7・欲火に焦がれる者
7・欲火に焦がれる者
4歳の頃の私は、兄と同じ部屋で寝ていた。夜が怖い私は、夜中に一人でトイレに行くことができず、兄に一緒に着いて来てもらっていた。・・・あの夜もそう。
「ねぇ・・・お兄ちゃん、起きて」
「うん・・・何だよ」
「トイレ行きたい」
「・・・一人で行けよ」
「一人じゃ怖いもん」
私のわがままに兄は嫌がっていたが、結局折れてくれた。目を擦りながら、しぶしぶ私の手を引いて一緒にトイレへ。
「ねぇ、ちゃんといる?」
「いるってば。早く・・・しなよ」
大きな欠伸がトイレのドアを突き抜けて聞こえる。気の抜けるような安堵感が私を訪れた。
「ごめんね、ありがとう」
「ん、いいよ」
再び私の手を引いて部屋に戻ろうとする兄。歩く度に床の軋む音がする。
「もっとゆっくり歩いてよ」
「朱音は怖がりだなぁ」
兄にしがみつきながら部屋に戻る途中、リビングの方に明かりが点いているのに気が付いた。
「まだ起きているのかな?」
「まだ10時だから、大人は寝ないんだよ。なぁ、ちょっと行ってみようか?何か美味しい物食べているかもしれないぞ」
「えぇ、ずるい」
「よし、行ってみよう」
兄は私の手を引き、リビングの方へ。そして、そっと襖に手を掛けた時だ。乱暴に玄関の戸が開かれた。私達は驚いて悲鳴を上げた。
「はぁ、っあ・・・。お前達、まだ起きていたのか?」
玄関を開けたのはお父さんだった。
「ご、ごめんなさい。トイレに行って、明かりが、見えたから・・・」
兄は言葉を詰まらせながら、手振りを交えて説明した。こんな時でも、兄は私の手を離さなかった。
「いや、いいんだ」
お父さんは肩で息をしながら言った。
「あなた、どうしたの?」
リビングから慌ててお母さんが出てきた。
「今さっき、社に行ってみたら、見知らぬ人がいた」
「まさかさっき電話で連絡があった・・・」
「かもしれない。社の中にある時雨を手にしたら、大変なことになる」
時雨とは、社の中に収められている刀の名前。
「さあ出て来い、水無月!長い間この時を待ったぞ!」
突然、外に荒々しい叫び声が聞こえた。叫び声と言うより、獣の咆哮に近い。
異常なまでの威圧感に怯えるように、玄関の戸がカタカタと音を立てた。
私は訳が分からず、お父さんとお母さんの顔を交互に見つめていた。二人とも、青ざめている。
「君は二人を連れて行け」
「そんな、みんなで逃げましょう」
お母さんは泣きそうな声をしている。
「すぐそこまで来ている。私が食い止めるから、その内に」
「無茶よ」
「無茶でもいい。資格こそないが、私は家族の守人だ」
「でも・・・でも!」
「闇を祓える二人を頼んだよ。・・・さぁ、早く」
その言葉が、私が聞いたお父さんの最後の言葉。
お父さんが玄関に向かって走り出すと、お母さんはその場に泣き崩れた。
「おかあ・・・さん?」
4歳の私には、この時何が起きたのか全く分からなかった。
「これが・・・宿命」
小さな声でそう呟くと、お母さんは覚悟を決めた顔で立ち上がり、私達の手を取った。
「二人とも、私の手を離さないでね」
お母さんが駆け出そうとしたその時、外から声が聞こえた。
「久しいな、水無月の者。と言っても、お前と会うのは初めてか」
「その禍々しい目・・・間違いない」
「察しがいいな」
「・・・話しは聞いている。お前が鴉か」
「お前に用はない。水無月の血筋を出せ」
「やっぱり・・・鴉が・・・」
お母さんの手に力がこもった。
「出す気はないか。なら呼んでもらおうか」
外から激しく砂利を踏む音と、鋭い風切り音が聞こえ始めた。その音に続き、砂利と金属がぶつかる音が聞こえた。
「まさか・・・」
お母さんは無言のまま私達の部屋へと素早く移動した。そして部屋の照明を消すと、押入れの襖を開けた。
「早く、この中に入って」
その言葉にいち早く反応した兄が、先に押入れに入り込んだ。
