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僕は未来の夢を見る

作者: 水草ヨシ

 未来が見えたらいい。

 それは多くの人が考えたことのある夢だろう。僕はその夢を否定することも、非難することもしない。けれども、そんな夢を持つ人に僕は一つ言いたいことがある。

 ――未来が見えるようになる代わりに、何かを失うことになろうとも、それでもあなたは未来を見たいと思いますか?

 未来だけ見えるようになって、それ以外は何も変わらないなんて、世の中そんなに上手くいくもんじゃない。生物っていうものは、ある何かの能力を得る以上、別の何かを失なわなくてはいけない。微生物からヒトになる間に、ヒトは普段は気付けないような何かを失っている。

 そして、僕。

 僕は生まれつき、未来を見ることができる。

 ただし任意の未来が見えるっていうわけではない。それが出来れば、僕は今頃競馬なり宝くじなり何らかの方法でお金持ちになってるだろう。そうではなくて、突然直観的に未来のことを知ることが出来るのだ。それは予知夢だったり、未来を語る白昼夢だったりする。

 その代わり僕が生まれつき知らないもの。

 それは思い出だ。

 起こった出来事の事実としての記憶はある。けれども、その時に感じたことや過ぎた過去への感傷を僕は知らない。僕が過去を思い出すこと、それはまるで歴史的事柄を淡々と叙述した教科書を読むような物らしい。僕にはどちらも同じように感じるが、普通の人は違うそうだ。

 それでも。

 別にかまわないと思っていた。思い出なんてなくても、今と未来があればいいと思っていた。

 彼女に会うまでの僕は、そう思っていたはずなのに。


 初めて彼女に出会ったのは、昨日のことだ。

 いつも通り高校から帰る道の途中で、同じく下校途中であろう彼女を見かけた。

 彼女は僕と同じくらいの年齢に見えた。けれども、着ていたのは見たことのない学校の制服。少なくとも僕とは違う学校の生徒らしい。僕の学校の多くの生徒とは違い、スカートは膝付近の長さのままだった。肩の少し下くらいまで伸ばした髪は黒色で、彼女が歩くたびに、ふんわりと揺れた。

 その時、僕が何を思ったかは覚えていない。おそらく、今思っていることと同じこと――綺麗な人だな、ということを思ったのだと思う。

「ミチコ、何か面白いものでも見つけたのか?」

 隣にいた友喜が、僕に声をかけた。

 友喜は僕の友達だ。彼とは家が近く、小学校から今に至るまでずっと学校が同じで、親友と言っていい仲だと僕は思っている。そしてまた彼は、僕が未来を知ることが出来ることを知っている、数少ない人間の一人だ。僕のこの生まれつきの特性は、その性質からあまり他の人に言っていない。悪意のある人が僕の特性を悪用しようとするかもしれないし、こんなことで妙な注目を浴びるのも嫌だ。

「ミチコって呼ぶなって」

 僕は言った。僕の本当の名前は(みち)だ。自分でも中性的な名前だなとは思っている。友喜はそんな僕の名前が女性名に聞こえるからと言って面白がって、ミチコというあだ名を作ってしてしまった。もちろん僕はそのあだ名には反対だ。女性名で呼ばれて嬉しい男子なんてほとんどいないはずだ。

「さっきの女の子を見て表情緩んでたぞ。何考えてんだ?」

「げっ……」

 僕の小さな感情の変化も、お見通しだったらしい。僕のささいな表情の変化に気付いたなんて、侮れない奴だ、と今さらになって思う。

「いや、ただ可愛い子がいるなぁって」

 と僕が言うと、

「へぇ、あんな清楚系がタイプだったんだな」

 と、彼は冷やかした。昨日の彼は、僕をからかいたい気分だったようだ。

「そうじゃない!」

 僕の対応もまずかったとは思う。これじゃ、もっとからかって下さいと言わんばかりの対応じゃないか。

 その時だ。突然、僕の脳裏に情景が浮かんだ。

 二人の手。そっと触れて、すぐに離れる。情景は移る。二人を繋ぐ固く握られた手。同じ速度で、揺れる。何度も何度も揺れる。そして、また握った手。しかしそれは突然離れる。手はもう一人分だけ。……永遠に。

「おい、大丈夫か? 昼間っからヘンな妄想してんじゃないぞ」

 友喜に呼ばれ、現実に戻ってきた。彼女のことを考えすぎたからだろうか、いつもの白昼夢みたいな物を見たらしい。この白昼夢こそが今の僕を悩ませている。けれども、見た直後は深く考えなかったのだろう。僕はただ一言、

「彼女と付き合うことになるかもしれない」

 と夢の中で彼女の手を握っていたはずの、自分の手を見つめた。

「それは、それは――めでたい事でございまして、おめでとうございます」

 友喜はめでたいとは思っていないような口ぶりで言った。彼には恋人がいないのだから、無理もない反応だ。

「そんなめでたいミチコさんに朗報です。彼女はどうやらこの近くにある高校に通っている様ですぞ」

 えっ、と僕が彼の方に振り向くと、にやりと笑って高校名を告げた。確かに、近い高校だ。駅から反対側にあるから、そこの生徒を見かけることこそ少ないが、距離的には歩けなくはない場所にある。この付近の高校の制服(ただし女子に限る)を全て把握してる友喜の、その記憶力の使い方はどうかと思っていたが、今回ばかりは彼に感謝してる。学校が分かれば、次の足がかりとなる。


 僕はため息をついた。今になって考えて見ると、明らかにおかしいところはあったはずなのに、昨日の僕はうかれていて、あまり考えようともしなかったのだ。

あの夢の真意を。未来の可能性を。

 確かに僕と彼女は手をつないでいた。それは、彼女と付き合うことになる、ということで間違いはないだろう。問題なのはそこではない。その後、どうなっていたか。

 手が突然離れる――これは、別れの情景ではないだろうか。

 離れた手は、以降再びつながれることはない。永遠に。

 僕はあらかじめ別れが運命づけられた恋を始めてしまったのか。今になって、やっと意味がわかったのだ。今さらわかったって、もう遅すぎる。僕は、もう彼女に恋をしてしまった。今からこの気持ちを変えることは、できない。

