9・深遠の深淵
9・深遠の深淵
「・・・全部、見てきたよ」
「・・・そうか」
記憶の中を歩いている時、真愁はずっと手を握っていてくれた。この手に宿る感覚は、全てを知った私を慰めてくれる。
「これで終わったな」
「・・・何も聞かないの?」
「辛い思い出なんだろ?」
真愁はそう言うと、私の手を離した。
「薄っすらと朝霧が出てきたな。もう帰った方がいい」
もう終わり?・・・違う、まだ遣り残したことがある。
「まだ終わりじゃない」
「は?」
「もう少し一緒にいて」
そう言いながら私は真愁の手を取り、歩き出した。
「お、おい、何処に、」
私は真愁の手を引き、朝霧の中を歩いて社を目指した。
「助けたいの、水無月に伝わる刀を」
助けられてばかりなんて嫌だった。父にも、母にも、兄にも、何もしてあげられなかった。だからせめて、水無月の歴史だけは守りたい。時雨が悲劇を生み出したものだと、罵られるのは我慢できない。刀が持ってしまった戦慄を知って、出来るのなら浄化してあげたい。
社の前に立つと、異様な気配を感じた。
(やっぱり刀はここに)
おそらく処分することが出来ずに、元の場所に戻したに違いない。
私は両手で社の小さな扉を開放した。思ったとおり、時雨は社の中で眠っていた。
「なぁ、もういいだろ?」
「嫌よ。せめて刀だけでも救ってあげたい。あんな事言われて、退くわけにいかないじゃない。それに・・・」
「・・・それに、何だ?」
「私の、最後の家族だし」
私に握られていた真愁の手から力が抜けていく。私はそれを肯定と取った。
「いいのね?」
「言い出したら聞かないな。好きにしろよ、ちゃんと見届けるからさ」
私は無言で頷き、刀に手を伸ばした。
「・・・何があっても・・・朱音を守るよ」
静かに刀を手に取ると、しっかりとした重量感が圧し掛かった。
(・・・教えて、時雨)
想い、目を閉じる。いつもなら心に情景が浮かぶのだけど、今回は何も見えない。あるのはただの暗闇。
「・・・え?」
何かが迫ってくる。
「黒い、感情?」
とっさに身構えたが、そんなことは何の意味も持たない。迫り来る黒い感情が私を突き抜けていく。
(これは・・・家族を奪った、あの鴉の心)
黒い感情が私の心を侵食していく。
「我は今、時の牢獄に居る」
「魂は彷徨い、廻り続ける」
「終わらない時」
「募る憎悪」
「沸き立つ殺意」
「黒の衝撃」
「黒の衝動」
「お前にも・・・あるはず」
「あ・・・あ・・・あ」
黒い感情が、身も心も鷲掴みにして離さない。私の心が徐々に黒く染まっていくのを感じる。
(光が・・・見えない。闇しか・・・見えない)
「朱音、しっかりしろ。刀を捨てるんだ」
(真愁の声?ごめん・・・よく聞こえない)
私を弄ぶ黒い感情は、鋭い声で私を誘う。
(復讐の始まりだ)
「何処へ行く気だ?まさか、町へ?」
(・・・町?)
