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素晴らしき人間たちよ15

 こうしてマルベリーは、宮子の勉強を見てやる事にしたわけだが、これは宮子にとってもマルベリーにとっても、苦難の始まりとなった。

 二人は家に着くとすぐに勉強の準備をした。宮子の家には勉強机などないので、居間の古びた木製のテーブルを使うしかなかった。宮子の妹の古都音は、またマルベリーが来た事に驚いたが、宮子の妹なだけあって、昨日会った時のような無意識の恐怖はなくなっていた。

 興味深そうに古都音が見つめる中で、二人の勉強が開始される。マルベリーは数学から始める事にした。試しにここ最近の授業の範囲の問題を、いくつか宮子にやらせたが、全部駄目だった。マルベリーは宮子の学力が想像以上に絶望的である事を知らざるを得なかった。

「ええい、何でこんな問題が解けないのだ!」

「あうぅ、そんな事言ったってぇ……」

「こんな状態で、よく頑張っているなどと言えたものだ」

 二人は寄り添っていたので、宮子の耳元に激が飛んできた。

「本当にお勉強はしてるんだよ。でも、いくらやっても全然駄目なの……」

「お前、基本の公式は覚えているのだろうな?」

「え? 公式ってなに?」

 宮子が何気なく言うと、途端に忌々しげな顔をしたマルベリーが、宮子に激しい視線を投げつける。さすがの宮子も、マルベリーの憤懣を間近で感じて少し怖くなった。

「…………前に戻ってやり直すぞ」

 マルベリーが感情を抑えながら言うと、宮子は人差し指を頬に当てて聞いた。

「前って、どれくらい?」

「最初からだ!」

「ふえぇ…………」

 それからマルベリーは、非常に嫌な予感がして、英語と国語も少し試してみたが、やはり最初からやり直す必要があった。それ以外の教科は、もやは試すまでもなく、全てを一から教えなければならない事を確信させられた。いかに強靭な精神を持つ吸血鬼と言えども、これは頭が痛かった。


 宿坊の居間の時計が夜中の三時を差した時に、マルベリーは帰ってきた。彼女は蝙蝠の翼をいっぱいに開いて、上空から境内に降りると、驚いた事に小百合が玄関の前で待ちかまえていた。マルベリーが近づくと、小百合は初冬の寒さに当てられて、白い麻の一枚織の広く開いた胸元をかき合せた。

「こんな時間まで起きていたのか?」

「今まで熟睡していたわよ、魑魅魍魎共の襲撃なんかがあるから、強い妖気を感じると、体の方で自然に目覚めるようになってるの」

「ほう、この世界でも人外が襲ってくる事があるのか、それは初耳だな」

「嘘に決ってるでしょう、でも貴方の妖気を感じて起きたのは本当よ。わたしの言いたい事、わかってるわよね」

 マルベリーは少し黙って、小百合の言いたい事に検討が付くと、別に大したことはないと言うような態度をとった。

「バスの奴が来ないから、飛んで帰ってきたのだ。あれがあれば飛ぶ必要などなかった」

「こんな夜中まで走ってるバスや電車なんてないわ。問題は、どうしてバスや電車がなくなるような時間に帰ってくるのかっていうことよ」

「お前には関係のないことだ」

 マルベリーがそっぽを向いて言うと、小百合の瞳に厳しさが宿った。

「飛んでこなければ聞きはしないわ。貴方がわたしとの約束を破るということは、それ相応の理由があるはずよ、それは教えてもらいたいわ」

 黙っているマルベリーの姿には、話そうかどうかとう迷いが分かりやすいくらいに表れていた。やがてマルベリーは、反抗的な態度で言った。

「宮子に勉強を教えていたのだ」

「……なるほど」

 小百合は無表情のまま言うと、くるりと踵を返して家の中に入り、サンダルを脱ぎながら言った。

「そういう事なら、自転車を手に入れるわ、それまでは我慢してちょうだい。あと、今後は絶対に空は飛ばないように、今度やったらここには置かないからね」

 マルベリーは望むところだと言いたいところだったが、どうも小百合の言う事には贖えないものがあり、どこか納得いかないような心持のまま宿坊に入った。


 翌日、日が落ちてからマルベリーが学校に行こうと宿坊から庭に出ると、湖の方で巫女衣の小百合が何やらやっていた。

「何をしているのだ?」

 マルベリーが小百合の背中に問いかけると、小百合は池から網を救い出した。それは虫取り網のような形をしているが、池の底を救うためのもので、頑丈に出来ているものだった。その網の中には、かなりの量の小銭が入っていた。