 僕はもう一度溜息をつく。

 おそらく未来が分かる自分を、こんなに憎く感じたことは今までなかったはずだ。

 あらかじめ別れが分かってる恋を、喜ぶことは出来るのか。僕はそんな恋を楽しめる程に強い人間なのか。未来には不安しかない。変えることは出来ない。

 それでも、わずかな可能性を信じて、僕はこの恋を前進させようと思った。


「少なくとも、この場所は通るはずだ」

 そう言って友喜が案内したのは、僕たちがいつも使う出口とは逆端にある改札口の前だった。

「これくらいなら僕だって思いつくぞ」

 人通りが多い朝の時間帯。駅を利用する人は、もちろん駅が最終目的地なわけじゃないから、通過地点の駅なんか、すぐに通り過ぎて行く。そんな通過地点で立ち止っている僕らは、他の人から見れば異様だろう。

「こんな場所で見張るのは、さすがに怪しくないか?」

「だからこそオレが一緒に来てやったんだろ」

 二人である分、余計怪しいような気もしたけど……彼には悪気もなさそうだから、黙っていることにした。それに、彼がいれば少なくとも退屈にはならないだろう。

 彼女にもう一度会いたい、そう言った僕に対して、友喜は喜んで手伝いを引き受けると言ってくれた。そんな彼が考え出したのが、この単純な待ち伏せ作戦だ。高校の場所が分かっているのだから、おのずと使う駅もわかる。そこで待ち伏せれば、必ず彼女に会えるはずだ。

「高校で待ち伏せるって手もあったよね?」

「それも出来なくもないだろうけど、駅よりそっちのほうが恥ずかしいぜ?」

 確かにそうだ。駅での待ち伏せも不安になる人間が、高校前にずっといるなんて、出来るはずがない。その上、高校前にずっと他校の生徒が居座っていたら、間違えなく声をかけられるだろう。何か聞かれて上手い言い訳をとっさに思いつく自信はない。

「まぁここが無難なのか」

「そういうこと」

 そうやってくだらない雑談をしている間にも、彼女と同じ制服を着た学生が、何人も通り過ぎて行った。ホーム逆端の改札口では、こんなにも使用する人が違うもんなのか。けれども彼女はまだ見つかっていない。

「暇なうちに、彼女にどうやって話しかけるか考えておけよ」

 案外真面目に改札口を見張りながら、友喜が言った。

「待ち伏せて上手く見つけたはいいけど上手く話せず、彼女は通り過ぎてしまいました、じゃ笑えないからな。少なくともそうなったらオレは怒るぞ」

「わかってる」

 分かってるけど、上手く話しかけることが出来るかどうかは、その時になるまで分からない。たとえ失敗したとしても、なんだかんだ言って優しい友喜は許してくれるだろう。でも、だからこそ、失敗してはいけない気がする。彼に甘えないためにも。

 別に告白するわけじゃないんだ。取りあえず友達になれればいい。ありきたりな挨拶の言葉を交わして、メアドを手に入れさえすればいい。

 緊張していると、意外と時計の針の進みが速い。ちょっと何かを考えただけで、もうすでに見張り始めてから二十分以上経過していた。

「ずっとここで待ち伏せるのはいいけど、最後まで待っていたら僕ら遅刻だ」

「お前の好きな清楚系女子は、そういうタイプじゃないってことにオレはかけてんだ」

「清楚系じゃないって」

「そこ否定すんなよ。ただ、本当に彼女が遅刻ギリギリで登校するのだったら、それは途中であきらめるしかないよな。少なくともオレは二人で仲よく一緒に遅刻、なんてことになる前に学校に向かうからな」

「その時は僕もあきらめる。経験上、遅刻ギリギリの相手に話しかけるのは迷惑だ」

「……それは知らなかった」

 そうだよね、君は遅刻なんてしたことのない優等生だからね。僕だってちょっと起きるのが遅いだけで、もっと学校が近かったら遅刻はしないだろうけど。――ん?

「ねぇ、友喜、もし彼女が電車を利用しないで登校していたらどうする?」

「それは考えていなかった!」

 彼があたりを気にせず叫んだ時、ちょうど電車が到着したタイミングだったらしく、改札を抜ける何人かのサラリーマンや学生が僕らの方を見た。けれども、すぐに皆そっぽを向いてそれぞれの目的地へ行ってしまった。どうせ、男子高校生の悪ふざけだと思ってくれたのだろう。

 どうやら単純かつ確実と考えられていたこの作戦にも、大きな欠点があったようだ。

「どうするんだよ?」

 僕はこれ見よがしに声を細めて、文句を言った。

「どうするって言われても、オレは別に彼女に会えなくてもかまわないし、これはお前の問題だろ?」

「でも、友達じゃないか」

「友達だからって、なんでもあてにすんなよ。それにオレは、本当は彼女なんか……」

 彼は言葉を切った。僕も黙った。近くで、くすりと笑う声がしたのだ。僕らは恥ずかしくなりながら、今笑った人間を探した。

「ごめんなさい。お二人の会話が、少し面白くて……」

 そう言って、僕の隣で笑った本人は自ら名乗り出た。振り向くと、その声の主は――。

僕らが唖然としているのも気にせず、彼女はまた笑う。

「仲いいんですね。表情までそっくり」

 えっ、そんなに面白いものなのか。なるほど、それは気になるぞ。二人で顔を見合わせて、目を見開いた妙な表情の友喜の顔を見て、やっとすべきことを思い出した。

「そうなんです。僕ら仲いいんです」

 友喜が脇をつつく。言うべきなのはそれじゃないだろ、ということを言いたいのだろう。僕だってわかってる。けど、思わぬ事態に慌ててしまい何を言うべきなのか、具体的な内容が思いつかない。一体、どう言えばいいんだ?

