力さを今一度噛みしめるがいい」
影が白い歯と鋭い牙を見せて笑いを浮かべる。マルベリーは翼を開くと、踏み込みで足元を激震させ、一瞬で巨大な影に肉薄した。
「滅びよ!」
マルベリーの上段からの切り下ろしの瞬間に、稲光のように縦一文字の銀の線が走る。影は背中のマントを右腕の一か所に集めて漆黒の盾を成し、その一撃を防いだ。火花が散って互いの姿を照らし出し、同時にマルベリーの逆手に持った左の剣が閃く。下段から上段へ三日月の輝きが闇を切り裂き、二度目の斬撃が漆黒の盾に打ち込まれた。盾を構えた巨躯が立った状態のまま弾かれて、足下で地面を削りながら十メートル近くも後退させられた。それらは刹那の出来事だった。
「ほお、良い覇気だ! ならば、次はこちらから行くとしよう!」
巨躯の影が闇の溶け込むように消え去った、その瞬間にマルベリーの横に気配が現れる。
「何」
突き出された剛拳に空気が悲鳴をあげた。マルベリーは咄嗟に十字に組んだ二本の剣で、巨大な拳を受け止める。少女の細い体が凄まじい衝撃を受けて吹き飛ばされた。
マルベリーは銃弾のようは速さで後方の林に突っ込み、背中から巨木に激突してそれをへし折った。それでも弾き飛ばされた威力は衰えず、更に何本かの樹木に激突して打ち倒しながら、林の向こう側にある広場の芝生に墜落し、高く土煙が上がった。
「ぐ……この力は……」
陥没した地面の上に仰向けに倒れていたマルベリーは、起き上がろうとして片膝をついた。木に激突したのと攻撃された時の衝撃とで、体が痺れていた。そこへ林を突き抜けて何かがやってきた。マルベリーはその気配に気づいて後ろに飛び退く、彼女の前を錐状に細く伸びたマントが擦過し、乳房の上辺りに横一文字の朱線が刻まれる。マルベリーが手で傷を抑えると、純白の服に血が滲んだ。
「もう終わりか? あまり失望させてくれるな」
後ろから聞こえた声に、マルベリーは背中に水を浴びせられたような冷たさ覚えた。彼女が立ちあがると同時に、横に回り込んでいた影の強烈な蹴りが、腹部にめり込んだ。
「かはぁっ」
マルベリーはくの字に折れて、またも礫のように吹き飛ばされ、先にあった池の水面で少女の体が飛び石のように何度も跳ねた。次で落ちて水に沈むという瞬間に、マルベリーは翼を広げて夜空に舞い上がる。その時に起きた風圧で、池の水が激しく波打ち、水が池の外の方まで洗い流していた。
「くっ、以前よりも力が増している」
「当然だ、人間の生き血を喰らっているのだからな」
マルベリーは声がした方に振り向いた。巨大な影の姿が月光の元に晒されていた。その男は黒衣に漆黒のマントを纏い、背丈は八尺ほどもある巨人であった。肉体の全てが鋼の筋肉という様相で、服の下からも盛り上がった筋肉の形がはっきりと浮き出ていた。真紅の双眸にむき出しの歯からは獣じみた二本の牙があり、それが月光を受けて怪しく輝いていた。漆黒の髪は短く纏まっている癖毛で、筋肉質の体により勇ましい印象を与え、マントの内側が血の色でそれが禍々しさを一層深いものにしていた。
「ヴォルフロード……」
マルベリーが二本の剣を構えると、彼は言った。
「正直言って、自分に力の漲りに驚いているぞ。前に貴様と妖魔郷と人間界の境界で戦ったときは、なかなか手こずらせてくれたが、今では子ども扱いとはな」
「舐めるな!」
マルベリーが電光石火で剣を打ち込むと、ヴォルフロードの右手の爪が伸び、さらに五指の爪と手が一体化して剣と化し、それでマルベリーの一撃を止めた。その瞬間に火花が激しく散って闇を照らす。マルベリーは続けて逆手に持った左の剣で、相手の胴を薙いだが、ヴォルフロードは後ろに引いてそれをかわし、それから忽然と姿を消した。
「そこか!」
マルベリーが振り向きざまに一閃し、銀の斬光が半円を描く。
「ぐおおおっ」
宵に鮮血が舞った。凄まじい速さでマルベリーの後方に回り込んでいたヴォルフロードの胸が横一文字に切り裂かれていた。
「その身に真紅の十字を刻め、ヴォルフロード!」
マルベリーが逆手の剣で下から上に切り上げた後に、ヴォルフロードの腹部から首の下までが縦に切り裂かれ、体に真紅の十字架を刻まれて血を吹き上げた。
「うおおおおっ ぐ、ぐは、ははははっ」
ヴォルフロードの苦悶が途中から痛快な笑いにとって代わり、マルベリーはあまりの異様さに顔をしかめた。そして次の瞬間、彼女の表情は驚愕に染まる。敵に与えた傷が見る間に治癒していったのだ。
「そんな馬鹿な この剣で与えた傷は、すぐには再生できないはずだ……」
「今のは中々の衝撃だったが、無駄だな。対吸血鬼用の武器でも、今のわたしを倒すことはできんよ、人間の生血を喰らい、力を得たわたしを倒すことはな」
巨躯の吸血鬼は、歯をむき出しにして凶暴な笑みを見せ、それから獣が叫ぶような強烈さで言った。
「今のわたしならば、吸血鬼女王にも勝てる」
その声だけで、マルベリーは気圧された。彼の言っていることが嘘ではない事を、嫌と言う程に五感が訴えていた。




