素晴らしき人間たちよ13
月曜日になると、マルベリーはいつもの様に少し遅れて登校した。彼女が一時間目の授業に四半刻遅れるのは、クラスではもはや当たり前の事となっていたし、教師達に至っては様々な意味でマルベリーを恐れていたので、注意しようなどとは思わなかった。クラスの中でマルベリーに近づける者は、宮子ただ一人になっていた。
一時間目の授業が終わって休み時間になり、マルベリーは宮子の動向を窺った。小百合に色々と言われていた事もあり、宮子の事を少しは気に掛けるようにしていた。宮子はたった五分しかない休み時間を惜しむように、勉強をしていた。マルベリーはそれを見ると、席を立って歩いていき、宮子を間近にして言った。
「お前は頭が悪いのか?」
「うわぁっ!!?」
「どうした、何を驚いている?」
「いきなり耳元で声がしたから吃驚したよぅ、気配とかも全然なかったし」
「お前が惚けているだけだ。それよりも、頭が悪いのは本当なのかと聞いている」
「はうぅ、そんなにはっきり言われると言いづらいけど、頭が悪いのは本当だよ、下から片手で数えられるくらい……」
「このクラスの人数が二十三人だから、最高でも十八位ということか、惨憺たるものだな」
マルベリーがずけずけと言うのにやられて、宮子はまた『はうぅ』と呻いた。
「わたしと付き合うべき人間が何と言う有様だ。腕力はどうしようもないが、せめて勉強くらいは出来て欲しいものだな」
「そんなこと言ったって……」
「せめてこの学校で一番くらいにはなれ、それなら少しは釣り合いが取れるというものだ」
「ええっ!? マルベリーちゃんが、無茶苦茶なこと言ってるよぅ……」
まるで怯えた子犬のような挙動の宮子を見て、マルベリーはこれは駄目だと思ってため息を吐いていた。
その後も、休み時間になるごとに、宮子は懸命に勉強していた。マルベリーは、頭が悪いと分かっているのに勉強をする事が無駄な努力としか思えず、怪訝な思いを抱いた。それから、夕食休みになると宮子と一緒に食堂に行き、そこでマルベリーは弁当を開いている宮子に言った。
「お前はどうして頭が悪いのに勉強などするのだ?」
また頭が悪いと揶揄されて、宮子は意気消沈ぎみに言った。
「うう、それはもうすぐ期末テストがあるからだよ」
「期末テスト? 本当にテストの為だけなのか? お前の勉強する姿からは、気迫が感じられる。もっと重大な理由があるように思えるのだが」
「それは……」
宮子は開けかけた弁当箱のふたを閉じてから言った。
「妹のためにも、勉強が出来るようになりたいんだ」
「ほう、妹か」
神妙に言った宮子に対して、マルベリーは素気なかった。吸血鬼は人間ほどは親兄弟の絆を重んじてはいないので、それほど興味が持てなかったのだ。だが、それはこの時だけの事だった。
それから何日か経った。宮子はやはりたった五分の休み時間を休まず勉強し続けていた。マルベリーはその姿をずっと観察していて、必死に勉強する宮子の目から、誇りある者の持つ輝きを見出した。今、勉学に励む宮子の姿には、どんな強大な敵にも怯まず、立ち向かってゆく者のような気概があった。虐められていた時とは正反対の姿でもある。宮子の変わり方をマルベリーは不思議に思うと同時に、何が宮子をそうさせるのか知りたくなった。
―一日の全ての授業が終わり、帰り際になると、宮子は必ずマルベリーのところにやってきて、さよならを言いに来る。この日は、宮子が挨拶する前に、マルベリーが言った。
「宮子は、妹の為に勉強が出来るようになりたいと言っていたな」
「うん、そうだよ」
「お前はどこに住んでいるのだ?」
「えっと、学校の近くだよ、歩きで登校してるの」
「お前の妹を見てみたいのだが」
「えっ!?」
宮子は驚くのと一緒に、躊躇するような様子も見せたが、マルベリーが真剣に見つめるので、すぐに首を縦に振った。
「いいよ、じゃあ一緒に帰ろう」
マルベリーは気にもしていなかったが、宮子は明らかに乗り気ではなかった。
宮子は一戸建ての古い貸家に住んでいた。その一帯には似たような木造の貸家が密集していた。宮子の家の赤いポストは錆びつき、壁板は腐って抜け落ちているところがあった。ガラス張りの木戸も少し歪んでいて、狭い前庭には雑草が生え放題であり、全体として手入れが行き届いていないようだった。