「そんな仲のいい僕らとお友達になりませんか?」

 なんか、違う。

「いいの?」

「はい。お友達になってくれると、嬉しいです」

 その言葉を聞き、彼女はケータイを取りだした。

「じゃあ、とりあえずメアド交換しませんか?」


 手に入れたメアドを眺めながら、僕は笑みを隠せなかった。メアドを手に入れたということは、これからは連絡し放題じゃないか。

「そうか、()()さんなのか。名前も可愛いなぁ……」

「なんか成り行きでオレまでメアドもらっちゃったんだけど」

「咲良さん、可愛いなぁ」

「おい、今お前の頭ん中まっピンクかもしれねぇが、これはまだ始まったばかりだぞ。メアドゲットできたってだけで、そんな状態になっちまって大丈夫なのか」

 友喜は僕の頭を軽く叩く。ああ、うんそうだね。まだ恋人にもなってないんだね。でもメアド手に入れちゃったんだよ。これは僕と彼女の仲が深まっちゃった証拠だよ。このままメル友になって、遊びに行くようになって、デートして、一瞬じゃないか。そしてその後は……。

 そうか、どうせ別れるんだよね。

「ん? 一気にテンション下がったけど、どうしたんだ?」

「いや、どうもしてない。やっと落ち着いただけ」

 そう言ったのに、彼は訝しげに僕を見る。

「まぁいいや。そろそろ学校行かないと遅刻するぞ」

 言われて時計を見てみると、あと十分もなかった。これはまずい!

「走るぞ!」

「待て。手伝ってやったのに、置いてくなよ」


 恋の季節は始まったばかりだった。

それなのに僕は、いつかは必ず訪れる別れの季節を気にしていた。

彼女のことを思うたびに胸が疼くのは、ただ恋心のためだけではなく、未来に訪れる切なさのためでもあった。

 彼女のことを思うと、未来に訪れる彼女との楽しい出来事の数々が思い浮かぶ。味よりも彼女が気になるレストラン、二人で涙する映画館、葉が色を付けた道。未来の断片がランダムに現れる。けれども最後に見える未来は必ず同じた。

 つまり、永遠に繋がれることのない手。

 この切なさを誰かに話せたらいいと思う。もし話すことが出来たら、僕の気持は楽になるんじゃないかと考える。話す相手さえいれば。


 何度か一緒に遊びにいくことを繰り返し、今日はカフェに来ていた。なんというか、お洒落だ。カフェなんて男だけじゃ絶対来ないし、まず行く先の候補にもあがらないだろう。これで咲良さんと二人きりなら素敵なデートなんだけど――残念ながら成り行き参加の友喜が混じり込んでいるから、せっかくのムードも台無しだ。

 人が少なく静かな店内に、わずかなささやき声と食器がぶつかる音が響いている。僕はというと、上に乗ったベリー系の果実が落ちないように細心の注意を払いながら、フォークでケーキを削り取るのに夢中になっていた。

「満は時々悲しそうな顔をするよね」

不意に咲良さんは呟いた。

「そう?」

 僕は顔をあげて彼女の顔を見る。僕のケーキが横に倒れた。もちろん上に乗った果実も皿の上に転がる。

「何か悩み事でもあるの?」

 真剣な眼差しで彼女は問うた。その瞳はまるで、出来るだけあなたの助けになりたいのです、と言っているように見えて、僕は胸が苦しくなる。いっそのこと、彼女に言ってしまおうか。僕の内心も性分も秘密も不安も全て、ここで吐き出してしまおうか。

 ――それが出来れば楽なのに。

 例えここで、僕が未来を見えるということを説明したところで、当然彼女は信じてくれはしないだろう。単なる嘘つきだと思われるかもしれないし、頭が少しおかしい人だと思われてしまうかもしれない。どちらにせよ、信頼に傷が着くだけだ。本当のことは話せない。

「まぁ男だって悩み事くらいあるもんだよ」

 友喜が口をはさんだ。僕の困惑を察してくれたらしい。

「その男の悩み事というのは例えばどんな悩み事なの?」

「そりゃもう、いろいろさ。男の悩みなんて純粋な咲良ちゃんには言えないよ」

「なぜ?」

 おどけて見せる友喜に対して、咲良さんはあくまで真面目に訊ねる。しばらく友達として付き合ってみて分かったことだけど、彼女は天然なのか、しばしば冗談が通じないことがある。こうなると友喜にとってはお手上げ状態だ。彼は冗談を真面目な言葉で返されると、どう答えていいかわからなくなってしまう。彼に限った事でもないかもしれないが。

「僕は大丈夫だよ」

 僕は少し前の彼女の質問にやっと答えた。単純で問題の起こり得ない模範的な回答だ。

「悩みがなくはないけど、そんなに深刻な物じゃない。心配してくれてありがとう」

「そう言って、誤魔化しているようにも見える」

 ああ、これも咲良さんの特徴だ。観察力が鋭い。最初に出会ったときだって、僕らの表情が似ていることに気付いて笑っていた。彼女の観察力を持ってすれば、僕の想いは簡単に見透かされてしまうかもしれない。

「まあ大丈夫なら、私が心配しても無駄か。変なこと言ってごめんね」

「ちょっと待って」

 こういうのは気付かれてしまう前に、自分から言った方がいいはずだ。もうすでに彼女は分かりかけているのかもしれない。ならば出来るだけ早いうちに言うべきだ。

「僕は……」

 言葉に詰まる。やっぱり無理だ。こんな勢いだけで簡単に言うことはできない。

 一秒、二秒、三秒……何も言えないまま時間ばかりが進む。

 彼女は首を傾げた。何か言いたげな表情だ。

 どうする? 今からでもやめることは出来るんだぞ? でも、君はもう言い始めてしまったんだ。いつかは言わなくてはならないんだから、言いかけてしまった今こそ、絶好のタイミングじゃないのか?

