素晴らしき人間たちよ3
聖清学院で一時間目の授業を知らせるチャイムが鳴った。一時間目とは言っても、夕方の五時丁度だった。季節は冬になろうという時期なので、もうこの時間で日は沈んでいた。
ここは小百合の通っている高校である。普通の高校生からすれば放課後という時間になるが、マルベリーの学園生活はこの時から始まった。
聖清学院は県内一大きな私立高校で、その規模は全国でも指を折って数えるほどだった。普通科から全ての学部を合わせると数十というクラスがあるが、定時制高等部は各学年に三クラスずつしかなく、人数も一クラスにつき二十人程度と、マンモス校にしてはこじんまりとしていた。
定時制高等部一年三組では一時間目の数学の授業が始まっていた。定時制高校に通う生徒は、昼間の仕事が終わってから来るような者が殆どで、基本的には真面目だった。中には何人かやる気がなく、音楽を聴いていたりする生徒もいたが、教師は通常の授業よりも短い時間で、それと同じだけの物を教えなければならないので、不真面目な生徒に構っている暇はなかった。
一時間目が始まってから三十分程経った頃、教室の扉が開いて、担任の教師と一緒に絵も言われぬ美少女が入ってきた。生徒達の視線が彼女に集中した。その少女とはマルベリーなのだが、今は聖清学院の制服姿だった。ほとんど小百合の着ていた制服と一緒だが、リボンタイとスカートのストライプが赤だった。聖清学園では学年ごとに色分けがあって、2年生は緑、三年生は青となっていた。
マルベリーは人間たちの視線に嫌悪しながら、酷くつまらぬ物を見る目で、教室の中の物を見ていった。
――おのれ小百合め、人間の学校などに、このわたしを通わせるとは……。
小百合の言った良い考えというのがこれだった。今は時期的に日が沈むのが早いので、吸血鬼のマルベリーでも定時制高校なら通う事が出来るのだ。鋭い犬歯は出来るだけ隠すとして、人間離れした美しさと赤い瞳は人目を引くが、外見は人間そのものだし、よもや彼女が吸血鬼などと常識外れな考えを抱く者などがいるはずもなかった。
「ちょっといいかい、転校生なんだけどね」
丸い眼鏡をかけた五〇代くらいの人のよさそうな担任の教師が言うと、授業は中断した。数学を教えていた教師はやせ形で三〇代前半くらいの青年だったが、彼も生徒達と同様に、マルベリーの常軌を逸した秀麗さに魅了されて目が離せなくなっていた。マルベリーが間近にある視線の気配に振り向くと、数学の教師と目が合った。
「ひっ!!?」
数学の教師は真紅の瞳に魅入られた瞬間に、妙な悲鳴を上げて後ずさった。彼はマルベリーに見られただけで息が止まり、直に殴りつけられたような衝撃を受けていた。
マルベリーはあまりにも脆弱な人間の精神に、嫌悪を通り越してやるせなさを覚えた。こんな人間たちと一緒にいる意味があるとは思えなかった。ましてや吸血鬼女王のように何らかの意義を人間の中に見つける事など、太陽が西から昇るくらいに有りえない事のように思えた。
「それじゃあ、自己紹介しましょうか」
「自己紹介だと!?」
「そうだよ、まずは皆に名前を知ってもらわないとね」
マルベリーは何食わぬ顔で言う担任の教師を殺してやりたくなった。何で人間などに自ら名乗らなければならないのか、しかも大勢の人間の前でである。マルベリーにとっては、辱められているようなものだった。それでも彼女は我慢した。小百合から何があっても人間に合わせるようにと言われていたからだ。
マルベリーは屈辱を耐え忍ぶのに少し時間をかけてから、まったく情のない声で言った。
「…………マルベリー・スコーピオンだ」
それだけだった。その瞬間に、教室全体から感嘆の息がもれた。生徒達はマルベリーを外国から留学してきたお嬢様という印象を持った。そんな人が定時制高等部に転校してくるなど、驚天動地の出来事だった。
教室に広まっていた静寂を破って、急に品のない声がいくつか上がった。最初はマルベリーに向けて、口笛を吹いたり甲高い声で自身の存在を示したりしていたが、それらはすぐに直接的な言葉に変わった。
