素晴らしき人間たちよ1
満月の夜だった。月光の注ぐ境内は夜でありながらも神秘的でほのかな光に彩られ、あらゆるものが青く輝いていた。まるで水の底にあるような静かな夜の中で、境内に続く階段から見上げるように巨大な鳥居の下に、傷ついて血にまみれた少女が姿を現す。マルベリー・スコーピオンは今にも消え入りそうな細い息を吐きながら鳥居の支柱に寄りかかった。もはや力尽きて歩く事すら出来ないという有様だった。
その容姿は血染めというだけではなく、明らかに人間離れしていた。肩にかかる程度のブロンドは月光が映えて清冽に輝き、顔はまるで意図的に作り上げたかのように整端だった。瞳は赤く、喘ぎを上げる口の中からは鋭い二本の犬歯が見えていた。背中には蝙蝠の翼が対になってあったはずだが、右翼の方は引きちぎられて、痛々しい傷口からは夥しい血が流れ、背中から胸へ貫かれた傷も酷く、胸を押さえている少女の手も血染めで、流れ出た朱は肘まで伝わって滴っている。衣服は襟下で結ばれている黒のリボン以外は白で、上着の半袖のところと短いスカートにはフリルがついていて、いわゆるゴスロリに近いもので、一番下のロングブーツも白、そして腰の左右には白い鞘に納まったショートソードを携えいた。それらも半分以上が赤く染まっていた。
「ここは……どこだ…………」
マルベリーは朦朧とする意識の中で歩き出し、三歩も行かないうちに倒れてしまった。
――体が動かない。このまま朝になったら……わたしはこんなところで朽ち果てるのか…………。
絶望の沼に沈みながら少女は気を失った。
それから十分もしないうちに、境内にある宿坊から巫女姿の少女が出てきて、血に濡れた者に近づく。その少女は大和撫子という言葉がぴったりくるような容姿で、たっぷりと長く腰まである黒髪をポニーテールにして、月映える黒い瞳は優しげで大人しそうな印象だが、落ち着いた雰囲気の中に強烈な何かがある。それが何かはまだ分からない。
巫女姿の少女は明らかに人間でない少女を見下ろして言った。
「妙な気配を感じると思ったら、何でこんな所に吸血鬼がいるのかしら? しかもこの傷は……」
少女は少しばかり思案してから言った。
「放ってはおけないわね」
巫女の少女は自分の服が血で汚れるのも構わずに、吸血鬼の少女を抱き抱えて歩き出した。
マルベリーが目を覚ました時、そこは暗闇だった。それでも彼女の眼にはすべてがはっきりと見えた。彼女は掛け夜具を払って辺りを確認する。天井には梁や棟が通っていて、右手には見た事もない扉のようなものがあり、左手と前方の奥には窓らしきものがあった。後方には置き机があり、右手前方の奥の隅のところには大きな木製の箪笥が置いてある。天井には傘を着ている二重に重なった白い輪っかが釣り下がっていて、マルベリーは妙なものを見るような顔をした。吸血鬼の鋭敏な嗅覚は畳の匂いを捉え、マルベリーは下に干草でも敷いてあるのかと思った。
「…………」
マルベリーは倒れた時にもう自分は助からないと諦めていたが、どうやら死の世界ではないらしい事は分かった。だが、彼女は用心し、状況がはっきりするまでは不用意に動かないようにしていた。
やがてマルベリーは気配を捉える。それは人間のものであると分かったが、それがすぐ近くで唐突に現れた事に驚かされた。
「馬鹿な!? こんなに接近するまで人間の気配がわからないとは……」
マルベリーは立ち上がって身構えた。同時に二振りの愛剣を探したが、どこにも見つからなかった。
マルベリーは近づきつつある人間の足音も捉えた。それは颯爽としているが、吸血鬼の超感覚でも微かに聞きとれるくらいのもので、それは並みの鍛錬では得られない人間の動きだった。
「只者ではない」
たかが人間ごときにこれ程の緊張を強いられるとは。マルベリーは後からそう思ったものだが、今は迫りくる存在に対して集中していた。
いきなり襖が開いて、白い光が部屋に割り込んでくる。マルベリーは思わず顔を覆って闇の深い部屋の奥の方に逃げ込んだ。
「妖気が逆立っていたから起きているとは思っていたわ」
「お前は…………」
白衣の上着に深くスリットの入った赤い行燈袴姿の人間の巫女が白い光の中に立っていた。マルベリーは更に緊張の糸を張りつめた。目の前にいる人間の少女にはどこか普通でない雰囲気が漂っていた。
「わたしを助けたのはお前か?」
「そうよ、あなたは酷い傷を負って鳥居の下に倒れていたの」
「お前の名を聞きたいが、先に名乗っておこう。わたしはマルベリー・スコーピオンだ」
「明神小百合、この神社の巫女よ」
「人間の上に聖職者とは、そんな者に助けられたのは不本意だが、この借りは必ず返す」