 僕は――。

 なぜか、すごく、熱い。

「僕は咲良さんのことが好きなんだ!」

 熱い。ものすごく熱い。身体がオーバーヒートしてしまいそうだ。

 涼しいはずの室内なのに、汗が滴り落ちる。

 僕の眼が、咲良さんの顔に焦点があう。

 真っ赤だった。

「私も、満のことは……」

 と、彼女は突然立ち上がって、そのままカフェから出て行ってしまった。咲良さんはどこへ行ったのだろうと考えると同時に、僕は気が抜けてしまう。

僕は今、咲良さんに、好きだと言った。告白した。

 座っていることもできず、横に倒れかけた僕の身体を慌てて友喜が支えた。

「おいミチコ、そんなことで精魂使い果たしたのか、倒れるなよ」

 彼は苦々しげな表情で、僕の様子をうかがっている。僕も少し冷静になった。まぁこんな場面につき合わせてしまったんだ。当然の反応だよね。

「……おつかれさま」

 そう言われると、一仕事果たしたなって気分になる。でもまだ終わっちゃいない。いったい、咲良さんはどこに行ってしまったんだろう?

 ケータイのバイブ音が響いた。咲良さんに会う時は着信音がならないようにしているんだ。もしかしたら、と思い慌ててカバンからケータイを取り出す。

 思った通り、咲良さんからのメールだった。

「なんて書いてある?」

 友喜が野次馬根性でのぞこうとする。僕は彼を阻止して、メールの文面を読んだ。

「さっきは取り乱してごめんなさい、だって」

「まさか、それだけのわけないだろ。本題に関してはどうなんだ?」

「本題かどうかわからないけど、私でよければ喜んで――」

「やったな! これで夢かなっちまったじゃねぇか!」

 僕以上に、友喜が喜んでいる。なんだかもうよくわからない。また、放心してしまったみたいだ。咲良さんが僕の彼女。恋人、か。

 あらかじめ決まっていたことだけど、やっぱり嬉しい。


 告白した翌日。こんな日でも日付は規則通りに進み、通常どおりの登校日がやってきた。今日は咲良さんには会えないだろう。僕はため息をつく。僕から言いださない限り、昨日僕に何があったかなんて、みんなには関係ないのだ。いつも通り、漫画やテレビ番組の話をして平凡な日々を過ごしている。僕も彼らの言葉のキャッチボールに変化球を投げ込む気はなかった。

 この中で咲良さんの可愛さを知ってるのは、僕だけなのだ。

 そして咲良さんは僕の彼女なのだ。

 そんなことを考えるだけで、胸の奥から幸せな気持ちがあふれ出てくるようだった。

 僕は考える、こんな喜びがずっと続けばいいと思う、と。これから起こる楽しい時を考え、それが現実に起こるまでを待つ。終わりさえ見えていなければ、なんて幸せな日々なのだろう。

 けれども、未来への思いを噛みしめているこの瞬間にも、最後の時は刻一刻と近づいてきているのだ。避けられない。僕らにも終わりは必ず訪れる。その事実につきあたる度に、幸せは一瞬にして悲しみに変化する。

 未来なんて、知りたくなかった。

「どうしたんだ、そんな暗い表情をして」

 にやけながら友喜が近づいてきた。僕に彼女ができたことを、まだ彼以外の人は知らない。僕の両親にさえもまだ話してない。でも唯一の知ってる人物がこの様子じゃ、他の人にバレるのも時間の問題だと思う。

「どうでもないよ」

「幸せすぎて困ってるとか、そういうぜいたくな悩みですかね?」

 下らない。嫌味か。それとも彼から見たら今の僕の方が嫌味っぽいのか。

「イライラしてる? カルシウム足りてないんじゃねぇの?」

 声音が少し下がった。僕が笑わないのを見て、ようやく不機嫌に気付いたらしい。僕は友喜にしか聞こえないよう小声で答えた。

「あんまり色々話されるのも困るんだけど。まだ他の人には隠しておきたいのに、君がそうやって話してるとバレそうで怖いんだ」

「わかったよ」

 彼は消え入りそうなほど小声で言った。

「ミチ、その代わりに昼休みに二人で飯食おうぜ」

 そう言って、自分の教室へ帰っていく。その代わりって何の代わりのつもりなのかはよく分からない。僕が先に彼女を作ったのがよっぽど悔しいのか。

 ……ミチ? まてよ、あいつさっき僕のことミチって呼んだよな。どうしたんだ、いつもはミチコなんてふざけたあだ名で呼ぶくせに、なんで今日に限って名前で呼んだんだ? いつもふざけた口調の人間が突然真面目に話してくれても、いやな予感しかしない。


 昼休み、友喜はやはりやって来た。

「約束通り一緒に弁当食べようぜ」

 約束なんてした覚えはないのに、僕の腕を掴んでぐいぐい引っ張って教室の外へ連れ出す。後ろから「おい、ミチが誘拐されたぞ。駆け落ちか?」なんて暢気なクラスメイトの声が聞こえた。

「僕ら駆け落ちじゃないかって言われたぞ」

 僕がふざけて言っても、友喜は何も答えなかった。……まさか、ね?

 彼は僕を連れて、扉についた立ち入り禁止のテープをはがし、学校の屋上へと出た。せっかく始めて屋上に来たのに、日ごろの行いが悪いのか、あいにくの曇り空で風が冷たい。ここに来てやっと彼は腕を放した。