「お賽銭を集めているのよ」

 小百合は良く水を切ってから、賽銭をバケツの中に入れた。

「それは神への供物ではないのか?」

「善意で使うのなら、神様だってお喜びになるわ」

 何の善意に使うのか、マルベリーは気にしなかった。

「人間界に来てから神社に関する書物を一つ読んでみた、普通の神社には賽銭箱があるようだが、この神社にはそれが見当たらないな」

「賽銭箱はここよ」

 小百合は湖を指さしながら言った。

「どう見ても箱は存在していないぞ」

「お賽銭箱というのは、神様に祈りを捧げる場所で供養をするのに便利だから置いてあるのよ。お賽銭は神様の近くならどこに置いたって差し支えはないわ。ただ、その辺に置いたら目立つし盗まれたりもするしね」

「つまり、この湖が賽銭箱代りか」

「そういうこと、よほど差し迫った理由でもない限り、水の中に入ってまでお賽銭を取る人なんていないわ、だから賽銭箱なんて必要ないの」

「この湖に神がいるのか?」

 小百合はマルベリーの話を聞きながら、水の中に網を入れた。銀盤のように輝いていた湖面に波紋が起こって水が波打ち、湖の底で泥が舞って水中で地色が煙った。

「そうじゃないわ、湖は鏡の役目をしていて、山の向こうから上ってきた太陽が水面に映るの、その水鏡に映った太陽に向かって祈るのよ」

「太陽信仰か…………」

 その時にマルベリーは、神社で初めて会った頃の小百合が、陽力を込めた札を使っていた事を思い出した。そして、小百合に逆らえない理由を何となく悟った。

「あなたも日の出に祈ってみたら? 良い事があるかもしれないわよ」

「良い事の前に、灰になって消えてしまう。分かっているくせに嫌な事を言うな」

 小百合は微笑して、くすっと悪戯な笑みをもらし、それから賽銭集めに専念した。

「重い、しばらくお賽銭ほったらかしにしてたから、貯まってるわねぇ」

 マルベリーは小百合のすることを少し眺めてから学校に向かった。

 出る前に小百合と話をしていた事で少し遅くなり、マルベリーが教室に入ったのは、一時間目の授業が終わった直後だった。マルベリーは澄ました顔で宮子の隣の席に座った。

「マルベリーちゃん、こんばんわ~」

「うむ」

 宮子は何か話でもあってマルベリーが来たものと思っていた。しかし、マルベリーは何も言わずに座っていた。やがて休み時間が終わりに近づくと、宮子は言った。

「マルベリーちゃん、休み時間が終わるから、そろそろどいた方が……」

「今からここが、わたしの席だ」

「ええっ!? 勝手に席替えなんてしたらまずいよぅ」

「わたしが良いと言ったら良いんだ、あんな対角線上の端と端では、勉強が教えられないではないか」

「気持はすごくうれしいけど」

 この時、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴るのと同時に、元の席の主であった男子生徒が来て、マルベリーにおどおどと言った。

「あの、そこ僕の席なんだけど……」

 マルベリーは相手の顔も見ず、王が家臣に命令するような絶対的な挙措で、まっすぐ自分の席だった窓際の一番後ろを指差した。

「お前の席はあそこになった、机の中の物が邪魔だから早くもっていくがいい」

 もはや言葉もなかった。彼は宮子に気の毒そうに見つめらながら、机の中にあった私物を持って、マルベリーが元いた席にそそくさと移動した。

 二時間目は地理であった。宮子が地理の教科書を出していると、隣に来たマルベリーが言った。

「宮子、それじゃない、数学の教科書を出せ」

「え? 数学? 次の授業は地理だよ」

「数学だ、昨日の続きから始めるぞ」

 その時、宮子はまさかと思った。マルベリーは授業中も関係なしに宮子に勉強を教えるつもりなのだ。

「えっと、地理の時間に数学なんてやってたら、怒られちゃうよ……」

「かまわん、早く数学の教科書を出せ」

 宮子はマルベリーの性格をよく知っているので、これはもう覚悟を決めてやるしかないと、大人しく数学の教科書を出した。

 その後すぐに地理の教師が来て授業が始まったが、マルベリーは宮子と机をくっつけて、数学を教えていた。教師の目に余ったのは言うまでもないだろう。マルベリーは教師からも恐怖の対象にされていたが、この時ばかりは声をかけられた。そうするとマルベリーは、相手を苛立たしげに一瞥して言った。

「宮子は今の授業には到底ついていけない、理解できない授業など聞いても時間の無駄だ、だから一から勉強しているのだ、邪魔をするな」

 教師に対して尊大に言ったマルベリーの言葉には、奇妙な説得力があった。これで話は全て済んで、これ以降はどの授業でも、二人は見て見ぬふりをされた。


 学校が終わると、マルベリーは宮子の家で勉強を教える事は諦め、小百合に言われた通りに、まっすぐバスと電車で帰ってきた。

 マルベリーが、闇の中に浮き出る、神社に続く白い階段を上がりきると、宿坊の玄関のところに自転車が置いてあるのが見えた。マルベリーがそれに近づくと、いつものように小百合が玄関から出てくる。