「ここがわたしの家だよ」
宮子は遠慮がちに言った。宮子はマルベリーが良い所のお嬢様だと思っていたので、こんな住まいを見てどう思われるのかはらはらしていた。
「まるで鼠の穴倉をみたような住処だな」
そんなマルベリーの言葉に、宮子がいたたまれなくなった事は言うまでもない。マルベリーは無表情のまま、淡々とした様子でぼろ家を見ていた。
「妹はこの中か?」
「うん、きっとわたしが帰ってくるのを待ってるよ」
宮子は木戸を開けると、奥に向かって言った。
「ただいま~」
「お帰り!」
小学校の低学年くらいの女の子が、奥の部屋から玄関まで走って出てきた。宮子に似て瞳が大きく、ボブの良く似合う可愛らしい少女だった。彼女は姉の後ろにいたマルベリーと目が合うと、今までに知らない強烈な印象に打たれて固まってしまった。
「どうしたの、古都音?」
宮子は妹が後ろのマルベリーをみている事に、すぐに気付いて言った。
「この人は、わたしのお友達のマルベリーちゃんだよ、外国から留学してきたの」
「……お姉ちゃんのお友達なんだ、なんだか良く分からないけど、びっくりしちゃった」
古都音の何だかよく分からないという言葉は、人間の吸血鬼に対する無意識の畏怖を表していた。
「マルベリーちゃん綺麗だもんね、初めて見た人は驚くよね」
「うん……」
姉の的外れな見解に、妹は少し府に落ちないような返事をした。
「これが宮子の妹か」
マルベリーは何かを見極めるような真剣な目で、古都音を見詰めた。すると古都音は、言いようもなく恐ろしいものを感じて、一歩後ろに下がっていた。
この小さな存在が、どうして宮子をあそこまで必死にさせるのか、マルベリーには理解しかねた。
「マルベリーちゃん、あがってお茶飲んでいって」
「ああ、もらおう」
マルベリーはこの家で一番広い居間に案内された。広いと言っても6畳程度で、そこは庭に面していて、硝子戸の向こうに繁った雑草が見えていた。壁は染みがあったり、表面が剥がれたりしているし、畳もだいぶ草臥れていて、擦り切れて繊維がはみ出している部分がいくらかあった。マルベリーは部屋を見渡し、明神大社の宿坊と比べると天地の差だと思った。あちらはマルベリーが居住まいしている一間でさえ八畳以上あり、畳も新しいものが入っていた。
宮子は台所に入ると、少ししてからコーヒーを淹れて持ってきた。マルベリーは使い込まれて古びたような青いマグカップが差し出されると、それを手に取ってお茶を飲んだ。
「……苦いだけで、あまり旨くないな」
「はう、やっぱりインスタントコーヒーじゃ、マルベリーちゃんの口には合わないよね」
二人の会話する様子を、古都音がまじまじと見つめていた。古都音は姉とマルベリーの取り合わせがどうにも妙に思えていた。
「宮子、お前は誇りを持っているか」
「え? それってどういう……」
いきなりマルベリーが言いだした事に、宮子は目を白黒させた。
「誇りと言えば、己の命に代えても守らねばならないものだ、誇りを守る為ならば自らの命を差し出す事もいとわない、そういうものだ」
マルベリーが余りにも真剣に言うので、足を崩していた宮子は思わず正座をした。
「命に代えても守りたいものならあるよ、妹の古都音だよ」
「なに? 妹が己の誇りだと言うのか?」
「そうだよ、古都音はわたしの誇りだよ」
堂々と言い切る宮子の姿に嘘はなかった。古都音はそんな姉の姿を、歓喜の笑みを浮かべ、羨望の眼差で見詰めていた。一方マルベリーは、難しい顔をして低く呻った。
「……他人に対して誇りを持つというのは妙だが、お前の目は本気だ、誇りある人間である事は認めよう」
宮子はぱっと花咲くような笑みを浮かべた。マルベリーが自分を認めると言った事が、何よりも嬉しかった。
それからマルベリーは座を立って、もう帰ると言った。宮子の誇りとなるものが分かったので、もう用はなかったし、すぐに小百合に聞いてみたいこともあった。
夜十一時過ぎた頃に、マルベリーは明神大社の境内に降り立った。同時に重い衝撃と一緒にがらくたを地面に置いた。その音を聞いて小百合が宿坊の玄関から顔を出した。マルベリーが、がらくたを持って玄関まで行くと、小百合は無表情ながら刺々しい空気を醸し出した。