「ここなら誰も聞いてないだろ」

「なかなかのシュチュエーションだね」

 僕は苦笑いをしたが、彼の目は真剣そのものだった。何を言うつもりなのか、少し怖い。

「ミチ、オレはな、お前に彼女が出来て浮かれる気持ちはわからなくはない。でも、逆はわからない。お前は何を見たんだ?」

 珍しく、口調までも真面目だ。それにもかかわらず、彼が何を言いたいのかわからない。

「え、見たってどういうこと?」

「一体彼女との未来に何があるんだってことを聞いてるんだ。お前を不安な気持ちにさせるのはそれなんだろ?」

「……気づいてたのか」

 別に今まで彼のことを侮っていたわけではなかったと思う。けれども、彼がそこまで予測できたとは正直意外だ。これじゃ、誤魔化すことも無理だろう。

「まぁいつか別れるってことは、もうわかってる」

「よっぽど酷いことになるんだろ?」

「いや、理由があって同意の上で別れる感じだよ、たぶん」

「本当にそれだけなのか?」

「それだけ」

 しばらく友喜は僕のことをまじまじと眺めていた。何を考えているのかな、と不安になりながらも、僕も見返した。

「なんだ、それだけのことかよ」

 普段通りのふざけた感じの口調でつまらなそうに、友喜は言った。

「それだけって? 僕言ったよね、咲良さんと別れなきゃいけないんだよ。もう、それがわかってるのに僕は告白したんだよ」

「そりゃ自分の責任だろ。オレなんかミチコが時々あんまりにも暗い表情するから、もしや咲良ちゃんが不治の病にかかってると思っちゃったじゃねぇかよ」

「現実にそんな状況滅多にないだろ」

「お前のその能力がアリだったら、その彼女が不治の病ってのは十分あり得ると思ったんだけどなぁ。とにかく、そんなんじゃなくてよかったよ」

 他人の彼女だからって、不謹慎だ。なんでも言いやがって。本当にそんな病気だったら、どうするつもりだったのだろう。それでも励ますだけなんだろうか。僕にとって重要な悩みも、彼にとってはどうでもいいことらしい。

「まぁせいぜい頑張れ」

「それしか言うことないのか」

「ん、オレに何を言ってほしいんだ?」

 友喜に何を言ってもらいたいのか、それはもちろん――なんだろう?

 同情してもらっても、励ましてもらっても、それはあくまで他人の言葉。僕らの恋には関係がないものだ。恋なんて、結局二人だけの問題なんだ。当然のことに、今さら気付く。

「なにも言ってほしいことなんてないだろ?」

「確かにね。でも、恋愛未経験の君が偉そうに言うことじゃないでしょ」

 言い返してやる。


 咲良さんと過ごす日々は楽しい。

「あんなところにスズメがいるよ。可愛い」

 左手で指差した先には、確かに数羽のスズメが木の枝から枝へ飛び跳ねていた。スズメくらいどこにだっているだろうと思うけど、そんなささいな可愛らしいものを見つけるたびに、咲良さんは無邪気に笑った。僕はスズメよりも、そんな咲良さんの笑顔が可愛くて自然に笑顔になる。

「可愛いね」

 なんて、柄にもないことを言うと、

「ふかふかして、抱きしめたいくらい」

 スズメのことだと勘違いされた。ちょっと寂しいけど、わざわざ訂正するのも恥ずかしくて、何も言えずに黙りこむ。

 スズメはしばらく枝の間を跳んでたかと思うと、一匹が木から飛び立ったのを追いかけるように、残りが一斉にどこかへ飛び去った。それを見守った後、僕らはまた歩き出す。

 街路樹が紅葉した道を歩いていた。咲良さんに会いたいと誘ったのは僕で、デートに行くなら紅葉が見たいと場所を決めたのは咲良さんだった。

「私、この時期の木が一番好きだなあ」

 咲良さんは呟いた。

「春よりも?」

「春は梅や桜は綺麗だけど、他の木はほとんど一緒。それに比べて紅葉は木によって別々の色になるから、それぞれ別の良さが楽しめると思うの。赤や茶、黄色、緑色だってこの時期には特別な感じがするよ」

「そうだね、緑色のままなのも珍しいね」

 正直にいうと僕には紅葉のよさがよくわからない。葉っぱは緑色の時が一番綺麗じゃないか、なんて思ったりするのだけど、咲良さんが綺麗と言うなら綺麗なのだろうと無理やり納得する。ここで間違っても紅葉のことを枯れた葉っぱ達なんて言ったら、怒られるに違いない。

「それに私、この涼しさが好き。物悲しいって言われちゃうこともあるけどね」

「涼しいのは僕も好きだな」

 暑いのや寒いのが好きな人間も少ないだろうけど。

「あ、猫」

 と言われて見ると、確かに猫がいる。よくそんなにも素早く猫を見つけることが出来るな、と感心していたこともつかの間、彼女は猫の方へ走ろうとした。とっさに僕も走ろうとするが、その思いに反して、突然のことに足の筋肉は追いつかず、すぐに走りだすことは出来ない。繋いだはずの手は、僕らの間の距離が大きくなりすぎると、手のひらが離れ、指が離れ、ついにはつかむべき場所を失う。

 咲良さんは猫を捕まえた。咲良さんは猫に好かれやすい体質で、あの気まぐれな小動物の気難しい性質にもかかわらず、彼女が追っても猫が逃げることは少ないらしい。

「飼い猫だね、首輪してる」

 そう言って、僕に振り返る。そして不思議そうな顔をした。

「どうしたの? 顔色が悪いよ」

「いやなんでもない」

 そう、なんでもない、僕は僕自身に言い聞かせる。このまま咲良さんがどこかに走り去ってしまうなんて、そんなことはあり得ない。少なくともそれは今ではない。僕にはまだ咲良さんと過ごす楽しい未来の予定が残ってることを、僕自身わかっているはずなのに。

「猫アレルギー、ではなかったはずだと思ってたけど?」

 咲良さんは心配そうな表情で僕に訊く。

「いや、違うよ。僕は大丈夫だって。ただちょっと悪寒がしただけ」

「最近急に肌寒くなったから、風邪をひいたのかも」

 違うよ、そんなことないって。僕が否定しても、咲良さんの表情は変わらない。ゆっくりと僕に近づくと、

「一応熱がないか、確認した方がいいと思うの」

 と言って僕の額に手を伸ばす。そんなことしたら、風邪をひいてなくても僕の体温は上がっちゃうよ、と声に出して言うわけにもいかず、咲良さんは逃げ腰姿勢の僕の額に手を当てた。

数十秒、いや数秒だったのか。僕にはよくわからない。咲良さんは僕の額から手を離した。

「よくわからないなあ」

 こんなことやって、よくわからないってなんだよ、と怒るのも理不尽だけども、つい何か文句を言いたくなる。僕の不満も不安も、たぶん咲良さんは気付いていない。咲良さんの額と僕の額の上を、彼女の綺麗な手のひらが数往復する。それであきらめたと思ったら、

