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素晴らしき人間たちよ20

 彼女等が明神大社に帰った時には夜の十時を回っていた。玄関で二人を出迎えた小百合は、沢山のぬいぐるみを抱いているマルベリーの姿を見て言った。

「ずいぶんと楽しんできたみたいね」

「……まあまあだったな」

 マルベリーは小百合から完全に目を逸らして言った。

 それからは、マルベリーは自室に閉じこもって出てこなかった。いつもなら小百合と夜話をする事が多い時間帯なのだが、この時は街で感じたヴォルフロードの気配についてずっと考えていた。彼女は小百合に話そうかとも思ったが、力を格段に増しているヴォルフロードが自分を狙ってくるとも思えなかったし、たまたま近くを通りかかっただけかもしれないと思い、街で感じた気配については忘れる事にした。

「ねぇ、マルベリーちゃん」

 廊下から宮子の声が聞こえると、暗闇の中で考え込んでいたマルベリーは立ち上がって戸を開けた。

「何だ?」

「あう、真っ暗だね、寝ようとしていたのかな?」

「……まあ、そんなところだ」

「よかったら、一緒にお風呂に入らない?」

「風呂だと、お前と一緒にか?」

 マルベリーの表情が強張ると、宮子は肩をすぼめて、今度は小声で言った。

「よかったらでいいんだけどぉ……」

 マルベリーはその場で少し思案して、まあいいかと思って言った。

「たまには風呂に入るのもいいだろう」

「それじゃ、普段からお風呂に入ってないみたいに聞こえるよ」

 実際のところ、新陳代謝がほとんどない吸血鬼は、人間のように頻繁に風呂に入る必要はない。吸血鬼は体に付いた塵や埃を落とす為に風呂を使うのだが、月に一回も入浴すれば十分だった。

 マルベリーは宮子と一緒に平然と風呂に入ろうとしている自分が不思議だった。人間でもいつも側にいる宮子に対しては、その辺りの人間に対するような嫌悪はなく、ごく自然に一緒に風呂に入る事が出来た。宮子前で服を脱いで全裸になる事にも躊躇いはなかった。むしろ宮子の方が少し恥ずかしそうにしていたくらいだ。マルベリーが一切を隠さずにブロンドをかき上げると、宮子が重い溜息を吐いて出来るだけ多くの部分をタオルで隠した。

「うう、マルベリーちゃんが綺麗すぎて、自分の存在が虚しくなるよ……」

「お前だってそう悪くはないと思うが、特に胸の質量は、わたしよりも勝っているのではないか?」

「そうかな? わたし自分の体で胸だけは自信あるんだ」

「そうか、自信があるというのは良い事だ」

 それから二人は風呂場に入り、すぐに宮子が言った。

「背中の流しっこしようね」

「何だそれは?」

「互いの背中をごしごしするんだよ、とにかく前を向いて座って」

 マルベリーが言われた通りにすると、まず宮子は背中を触った。

「わ、マルベリーちゃんの体すごく冷たい」

「あまり体に触れないでほしいのだが」

 マルベリーが言うと、宮子は火にでも触れたような速さで手を引っ込めた。宮子がマルベリーの背中に触ったのは、ほとんど無意識だったのだ。輝くような白い素肌を前にして、本能が突き動かされたという感じだった。

「女の子の冷え症は良くないから、気を付けなきゃ駄目だよ」

 宮子は本気で言っていた。マルベリーには意味が分からなかった。

――冷え症とは何だ? 後で小百合に聞いてみるか。

 宮子がマルベリーの背中をタオルで擦り始める。

「こうやって、お互いの背中を流すんだよ」

「なるほど、わたしもお前に同じことをすれば良いのだな」

「うん、だから背中の流しっこ」

 次にマルベリーが流す番になり、宮子の背中を一つ擦った瞬間に、悲鳴に近い声があがった。

「痛っ!? マルベリーちゃん力入れすぎだよ、痛いよ!」

「そうか、軽くやったつもりなのだが」

「もっとずっと優しくして、背中が剥けちゃうよぅ」

 マルベリーは綿に優しく触れるように、出来る限り力を入れずに宮子の背中を擦った。宮子はそれで心地が良いと言った。

 ――普通に力を入れたら背中の肉が削げ落ちるな。

 マルベリーは恐ろしい事を何気なく考えつつ、宮子の背中に魅入った。

 ――小さな背中だ、人間の少女とは儚い存在だな。

 吸血鬼からすれば、人間の少女は簡単に壊れてしまうカラス細工のようなものだ、マルベリーは、そんな存在が自分なりの埃をもって懸命に闘っているのだと思うと、今までにない感覚を持った。それは驚きに似ているが、もっと深く心を打つ響きがあった。