「朱音、早く入れ」
私は訳が分からないまま言葉に従った。押入れの中に入ると、兄は私を引き寄せ、背中から私を抱いた。
お母さんは押入れを閉めると、戸越に小さな声で言葉を送った。
「何があっても、この中でじっとしていて。声を出しちゃ駄目よ」
その言葉が、私が聞いたお母さんの最後の言葉。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「怖いよ・・・お兄ちゃん」
「大丈夫。俺が守ってやるよ」
頭を撫でながら、耳元でそっと囁く兄。
重なり合う心音。私は今・・・守られている。
乱暴に玄関を開ける音が暗闇に響いた。私を抱く手に力が入る。
「声、出すなよ」
私は頷いて答えた。
・・・ギィ・・・
・・・ギィ・・・
・・・ギィ・・・
床の軋む音が家の中を徘徊している。
遠ざかる足音。完全な静寂が、余計に私の正気を削っていく。口を窄め、ゆっくりと呼吸をするものの、破裂しそうな心臓に振り回され、痙攣するように体が揺れる。
再び床の軋む音が聞こえ始めた。徐々にこの部屋へと近づいてくる。
・・・ギィ
・・・ギィ・・・
ギィ・・・
ギ
音が部屋の前で止まった。
スーっと静かに襖が開く音。
緊張の限界に達した私は、呼吸の仕方を忘れ、喉を鳴らして息を吸い込んだ。
お兄ちゃんが慌てて私の口に手を当てた。
「隠れてないで、出てきたらどうだ?」
見知らぬ男の声に、私は祈るように手を握り合わせた。
「そう恐れるな。・・・迎えに来ただけだ」
唸る心音を少しでも抑えようと、私は握り合わせた手を胸へ運んだ。
「出て来ないか・・・残念だ」
男は突然、押入れに刀を刺してきた。
目の前で刀が妖しく揺れている。私の息が完全に止まった。目の前が霞み、意識がまどろむように曖昧になっていく。
唐紙が擦れる音を響かせながら、ゆっくりと刀が抜かれていく。開けられた穴から月明かりが差し込んだ。
無音の時。私は強く目を閉じた。
どれだけの時間が過ぎたのか分からない。刹那?永劫?
尽きるように瞼から力が抜けていく。私の意志に逆らい、開かれる眼。
うつろう瞳が最初に映し出したのは、刀で開けられた穴から覗く、深紅の眼だった。
「あ・・・あ・・・お、お兄ちゃん」
「逃げろ、朱音!」
兄は勢いよく押入れを開けると、男に飛びかかって行った。
「早く逃げろ」
よろめく男の足にしがみつき、小さな力で抵抗を始めた。
「でも・・・でも、」
「いいから、早く行け!」
「・・・っ」
気迫のこもった言葉に押されるように、私は走り出した。喚きながら、泣きながら、必死に足を動かした。そして気が狂いそうな中、靴に足を乱暴にはめ込み、よろめきながら再び駆け出した。
「これが、この家を襲った悲劇。真愁・・・私・・・」
「朱音、もういい」
「私・・・私」
「もういいって」
欠けた記憶。大切な人を全て奪われる記憶。色濃い、漆黒の記憶。
「もうすぐ夜が明ける。もうここを出よう」
「まだ・・・終わってない」
そう・・・まだ終わりじゃない。
「何を言う」
「この後・・・私はどうなったの?背中に浮かび上がった文字は何?」
そう、欠けた記憶にはまだ続きがある。
・・・知りたい。全てを見届けなければ、私の世界は救われない。
「この家から逃げた後の事なんて、どうやって知る?何を触っても分かるはずない」
いや・・・それは違う。
「一つだけ、方法があるよ」
「・・・?」
もうこれしかない。欠けた真実を埋める、唯一の方法。
私は深呼吸をした後、自分の胸に手を当てた。
「私自身に触れば・・・見えるはず。試したことないけどね」
そう言って、下手な作り笑いを浮かべると、真愁は真顔で私の瞳を覗き込んだ。
「ふう・・・止めても無駄か」
覚悟を察してくれた真愁に、今度は本当の笑顔を浮かべた。
「繋いだ手、離さないでね」
「ああ、約束だ」
その言葉を胸に宿し、私は目を閉じた。