「えい、こうだ!」

 なんてわけのわからない掛け声を言い、僕の額に彼女の額をぶつけた。額と額がくっつく。今、咲良さんの顔は僕の目の前にあるはず。僕は目をつぶってしまってあけることができないけど、目を開けば目の前に、咲良さんの大きくて澄んだ黒い瞳があるはず。

 本当に僕の体温は上がってしまったんじゃないだろうか。

 もう時間なんてものはわからない。しばらくして、咲良さんは僕から離れると、なんてことはないといった風に、

「ごめん、やっぱりわからなかった」

 と申し訳なさそうに小声で言った。僕は風邪なんてひいてなかったはずなのに、ふらふらになっていた。

「でも、やっぱり、早く帰った方がいいと思う。家まで送る?」

 親切な咲良さんは僕を支えようとするけれど、そんなことしたら僕の体調はますます悪化するかもしれないぞ。僕は慌てて心を落ち着かせようとする。

「大丈夫さ」

 見栄を切りながらも、顔は真っ赤に違いない。かっこ悪いぞ、僕。

「無理に頑張らなくても、私にだったら甘えてもいいの」

 彼女は僕の肩に腕をまわし、身体を支えた。かっこ悪すぎだよ、僕。

 そんなこと考えながらも、咲良さんに連れられて家に帰る。さすがに、家に入る時は情けなくて、家の近くで咲良さんを説得して帰ってもらった。これで大丈夫、と思いきやまだ足元がおぼつかない。

一応体温を計ると、本当に熱があった。

 全くの偶然だけども、タイミングが悪い。


 風邪は想像以上に酷いものになった。ただの風邪のはずなのに体温はどんどん上昇していく。だるくて、けれども寝苦しくて、熱にうなされながらも、咲良さんのことを思っていたら、

「大丈夫?」

 と、僕は心配する声が聞こえた。願いが届いたのか。僕が目を開けると、そこには――友喜がいた。

「君かよ」

「オレで悪かったな」

 気分が悪いし、頭が痛い。こんなつらい時にわざわざやってくるなよ。

「お見舞いに来てやったけど、こりゃ時期が悪かったみたいだな」

「最悪だ」

「そうか、最悪か。まぁオレもすぐ帰る。咲良ちゃんも心配してたぜ」

「咲良!」

 考えるより先に声が出た。咲良さん、咲良さんに会いたいよぉ……。

「彼女の名前にだけは敏感だなんて、面倒くさい病人だな。お前、咲良ちゃんにまだ家に来るなとか言ったんじゃないのか? 私は家に行ったら悪いから、代わりに行ってください、ってメールが来たんだぞ」

 来るな、なんて言った覚えはないけど、忘れてるだけかもしれない。わからん。

「とにかく、役目は果たしたからオレは帰るぜ」

 そう言って、帰ろうとするとする友喜の腕をすかさず捕まえる。

「痛っ。腕をそんな強くつかむなよ」

「夢見るのが怖い」

「はぁ? 何が言いたいんだか」

「嫌な夢ばかり見る」

 嫌な夢。咲良さんと別れる夢ばかり。だから眠れない。

「って言われてもな……。オレにはなんもできねぇよ。腕離せって」

 渋々腕を離した。

「じゃあな」

 彼が立ち去って以降、僕はまた一人。


 悪い夢なら覚めてほしい。

 出来るだけ早く。

 悪い未来なら来ないでほしい。

 出来るだけ最後まで。

 夢か現実か区別がつかない程、繰り返し夢を見て、目が覚めて、今度こそ寝るまいと決意し、それでも熱の辛さに耐えきれずに寝て、夢を見る。

 夢は、いつかは覚める。嘘だということが分かる。

 けれども僕の夢は未来に起こること。つらい夢もそのまま現実となる。

「私、引っ越すことになったの」

 咲良さんが語る、悪い夢。

「本当は、紅葉を見に行った時に言うつもりだった。けれども言えなかった。次に会ったら、今度こそ話さなきゃいけない気がして、会いに行くのもためらってた。でも、満が私に会いたいって言っているって、友喜くんが私に教えてくれたの。私もちゃんと言わなきゃと思った」

 咲良さんは淡々と話す。

「引っ越すといっても、すぐにというわけじゃない。今年の末よ。でもそんな先の話でもない。学校ではもう言ってある、それなのに一番大事な人にはなかなか言えなかった。ごめんね」

「君が謝ることじゃないよ」

 僕は夢の中で呟いた。

 手を伸ばして咲良さんに触れようとするけど、僕の腕は鉛のように重くなっていて、持ち上げることさえもできなかった。それどころか、まぶたまでもが重くなって、僕は目を閉じる。咲良さんが見えない。目の前にいるはずなのに、触れることも見ることもできない。


 次に目を開けた時は、誰もいなかった。

 頭はまだ重いけど、大分熱は下がったようだ。たくさんの悪夢を出来るだけ頭から追い払うためにカーテンを開く。まぶしい。どうやら昼間のようだ。久々に太陽の光を浴びた気がした。こうやって光を浴びると、昨日までの風邪が嘘だったように感じる。

 日付を確認して、三日間も寝込んでいたことを知った。

 学校の授業はどれくらい進んだだろう、しっかり追いつけるだろうか。テスト問題を解く未来が見えればいいのだけど、今まで成功したことがない。結局勉強は人並みにやらなくてはいけない。そのためには、この三日間の休みは少々面倒くさいな。

 学生らしい真面目なことを考えてみた。そもそもテスト前と、ブランクがあいたときくらいしか勉強のことを考えることはないけど、来年の今頃はそうはいかないのだろう。

 ――咲良さん。

 そうだ、咲良さんのことを忘れてはいけない。彼女と遊びに行った日に風邪をひいたのだから、今頃さぞかし心配していることだろう。早く連絡して、元気な様子を伝え、彼女を安心させてあげなくては。

ケータイを開くと、何通もメールが溜まっていた。体調を心配するメールや、連絡事項が書かれたメール、そしてダイレクトメールだ。残念ながら、僕のケータイが受信するメールはダイレクトメールが一番多い。とりあえず、友達からのメールだけさっと目を通す。友喜からの魚偏の漢字を列挙しただけの内容のメールを除けば、これといった妙なメールは来ていない。

