素晴らしき人間たちよ26
神社で待っていた瑠李は、ヴォルフロードが倒された事を知ると、二人は妖魔郷の英雄だなどと言いつつ、喜び勇んで妖狐族の長に報告に向かった。
その一方で、マルベリーの容態は重篤だった。小百合は、その事を古都音には悟られないようにして、マルベリーの看病を続けた。吸血鬼にはあり得ない異常な高熱が続いていた。
小百合は、氷水に付けて絞ったタオルをマルベリーの額に置いていた。それを何度か続けているうちに、マルベリーは目を覚ました。
「……小百合、そんな事はしなくていい、わたしはもう助からない」
「諦めては駄目よ」
「いや、これを見ろ」
マルベリーは布団の中から右手を出して見せた。滅多な事では動じない小百合が、それをみて愕然とした。マルベリーの指先から徐々に灰化が始まっていたのだ。もう爪はなくなっていて、白い灰が布団の上に雪降るように落ちていた。
「小百合、もう良いのだ、宮子を助ける事が出来てとても満ち足りた気分だ」
マルベリーは目を閉じると、安らいだ顔で言った。
「もうすぐ死ぬというのに、怖くもなんともない、むしろ充実している、こういうのを幸せと言うのだろうか…………」
マルベリーは気を失った。小百合は目の前で死のうとしている吸血鬼の少女を見て、徐々に怒りが込み上げてきた。
「冗談じゃないわ、こんな中途半端なところで死なれてたまるものですか」
小百合はいつから置いてあったのか、足元にあった小刀を取り上げて鞘から抜き、白刃で手首を切った。たちまち鮮血が流れ出て、腕を伝って肘から赤い雫がこぼれた。
ヴォルフロードとの闘いの翌日、宮子は朝の九時ごろに起きてきた。
「あうぅ、頭が痛い、何か物凄い目に合ったような気がする……」
宮子はぼっとする頭で一階に降りて、小百合に挨拶しようと探し回った。そのうちにマルベリーの部屋の前で、青白い顔で座り込んでいる小百合を発見した。右の手首に包帯を巻いていて、宮子はそれを変に思った。
「小百合さん、なんか顔色悪いけど、大丈夫ですか? 怪我もしてるみたいだし」
「大丈夫よ、ちょっと眩暈がしただけ、宮子ちゃんこそ平気? 痛いところはない?」
「わたしは別に、なんか怖い夢を見ていた気がしますけど」
「そう、ところでちょっと頼みたい事があるのだけれど」
「何ですか~?」
「スーパーでお肉を沢山買ってきてくれないかしら」
「いいですよ~、今夜のおかずはお肉ですね~」
「今夜はすき焼きにしましょう」
「はい、じゃあ行ってきますね」
宮子は意気揚々とスーパーに出かけて行った、吸血鬼に攫われた事などまったく覚えていないようだった。小百合は宮子がいなくなってからも、廊下で休んでいた。
「まったく、世話の焼ける吸血鬼ね、危うくこっちが死ぬところだったわ」
小百合はぶつくさ文句を言いながらも、安堵していたのだった。
ヴォルフロードとの闘いから三日経ってもマルベリーは起きる気配がなかった。宮子たちは心配したが、小百合は全く心配ないと言い切って、幸野姉妹を安心させた。実際のところ、マルベリーは消費しきった体力を回復するのに時間がかかっているだけだった。四日目の夕方になると、マルベリーは自分の部屋から出てきた。この時、小百合は外で境内の掃除をしていた。マルベリーも外に出てきて、憮然とした表情でしばらく小百合を見ていた。
「何か文句がありそうね」
「お前は残酷だぞ、何故わたしを助けた」
「まだ何も分かっていないうちに死ぬわけにはいかないでしょう」
マルベリーは下唇を噛んで、本当に恨めしそうに言った。
「人間のお前にはわかるまい、吸血鬼の命は永遠だ、あんな満ち足りた気持ちで死ねる機会が訪れる事は、もう二度とはないだろう」
「だから死にたかったと言うの? ふざけないで、あなたが死んだら宮子ちゃんはどうなるの、まだ勉強を教えている途中じゃない、お母さんの言う事だって、女王の言う事だって分かっていない、そんな事で安らかに死のうなんて虫が良すぎるわ」
吸血鬼の苦しみの根本は、永遠の命にある、小百合はそれを知っていた。だからマルベリーが苦しむのは分かっていた。それでもあえて厳しく言った、マルベリーに関わる人達の事を考えてほしかったからだ。宮子も事もそうだが、小百合自身、マルベリーを何としても助けたいと思い、多くの血を分け与えたのだ。
マルベリーは諦め半分、喜び半分の気持ちで微笑した。
「今こうして生きている以上、死ねなかったことを悔いても意味はないな。それよりも、お前には礼を言うべきだった」
「分かってくれればいいのよ」
小百合が言うと、マルベリーは暗くなりつつある空を見上げた。その時、死の間際にあった自分の姿と、死して笑いを浮かべる母の姿が重なった。マルベリーは、バラバラだったパズルのピースが瞬時に揃ったような、爽快な驚きと高揚に満たされ、同時に真紅の瞳に止めようのない涙が溢れてきた。
「そうか、そうだったのか……」
マルベリーの赤い瞳から涙が流れた。小百合はそれを見て、何がどうなっているのかは分からなかったが、吸血鬼が大粒の涙を流す姿を初めて見た。その姿には無条件に深く感動されるものがあった。例えるなら、至高の芸術を見た人間が何も知らずとも感動するのに似たものであった。
「分かったんだ、お母様が死して笑っていた、あの姿の意味が」
ヴォルフロードの魔手が迫る、その時、母は思った、幾百年も他人の為に尽くしてきた、ようやく死の瞬間を迎える事が出来る、千年に及ぶ生を清算する時が来たのだ。その様子も、母の気持ちも、今のマルベリーには手に取るように分かった。
「お母様は殺されたのではなかった、死を賜ったのだ。そして幸せな死を手に入れたのだ。だから死してなお笑っていた」
そしてマルベリーは、胸に両手をあてて、目の前に母がいるかのように言った。
「そうだったのですね、お母様」
それを見ていた小百合は、どこかでマルベリーの母が娘に頷いているように思えた。
マルベリーはすぐに涙を払い、いつもの毅然として威厳のある態度で小百合に言った。
「小百合、教えて欲しい、お母様は今どうしているだろうか?」
「わたしは閻魔様じゃないわよ」
「お前の直感でいいんだ、言ってくれ。それでわたしは前に進むことが出来る」
「そうね、今頃は人間に生まれ変わって、優しいお父さんとお母さんの元で、幸せに暮らしていると思うわ」
「ありがとう、小百合」
この時、マルベリーの中にあった母に対する蟠りの全ては消えてなくなった。