「かわいいね、どこから来たんだ」
「今から俺たちと遊びにいかね?」
「楽しいところ知ってるんだぜ」
彼らは分かりやすく言うと、不良グループというところだった。マルベリーはそんな人間達を、路上の塵を見るのと同じ目で一瞥してから、担任の教師に言った。
「おい、わたしはどこへ行けばいいのだ」
「あ、ああ、君の席はあの一番後ろのところだよ」
担任はマルベリーの少女に似合わぬ威厳に面喰って、声が震えていた。窓際の一番後ろにマルベリーの席が用意されていた。
マルベリーは颯爽と歩いていきい、自分の席に座った。さっき声をかけてきた不良共など、彼女にとっては存在しないも同然だった。そんなマルベリーの態度を、彼らが快く思わなかったのは言うまでもないだろう。
授業が再開されると、マルベリーはその退屈さに辟易した。
――下らん、何でこんな分かり切った事を今更やらねばならんのだ。
四百年以上生きている彼女にとって、高校の授業など知り尽くした知識を反芻するに過ぎない作業だった。
マルベリーが授業を受ける気などあるはずもなく、前半は始終思いを馳せるように窓の向こうにある闇ばかりを見ていた。単純に授業を受ける気がないのと、全てが分かっていてやる気が無いのとは雰囲気がまったく違い、マルベリーの美しさも相まって、教師は彼女の事をしきりに気にしていた。
やがて一時間目の授業が終わると、五分という短い休み時間が訪れた。これは教師が入れ替わる為だけの時間と言える。定時制高等部の休み時間は通常時の半分しかなかった。普通なら、外国人の転校生などが来たら他の生徒達が集まってくるものだが、マルベリーはどうにも近づき難い雰囲気を発していて、殆どの生徒達は気にはなりながらも話しかける勇気が出せなかった。その中でたった一人、柔らな笑みを浮べながら近づいてきた少女がいた。マルベリーと同じ制服を着て、高校生にしては小柄で、栗色の髪は肩にかかるくらいに長く、カールがかかっていて、豊かで丸みのある髪型が柔和な丸顔をより可愛らしく見せていた。彼女はマルベリーから対角線上にある通路側の一番前の席に座っていた。
「わたしね、幸野宮子っていうの。よろしくね、マルベリーちゃん」
「マルベリーちゃん!!?」
彼女はそんな呼び方をされるとは夢にも思っていなかったので、怒りを通り越して唖然としてしまった。すぐに後に置いてきた怒りが押し寄せて、俯き加減になって歯を食いしばった。
「ぐうっ、貴様……」
マルベリーは目の前の少女を絞め殺してやりたくなったが、小百合に言われた事を思い出して、懸命に自分を抑えた。
――抑えろ、抑えるんだ。人間にとっては、こう言う事が普通なのだろう。それにしても無礼極まりない。
マルベリーがまだ怒りの収まりきらない顔を上げると、宮子は少し怖くなって縮こまった。
「ごめんなさい、馴れ馴れしかったよね。マルベリーさんとかスコーピオンさんって呼んだ方がいいかな……」
「せめてマルベリー様と呼べ」
それを聞いた宮子はくりっとした目を見開き、そのあと教室中を転がるような可愛らしくて明るい笑い声が響いた。マルベリーは笑われて困惑はしたが、何故か嫌な気は起らなかった。
「お前は何を笑っている?」
「だって、様なんておかしいよ~」
「何がおかしいと言うのだ、弱者が強者を敬うのは当然の事ではないか」
「確かにマルベリーちゃんは、わたしよりも強そうだけれど、敬うのはいいとしても、様なんて付けるのは変だよ」
「……人間とはそういうものなのか」
「うふふ、マルベリーちゃんって面白いね」
いつの間にか宮子はちゃん付けを定着させていた。マルベリーがまた怖い顔で睨むと、宮子は胸を撃たれでもしたように両手で押さえて言った。
「ごめんね、もうちゃんは止めるから……」
「かまわん、好きにしろ」
マルベリーは、人間とはこういうものなのだろうと割り切って言った。すると、宮子の顔が笑みで輝いた。その時に次の授業を知らせるチャイムが鳴り、英語の教師が教室に入ってきた。