 三十分程で風呂を出た少女たちは、それぞれ浴衣に着替えると宿坊の空き部屋に電気も付けずに入って月を眺めた。

「はう~、長湯しすぎたかな、のぼせちゃったよ、ここで涼んでいこうよ」

 吸血鬼がのぼせる事はないが、マルベリーは黙って窓から外を見ている宮子の後ろに立った。それから自分も外を見ようとしたその時、宮子の白い首筋が目に入ると、そこに視線が釘付けになり、息が止まった。吸血鬼の超感覚が、風呂上がりの宮子の体温を強く伝えてきた。マルベリーは燃え上がるように熱を持った本能に動かされて、宮子の両肩にそれぞれ手を置いて力を入れた。

「うっ、痛いよマルベリーちゃん」

 痛いとは言っても、指が少し肩に食い込んでいる程度だった。しかし、宮子が振り返ろうとするとびくともしなかった。そして、暗い中で窓に映ったマルベリーの目の赤さが増し、苦しげな息が耳元で聞こえる。宮子は後ろを見てはいけないと思った、恐ろしいのではない、見てはいけないものがそこにあると直感したからだ。宮子は目を閉じてされるがままになった。マルベリーは宮子の肩にキスをするように唇をあてがうと、そこから唇を首筋まで這わせた。その時、宮子の口から甘やかな声が漏れた。それを合図にしたかのように、マルベリーは口を開けて鋭い牙を宮子の首に突き立てようとした、その瞬間にマルベリーは意識を取り戻した。彼女は荒く息を吐きながら、おぼつかない足取りで宮子から数歩離れた。今までの行動は全く無意識と言うわけではなかった、まるで夢を見ているような呆然とした感覚の中で、宮子の血を吸おうとしていた。

「マルベリーちゃん、大丈夫?」

 宮子は心配そうに様子のおかしいマルベリーを見つめた。

「済まない、宮子……」

 マルベリーは口から顔を片手で覆い隠しながら言った。

「わたしは平気だよ、全然気にしてないから」

「宮子、いまの事は……」

「大丈夫、絶対誰にも言わないから安心して」

 宮子は驚くほどにマルベリーの心を理解していた。その事でマルベリーは、いくらか安心する事が出来た。

「宮子、この部屋から出て行くのだ」

 マルベリーの声は弱々しいが、有無を言わさぬ力があった。宮子は言われた通りに部屋から廊下に出て言った。

「じゃあ寝るね、お休みなさい」

 未だに手で顔を覆っているマルベリーは、宮子に背中を見せながら小さく頷いた。宮子がいなくなると、マルベリーは振り向いて窓に寄りかかり深く息を吐いた。

「危なかった、もう少しで宮子を殺してしまうところだった……」

 マルベリーはまたも今までに知らない感覚に襲われた。先ほど風呂場で宮子に感じたのとは全く真逆の、どす黒いようなものが心の中で渦を巻くような感じだった。苛立ちとも違う、嫌悪でもない、訳の分からない暗いものが、マルベリーの心に満たされていた。

「…………小百合、いるのは分かっている」

 マルベリーが闇色に塗りつぶされている廊下に向かって言うと、そこから人影が現れた。

「全部見ていたな」

「ええ」

「どうして止めなかった? わたしは宮子を殺していたかもしれないのだぞ」

「あなたは血の渇望に負けるような弱い人じゃないわ」

「わたしを信頼していたということか、礼を言うところなのだろうが、正直にお前に対して怒りを覚えている、もしわたしが宮子を殺してしまったら、傍観していたお前を恨んだだろう」

 そう言ったマルベリーの事を、小百合の瞳が感銘の色で輝いた。マルベリーには闇の中でも小百合のその姿がはっきりと見える。どうして小百合がそんな目をするのか、彼女は不思議だった。

 マルベリーは心に渦巻いている黒い気持ちを出すように、長く息をついてから言った。

「血の渇望か、呪われているな、吸血鬼というのは」

 そう言った瞬間、マルベリーははっとした、今の言葉を紡いだのが自分であったのか、恐ろしい疑問を持ちながら、小百合の事を見た。

「今、わたしは何と言った?」

「あなたは、吸血鬼は呪われていると言ったわ」

 何の感情もこもらない小百合の声は、無慈悲な剣となってマルベリーの胸に突き刺さった。あまりの衝撃に、マルベリーは今から泣き出しでもするように、両手で顔を覆ってその場に座り込んだ。

「わたしは自分で言ったのか、吸血鬼が呪われていると……」

 マルベリーは今まで、吸血鬼こそが至高の存在だと思ってきたし、彼女の中では覆しようのない真実だった。それが宮子や小百合という人間と共に生き、人間を理解していく過程で揺るぎ、今この瞬間に崩れ去ったのだ。

「頼む、一人にしてほしい……」

 そこにいつものマルベリーの威厳や圧力はなかった。闇の中に座っているのは、悩み苦しむ一人の少女だった。闇に隠されていても小百合には分かった、涙こそ見せなかったがマルベリーは泣いていた。小百合は足音を立てずに静かに部屋から出ていった。マルベリーは、どうにもならない気持ちを抱えながら、夜明け近くになるまで同じ場所に座っていた。


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