「飛んできたわね、駄目だって言ったでしょ」
「しかたなかろう、途中で自転車が壊れたのだ」
「なんですって……」
小百合はマルベリーが引きずってきたがらくたを見つめた。よく見ると確かに自転車だった。後輪は無事だが、前輪はタイヤの部分が完全に消失していて、むき出しになった車輪は見る影もなくひしゃげて、片方のペダルも折れてなくなっていた。
「まったく、人間の乗り物は貧弱だな、ちょっと飛ばしただけでこの有様とは」
「人間の乗り物なんだから、人間のレベルに合わせて乗りなさいよ。どうしてこんなになったのか、是非聞かせてもらいたいわね」
小百合は呆れかえって言った。
「赤い車が猛スピードでこのわたしを抜かしていってな、何だか腹が立ったので、抜き返してやろうと思ったのだが、もう少しのところで前のタイヤが潰れてな、それでも構わずに走っていたら、今度はゴムの部分がはじけ飛んだ、さらに走り続けたら前輪が完全に大破したのだ、本当にもう少しのところだったので悔やまれるな」
「……それよりも、わたしの自転車を壊した事を悔やんでほしいわ。どうするのよこれ、自転車がなかったら遠くのスーパーに買い出しに行けないじゃないの」
「心配するな、こんなものすぐに返してやる」
「どうやって?」
「学校の自転車置き場に幾らでもあるではないか」
「もうそれ以上は聞かないでおくわ。自転車の事は諦めるから、馬鹿な事は考えないようにね」
「遠くのスーパーがどうとか言っていたではないか」
「それは、裏山の山菜と近くの農協で済ませるから良いわ」
「そうか、それよりも聞きたいことがあるのだが」
マルベリーが言うと、小百合は頷いて、眠い目をこすり欠伸をしながら宿坊に入って行った。マルベリーは手に持っていたがらくたを玄関の前に放って、小百合の後についていく。
夜も遅いし、自転車を壊された事もあって、小百合は少し辟易としていたが、話を聞く段になると真剣に耳を傾けた。
「今日、宮子の家に行ったのだが、そこで人間の不思議なところを発見した」
「毎日が不思議発見ね」
「まったくだ、人間というのは取り留めのない存在だな」
「そんな取り留めのない存在に、何を聞きたいのかしら?」
「それなんだが……」
マルベリーは最近よく見せるようになった、難問に挑戦するような難しい顔で、小百合に話し始めた。
「宮子が誇りを持った人間である事が分かった。だが、その誇りの拠り所が問題なのだ。誇りとは自分の中にあるものだが、宮子は妹が誇りだと言ったのだ。自分以外の者に対して誇りを持つというのは、どういう事なのだろうか? わたしには理解し難い事なのだが」
小百合は一口お茶を飲むと、少し考えてから言った。
「自分以外の誰かを誇りにできるから、他人の為に働く事が出来るのよ。そこが人間と吸血鬼の大きな違いじゃないかしら」
「他人の為に働くか、わたしには良く分からない事だが、それなら宮子が妹の為に勉強をするのも分かるな」
その時、マルベリーの中に閃くように母の姿が現れた。何百年も弱者の為に働き続けた人であった、この瞬間にそれを思い出すのは、当然とも言える。マルベリーは思い出したかつての母の姿に、胸を打たれるような、しかし何か腑に落ちないような、どうにも掴みようのない気持ちを抱いて固まっていた。小百合がそれを読み取ったかのように言った。
「あなたのお母さんは、何百年も他人の為に働いていたのでしょう。他人の為に何かを成すという事は、人間にだって容易には出来ないわ。それを吸血鬼だった人が、人間には成しえない長い時間やってきた。同族には理解されなくても、それでも続けた。これはすごい事なのよ、あなたのお母さんは本当に素晴らしい人なのよ、それは分かってあげて」
「…………そうか、人間からすると、お母様は尊敬に値するという事なのか?」
マルベリーは自分には理解できない事だったので、小百合に念を押した。そうすると、小百合は黙って頷いた。
「……だめだ、まだ理解できない事ばかりだ。今のわたしには、お母様を理解することは出来ない」
「今はそうでも、いつか分かる時が来るわ」
「そうだろうか……」
そう言うマルベリーの真紅の瞳の輝きの中には、母を素直に受け入れられない事に対する悲しみが沈んでいた。この日の夜話はこれで終わりになった。