さっき見た幼い頃の記憶が心に映りだした。私を押さえつける無数の手。背中を染める毒。切り刻む視線。詰る言葉。
(お前にも・・・あるはず)
(・・・ある。持っている。憎しみも、怒りも、踏み躙りたい衝撃も、壊したい衝動も)
頭の中に、鞘から刀を抜く音が響いた。瞼の向こうに鋭い輝きを感じる。
「やめろ、朱音。誰も傷つけるな」
(あぁ・・・真愁。お願い、逃げて)
「約束だ、今助ける」
(止まって、)
私の意に反し、体は流れるような動作で刀を構える。
(駄目、止めて)
掲げられた刀を下げ、足の指に力を込めて踏み込む。その勢いを保ち、刀を振り上げる。
「俺、守人っていうのになるんだって」
「朱音を守る役目だってさ」
「そんなの守人じゃなくてもやるって」
「4歳になったから、これから稽古が始まるんだ」
「朱音一等賞だったんだろ?俺と一緒だ」
「朱音、稽古が終わったらまた遊ぼうな」
「またそうやって泣きそうになる」
「逃げろ、朱音」
「朱音は俺が守る。俺は朱音の・・・」
「起きろよ、朱音」
耳元で、真愁の声がする。
その優しい声は光に変わり、私の心を照らして闇を払う。
強張っていた腕から憎しみが消え、持っていた刀がするりと零れ落ちた。
「ほら、もう夜明けだ」
私は真愁の声に導かれ、ゆっくりと目を開けた。
「目、覚めたか?」
「・・・うん」
真愁は朝霧の中で私を抱きしめていた。懐かしい腕に抱かれ、私の心は満たされていく。そして胸いっぱいになった光は、涙に変わって瞳を満たす。
「また・・・そうやって泣きそうになる」
「どうして・・・こんなことに・・・。私、真愁の心を斬った」
次第に真愁の・・・兄の体から力が抜けていくのが分かる。
(今度は・・・私が支えになる)
私は兄を抱えたまま、地面に膝を付いた。
「・・・お兄ちゃん」
「なんだ、気付いていたんだ」
「だって、ずっと真愁から感じていたよ。深い・・・兄弟愛を」
兄の体から光が溶け出し、空に吸い込まれるように消えていく。
「私、取り返しのつかないことを・・・」
「泣くなよ・・・朱音。俺はずっと昔に死んでいるんだからさ」
その事実が、余計に涙を誘う。
「朱音の顔が一目見たくてさ・・・朱音の声が利きたくて・・・ずっとここに残っていたんだ。・・・想いが遂げられたと思ったら、朱音は苦しんでいた。・・・なんとか、助けたくて・・・」
「私を・・・ずっと待って。・・・今まで助けてくれて・・・」
「だって・・・俺はお前の・・・」
涙が止まらない。胸が張り裂けそう。
「そんな顔するなよ」
兄はそう言いながら、私の頭を撫でてくれた。
「笑えよ。今は光の中に居るんだからさ」
闇を払い、光で満たしてくれたのは、紛れもない私の家族。最愛の・・兄。
「もう・・・時間だ」
私は涙を撒きながら首を振った。
「やだ・・・やだぁ・・・」
「聞け、朱音」
兄は私の髪を撫でながら首に手を回し、口元へ引き寄せた。
「いつまでも縛られちゃ駄目だ。黒い影は消えることはないけど・・・怯えるな。これからは、自分の力で振り払うんだ。約束してくれ」
私は無言で頷いた。
「いい子だ。・・・さすがは俺の妹」
そう言うと、兄はもう一度頭を撫でてくれた。
「時雨の意味、知っているか?」
「え?」
「泣いて涙を落とす」
「この刀は自愛の刀なんだ。誰も殺めず、悪しき心だけを斬る刀として水無月家に伝わっている。・・・でも20年前の悲劇で黒く染まってしまった。・・・けど今は・・・お前の手で救われたみたいだ。・・・見ろよ」
私は地面に落ちている時雨に目を向けた。刀身に朝霧が集い、やがて雫に変わった。時雨に出来た雫は刀身を伝い、大地へと帰った。
「ほら・・・泣いて涙を落としている。お前が救ったんだよ」
「・・・ありがとう・・・お兄ちゃん」
「そう。そうやって・・・泣かずに、笑って生きてくれ」
私は強く真愁の手を握った。
「じゃあな。・・・幸せになれよ」
兄はそう言い残すと、体が完全に光に変わった。兄の光は私を覆い、私の中に染み込むように消えていった。
「約束するよ・・・優しい想い出をくれて、ありがとう・・・」