 咲良さんからは、僕を心配する内容のメールが一通あったきりだった。これも僕が返信をしていないのだから仕方がないだろう。元気になったのだから、今からそれなりの返信を送らなくては。

メールを送る。

 すぐに返信が来るかと思いきや、一時間たっても、来る気配がない。よくよく考えたら、まだ高校は授業をやっている時間だった。学校は二人の仲を引き裂く気か。そういえば、熱にうなされながら妙な夢を見たな。確か……咲良さんが引っ越す、それも今年の末に。

「今年の末!」

 思わず叫んでしまった。本当に今年の末だとしたら、三か月もないじゃないか。いや待て、夢で見るのは未来のことなんだから、咲良さんの言った今年がいつのことかは分からないじゃないか。何年も何十年も先のことかもしれない、きっとそうだ。

「うるさいよ、元気になったの?」

 叫び声が聞こえたらしい。母親の声が聞こえたと思ったら、勝手に部屋に入って来た。

「元気になったみたいね、よかった、よかった。これでまた明日から家事が減る」

「勝手に部屋に入るなよ」

「この三日間あんたを看病したのは誰だと思ってるの。今さら入ってくるなと言われても、もう遅いわよ」

 だからと言って堂々と入ってくることもないだろうに。見つかったら面倒な物は、常日頃から見つかりにくい場所に入れておいてよかった。

「それにあんたの彼女もわかっちゃったし」

「え、彼女?」

 まだ親には咲良さんのことを話していないはずなのに、なぜ彼女の存在を知っているんだ。まさか友喜、あいつが……。

「最近出かけることが多くなって、怪しいとは思ってたんだけどねぇ。見舞いにやって来た、咲良ちゃんって子、あれは彼女でしょ」

「咲良さん来たの?」

「どうやら図星みたいね。なかなか可愛い子じゃないの。取りあえず父さんには黙っとくから、頑張りなよ」

 ふふふ、なんて笑いながら、勝手にやってきた母親は勝手に去っていく。僕に何を頑張ってもらいたいのかは、よくわからない。

 咲良さんはいつの間に来ていたのだろう。少なくとも、僕には咲良さんが見舞いに来た記憶はない。ということは咲良さんが来た時僕は熱にうなされ、眠っていたのかもしれない。残念なことをしたなぁ。

いや、思い当たることはある。

 今年の末に引っ越す。あれが夢ではなかったのかもしれない。咲良さんは本当にここにやってきて、それを伝えたのかもしれない。未来に起こる悪夢の中に、現実のことが混じり込んでしまっても気付けてなかった。

「なんてことだ……」

 僕は頭を抱えた。熱は下がったはずなのに、また頭が痛くなる。ケータイが鳴り出した。この音楽は咲良さんからのメールだ。けれども、僕は怖くてケータイを開くことは出来ない。その文面を見た途端に、咲良さんの引っ越しは真実になってしまうような気がする。

 別れは僕が思っていた以上に早くやってくる。


 引っ越すことを知って以降、僕の世界の輝きはかなり弱くなった。

 未来に起こることに思いをはせ、楽しもうと思っても、楽しい未来はどんどん少なくなっている。別れが近づいてきている。思い浮かぶのは、あの別れの風景ばかりだ。

 咲良さんと遊びに行っても、なんとなく悲しい気持ちになる。咲良さんは最近思い出話ばかり話す。まるで、過去にしがみつくかのように。けれども僕は彼女の話に乗ることは難しい。彼女があの映画は楽しかったとか、あの時の料理はおいしかったとか、そんな話をしても僕は共感できない。僕は過去に起こったことの事実は覚えてるけど、それに対する感情を思い出すことは出来ないから。そうなると自然にそっけない返事ばかり返すようになる。

 あんなにも楽しかった日々が、一瞬にして崩れ去る。咲良さんが悪いんじゃない。咲良さんを、彼女の家族を、引っ越しせざる追えない状況にした人が悪い。でも、その誰かを憎んだところで、未来は変わらない。

 せめて、咲良さんとの残された時を大切にしようと、必死になってもがいている間にも、日付はどんどん変わっていく。どうにか、その一瞬を捕まえようとしても、僕の思い出にさえも残らない。蓄積されるのは事実だけ、日々の喜びは記憶の網目からこぼれおちていく。

 気付けば、別れの日は今日だった。


 もう咲良さんに会えるのは今日が最後かもしれない。それなのに、何を言うべきかが分からない。何をするべきなのかもわからない。気のきいたことができればいいのに、何も思いつかない。咲良さんがいなくなったら、僕はどう生きればいいかがわからない。

 家でグダグダ不可能を並べていても、これから起こる事実は変えようがない。それどころか、引っ越しの時刻を過ぎかねない。僕は咲良さんの書いてくれた地図を手に、引っ越し直前の彼女の家へ向かうことにした。そういえば、咲良さんの家に行くのはこれが初めてだ。

 あんなにも綺麗な咲良さんが住んでいる場所だから、彼女の家はとても綺麗な所なのだろうと思っていたのに、実際は普通の一軒家だった。僕の家よりは少し大きいけれど、あまり変わりはない。家の前には引っ越し屋のトラックが止まっていて、様々な家具や電化製品と思われるものを積み込んでいるところだった。外には咲良さんはいない。

「満、ここだよ!」

 上の方から咲良さんの声が聞こえた。見上げて見ると、彼女はベランダに立っていた。

「外に来れない?」

「今、家の中で引っ越し屋さんが大忙しだから、外に出るのは無理。もう少ししたら荷物積み込み終わるから、ちょっと待ってて」

 残された時間はあとわずかだ。ちょっとの時間がもったいない。

「本当に行っちゃうんだね」

「うん。行かなくて済むならそうしたかったけど、私一人残るわけにもいかないから……。会うことは難しくなっても、その分いっぱいメールはする。それに、長期の休みの日には会いに行けると思う」