「貸しがあるに越したことはないわね」
小百合がそう言うのとほぼ同時に、部屋がいきなり白い光で満たされた。小百合が近くの壁にあるスイッチを入れたのだ。
「ああ!?」
マルベリーは慄くような声を出して両腕で顔を隠した。
「怖がることはないわ、ただの蛍光灯よ。あなたには明かり何て必要ないから、知らないのかしら?」
マルベリーは恐る恐る顔から腕をずらして、天井で燦然と輝くリング状のものを見つめた。
「あれが光っていたのか……」
「怖がらせて悪かったわね、今は夜だから安心していいわ」
「な、何を言っている! この程度で恐怖など感じるか! わたしは四貴族の一人なのだぞ!」
「威張るにしても、その格好ではね」
「なに?」
マルベリーは白光の元に晒された自分のあられもない姿に気づかされた。来ているものはピンクのパンティのみで、体には包帯が巻いてあって右の方の乳はそれで隠れていたが、左の方のそれなりに大きい形の良い乳が露わになっていた。
「きゃっ!?」
マルベリーはその場に蹲って小百合を恨めしそうに見て言った。
「貴様、謀ったな!」
「あなたが勝手に自滅したんでしょう。そんな事よりも、まだ傷が癒えていないんだから寝ていなさい」
「人間の指図など受けるか!」
マルベリーが激しい調子で言ったとき、背中から胸へ突き通るように鋭い痛みが走った。彼女は呻いて包帯の上から痛むところを押さえた。
「だから言ったでしょ、おとなしく言う通りにしなさい」
マルベリーが頑として動かずに黙っていると、小百合は一つ溜息をついてから、マルベリーに近づいた。
「何だ、わたしを寝かせようとでも言うのか? 触ったら殺すぞ」
「さあ、どうかしらね」
小百合は懐から朱色の札を出して近づいてくると、マルベリーは顔を歪めて立ち上がる。
「何だそれは!? 近づけられると物凄く不快だ!」
マルベリーは小百合から逃げるようにして距離を取った。さらに小百合が近づくと、マルベリーはそれに合わせて一定の距離を保ちながら逃げる。
「何なんだそれは!?」
「太陽の力を封じ込めた御札よ」
「な、なに!? 何でそんなものを持っている! お前は一体なんなんだ!」
「はい、布団の上まで追い込んだわ。後は寝るだけよ」
「なっ!?」
マルベリーは小百合にうまく誘導されて、布団の上に立たされていた。それだけでも屈辱的なのに、追い込んだという小百合の言葉は、いかにも勝ったという感じで、人間にしてやられたマルベリーは思わず唇を噛んだ。彼女はせめてもの反撃に、布団の上に座り込んで掛け夜具で体を隠し、あくまで就寝を拒んだ。
「さすがは吸血鬼、無駄に尊大な自尊心を持っているわね」
「黙れ、人間め!」
マルベリーは小百合を罵倒した後に、ふと黙り込んだ。
「……お前はわたしが吸血鬼だと知っていて助けたのか」
「そうでなければ、わざわざ日の当たらない部屋に置いたりしないわ」
「人間というのはおかしなものだ。わたしなど助けて何の特になる?」
「なにもあんな所で死ぬことはない、そう思っただけよ」
マルベリーは表情に困惑の色を深くした。
「わたしなら放っておく、野垂れ死にするのはそいつが弱いから悪いのだ」
「吸血鬼と人間の感性をぶつけ合ってもしょうがないわ」
「人間の感性か……」
マルベリーは布団にくるまりながら、視線を落として苦悩に沈んだ。小百合は開いている襖のところまで行くと、出ていく前に言った。
「あなたは丸二日も寝込んでいたわ。並みの吸血鬼なら、どんなに深い傷を受けたとしても、心臓さえ無事ならせいぜい数時間もあれば完治するでしょう。まして貴方は、吸血鬼の中でも最上に位置する力を持っているわ。それが起き上がるまでに丸二日もかかり、しかも背中から胸を貫いた傷はまだ癒えていない、さらに恐ろしいのはそれが心臓をわざと外した傷だという事よ。相手は遊び程度であなたを半殺しの目に会わせた」
「……そこまで見抜くとは、ただの人間ではないな。その通りだ」
「一体どんな化物と戦ったの?」
「お前には関係ない」
「確かに関係ないわ。けれど、この質問には何としても答えてもらうわよ。そいつは人間界に来ているの?」
「……間違いなく来ている。奴の狙いは人間の生血だからな」
「そう……」
突然降ってわいたような厄介ごとに小百合は少し神妙になったが、すぐに何食わぬような顔に戻っていた。
「傷が治るまではちゃんと休んでいなさい」
母親が子供に言い聞かせるような口ぶりだった。それから小百合は電気を消して襖を閉じた。部屋に再び闇が戻った。この狭くて暗い空間は、吸血鬼にとっては心安らぐものであった。マルベリーはまだ体に疲労が残っていて、そのうちに横になって寝息を立てていた。