「お帰りなさい」

「小百合、この自転車は前のと形が違うな」

「これ、長い距離を走る為の自転車だから、前のよりも勝手がいいと思うわ」

「うむ、見た目にも前の奴より骨がありそうだ」

「言っておくけれど、これを壊したらもう後はないからね、湖のお賽銭をほとんど使ったんだから」

「わかっている、慎重に人間並みに扱うとしよう」

 その時になって、マルベリーははっと気づいた。

「神への供物を搾取していたのは、自転車を手に入れる為だったのか」

「言い方がなんかあれだけど、そうよ」

「そうか」

 と言って、マルベリーは急に考え込んだ。

「どうしたのよ?」

「何か言うべき事があると思うのだが、どう言えばいいものなのか……」

「ああ、それなら、小百合様ありがとうございました、あなたに一生ついていきます、でいいわ」

 小百合が当然のように言うと、マルベリーは急に敵意をむき出しにした。

「……嫌だ」

「まったく、吸血鬼って冗談が通用しないのね」

「ふざけるのはよしてくれ」

「悪かったわ、こういう時は、ありがとうって言えばいいのよ」

「そうか、ありがとう、小百合」

 人間が言うのとは全く違う、心に深く響く礼の一言だった。あまり表情のない小百合も、これには嬉しそうに微笑んだ。少し欠けた月が、淡い光を境内に降らしながら、人と吸血鬼の少女を見つめていた。


 それから、宮子の戦いの日々が始まった。マルベリーの教え方は徹底していた。宮子が分からないところは何度でも繰り返し教えたし、少しでも宮子のやる気がないと見えると、びしびしと叱咤した。授業中でもおかまいなしで、マルベリーの声にクラスメイトたちのノートを書く手が止まることも度々あった。学校でも、家に帰ってからも、二人は一緒で、マルベリーは、まるでそれが全てでもあるかのように、真剣に宮子に勉学を教授した。一度こうと決めた以上は、自分が納得がいく結果が出るまで止めないのだ。夜中まで続けられる厳しい訓練のような勉強は、宮子には辛かったが、マルベリーがいつも一緒にいて、自分の為に真剣に勉強を教えてくれる事が嬉しくて、時には涙が出そうになる事もあった。

 宮子はマルベリーが想像していたほど覚えは悪くなかった。ただ、勉強の仕方が良くなかったのだ。宮子がいくら勉強しても駄目だったのは、基礎を度外視して先の方ばかりに目がいってしまっていたからだった。だが、何度やっても駄目なところは駄目だった。この日も学校が終わってから宮子の家で勉強していた。

「この公式に、この数字を当てはめるだけだぞ、こうしてこうだ」

 宮子は数学が特に苦手で、マルベリーがすらすら解く問題を見て、頭を悩ませていた。

「う~ん、分からない……」

「では、もう一度最初から教える」

 マルベリーは数時間、何度も同じところを繰り返し教えていた。宮子はあまりにも出来ない自分に、マルベリーがいつ怒り出すかとはらはらしていた。しかし、宮子の覚えの悪いところに関しては、マルベリーは怒らないどころか、驚くほど寛大だった。普通の人間なら匙を投げて、文句の一つでも言うところを、嫌な顔一つせずに淡々と教えてくれるのだ。これは、マルベリーが宮子に優しくしているわけではなく、人間と吸血鬼とでは、時間的余裕が全く違う事が関係していた。永遠の時を生きるマルベリーにとって、一つの事を理解させるのに何時間かかろうが、気にはならなかった。人間にとっての一時間は、吸血鬼にとっては五分か十分程度の感覚なのである。

 

「遺伝子には優劣があって、一定の確率で……おい、宮子、聞いているのか」

 ある時、二人で生物の勉強をしている時に、宮子はずっとマルベリーの顔ばかり気にしていた。

「何をしている、勉強に集中しろ」

「はぁ、マルベリーちゃんって、牙鋭いね~」

 宮子が新たな発見に、感嘆する息を吐いてから言うと、マルベリーは思わず口元を手で隠していた。マルベリーはあまり喋る方ではないし、大口開けて下品に話すような事もないので、そう分かるものではなかったが、勉強を教えている時は集中していたので話に力が入り、その上、宮子のすぐ近くで喋らざるを得ない状況なので、宮子はふとした時に気づいてしまった。

 ――まずい、さすがにばれたか。

 マルベリーが緊張して表情を硬くしていると、宮子は可愛い動物を見るような目で言った。

「かわいいなぁ、その吸血鬼みたいに鋭い牙は、マルベリーちゃんのチャームポイントだね」

 マルベリーは緊張していた自分が馬鹿らしくなって、安堵と疲れの混じった溜息を出していた。宮子の、吸血鬼みたいに、という一言は、マルベリーに何とも言えない滑稽さを与えた。

 たまにこんな事もあったが、宮子の勉強は順調に進みつつあった。

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