「休みの時期には僕も行くよ」

「二人で同時に行ったら、すれ違いになっちゃうよ」

「そうだね」

 咲良さんがくすりと笑う。悲しい気持ちで満たされていた僕は、その笑顔に癒される。やっぱり僕は最後まで咲良さんのことが好きなんだ。

「詰め込みだいぶ終わったみたい。今から下降るね」

 そう言って、咲良さんは視界から消えた。

「お待たせしました」

 消えたと思っていたら、僕のすぐ横に現れた。髪が少し跳ねている。いつもの咲良さんらしくないことに、ベランダから走って来たらしい。少し呼吸が乱れている。

「大丈夫?」

「大丈夫。これくらいの距離走ったくらいで息切れしてしまうなんて、我ながら情けない」

 苦笑いをする。その笑い方が、少しいつもと違うみたいだ。空元気かな、と僕は考えた。

「ほら、不思議な形の雲がある」

 咲良さんは空を指差した。こんな時までも、彼女は面白いものをすぐに見つける。やっぱりいつも通りの咲良さんだ。安心して僕も一緒に空を見上げた。

 空。

 横長の雲が、いくつも並んでいた。

 まるで青空の右端から左端へ、白色のスプレーでたくさんの直線を引いたみたいに見える。

 どれだけの数の雲があるかわからない。

 地平線のずっと先まで続いているようだった。

「この雲、きっと私が行く先にも続いてるよ」

 咲良さんは言った。どんなに離れていても、僕らは同じ空を見ることになるのだろう。僕は静かに頷いた。

「……今の言ったの、忘れて。自分で言って、なんか恥ずかしかった」

「忘れないよ」

 僕は意地悪を言ったものだから、小さな口げんかが起こった。咲良さんが忘れて、というたびに僕の忘れるものかと意思がどんどん強まっていく。絶対に忘れない。僕は絶対に、咲良さんが僕を想う言葉を、忘れたりはしない。

 僕らが言い合いをしていると、誰かが咲良さんを呼ぶ声が聞こえた。

「もうすぐ、出発するみたい」

 僕の手を握る。

「ぎりぎりまで一緒にいる?」

 咲良さんは僕に訊く。家の中が騒がしい。引っ越しって大変なんだな。

「引っ越しの準備忙しいんでしょ?」

「そうだけど……」

「だったら手伝いをした方がいいよ」

 これでお別れ。咲良さんとは離れ離れになってしまう。ならば、ここでするべきことがあるはず。手が震えてる。でも最後くらいは、頑張るんだ、僕。

 咲良さんの背中へ腕をまわし、ぎゅっと抱きしめる。咲良さんはびっくりしたようだったけど、彼女も僕の背中へと腕をまわした。全身で温もりを感じる。冬なのに暖かい。

「遠くても、会いに行くよ」

「うん」

 お互いだけが聞こえるような小さな声で、囁く。世界には僕ら二人しかいない、そんな気がした。

「それまで」

 僕の頬に柔らかいものが触れた。えっ、と言う間もなく、咲良さんは頬を赤らめ、いたずらっぽい笑みを浮かべ、僕の腕の中から飛び出した。慌てて僕は彼女の手を握る。咲良さんは困ったように首を傾げた。僕は今、何を言うべきか。

「またね」

やっと僕その一言を絞り出す。

「またね」

 咲良さんも言う。

 繋いだ手が、今ほどけた。

 僕の頬に触れたものは何だったのか、ついに僕は知ることはできなかった。


「ミチコ、咲良ちゃん引っ越しちゃったんだって? お前の言った通りになっちまったな。大丈夫か、寂しくないか?」

 友喜が突然やってきて、何かと思えば、僕の恋の顛末を聞きに来たようだ。

「君に心配されるほど、僕は寂しくなんてないよ」

「無理しなくていいんだぜ。寂しい時には寂しいって言っても、オレは怒らない。何か出来ることがあったら、なんでもやってやる」

 何をたくらんでいるのか、今日ばかりは妙に優しい。

「大丈夫だって。そんなに君が優しいと、気持ちが悪い」

「何を言うんだよ。あんなに好きだった咲良ちゃんがいなくなっちゃったから、かなりさびしいだろうと思って、オレが心配してやってるのに」

「それが、よくわからないんだよ。確かに僕は咲良さんと付き合っていたという記憶はあるし、その子が可愛かったということは覚えてるんだけど、なんで僕は彼女のことが好きだったのかがわからない。夢でも見てたのかなぁ」

 僕が言い終わると、友喜はその場から動かなくなった。宇宙人でも見るかのような目で僕を見る。

「お前、それはなんの冗談だよ?」

 やっと口を開いたかと思えば、なぜか僕のことを疑っている。

「冗談も何も、事実だよ」

「あんなに咲良ちゃんのことが好きだったのに?」

「だからそれが分からないって、さっきも言ったじゃないか。僕は過去に起こったことに対する感情は、全く覚えていないんだよ。咲良さんが僕の恋人だったということは、僕はきっと彼女のことが好きだったのだろうけど、今となっては、本当に好きだったのかもよくわからないんだ」

「そんな……今度咲良ちゃんと会う時、お前は咲良ちゃんに会ったとしても、そんな反応するつもりなのか」

「さぁ、でもたぶん彼女とは、もう会うことはないと思うよ」

 これだけ説明したのに、友喜は全く納得する様子がない。ただ驚いてばかりいる。普段の彼は、こんなにも理解力がなかっただろうか。

「そうか」

 友喜はようやく落ち着いて呟いた。

「お前は咲良ちゃんと過ごした日々の喜びも、咲良ちゃんを好きだった感情もなくしてしまったんだな。未来に、咲良ちゃんと過ごす楽しい出来事がないから、咲良ちゃんが好きかどうかさえもわからなくなってしまったんだな」

「そんな風に改めて言わなくても、さっきから同じこと言ってるじゃないか」

「ミチ、ごめんな」

 友喜はとても悲しそうに言った。そして憐れむような目で僕を見る。けれども、僕は彼に憐れまれる理由なんてないし、なぜそんな目で見られなくてはいけないかが、分からなかった。


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