5・誡めの傷跡
5・誡めの傷跡
背中を何かが伝う感触がする。その軌跡を追うように、今度は燃え上がるような痛みが背中を這う。
「熱、い」
紅蓮の炎が私に焼印を施す。そんな感じだ。
「痛っ」
激しさを増す痛みに、私は目を開けた。
「・・・夢じゃないの?」
目が覚めた今も、痛みは消えず、熱は私を焼き続けている。
「背中が・・・」
私は布団の中で蹲り、痛みに耐えた。
どれだけ時間が経ったか分からないが、ようやく痛みはぼやけ、徐々に熱が退いていく。
私は布団を跳ね除けた。
「・・・っ」
夏の空気すら冷たく感じる。荒く息を吐きながら、背中に手を回して優しく撫でる。
「・・・・・・」
汗で纏わり付くシャツを着替えようと思い、私は静かに立ち上がった。
静かに居間の電気を付け、バックから替えのシャツを取り出した。続いて背中を気遣いながらシャツを脱ぐと、ふとあることを思い出した。
(そうだ・・・旅館でお風呂に入った時、女将さんが私の背中を見ていた・・・)
背中を凝視する視線を思い出すと、急に体が寒くなった。
「・・・」
私は脱いだシャツをバックの上に置き、ゆっくり視線を左に向けた。そこには等身大の鏡があり、鏡には、何かに怯えた目をした私が映っている。
「・・・怖い」
私を囲むように騒ぐ虫達の声が心を乱し、不安を煽る。
私はゆっくりと鏡に背中を映した。
「圭り」
※現在では使われていない言葉のようです。「けい」と読みます。意味は「家畜などを、嬲り殺す」
「はぁ・・・あぁ・・・」
人は本物の恐怖に対峙した時、何も言えない。失ったように、言葉が出てこない。
発狂しそうなほど怯え、視界は歪み、全てが闇に覆われていく。
私は震えながらシャツを着て背中を隠した。そしてこの場から、自分を染めようとする闇から逃げ出した。
自分の思考すら振り払うように、暗闇の雲に覆われた空の下を私は走り続ける。
(何も考えたくない)
私の背中めがけ、後ろから無数の手が伸びてくる気配がする。これは幻想じゃない。私を呼び覚ます、意識の訴え。
(付いてこないで)
後ろを見ない。
(触らないで)
前も見ない。
(何で・・・私が)
どこも闇。
(うるさい。聞きたくない)
目に映る全てが闇。
(もう・・・楽になりたい)
街灯のない海岸沿いの道路を走り続けると、不気味なまでに赤く染まった鳥居が見えてきた。
(きっと、全ての始まりがここにある。このまま逃げ切れないのなら、どこまでも纏わりついて来るのであれば・・・いっそ、全てを知って、)
「壊れてしまえばいい」
自分が自棄になっているのは分かっている。それでも止められない。止められやしない。
「っ、」
恐怖に飲み込まれる前にと思い、私は石段を駆け上がった。
破裂しそうな心音が、私の息を崩す。
異常な呼吸音を木霊させながら、私は一心不乱に石段を登り続けた。
(みんな消えてしまえ。全て・・・消えてしまえっ)
思うように上がらない足が縺れ、私は石段に両手を付いて倒れ込んだ。
(痛・・・)
拳を握りながら横を見ると、わずかな風に靡く木の枝、そしてその奥下には、漆黒に染まった海が今にも全てを飲み込もうとうごめいていた。
(・・・怖い。この町は・・・黒い闇)
そう思うと、この町であった事が次々と脳裏に張り付いた。
萎縮するように蹲っていく私。このまま闇に染まると思った時、たった一つだけ、光でできた思い出が浮かんだ。
「・・・真愁!」
大きすぎて掠れた声で、私は光の名を呼んだ。
「真愁!」
「こんな真夜中にここへ来るなんて、物好きだな」
出会った時と同じ、涼しげな声。
「どうした?怯えているのか?」
私は頑なに強張っている顔をゆっくりと上げた。するとそこには、明るい表情で私の顔を覗き込む、真愁の姿があった。
「真愁・・・どうして?」
「どうしてって、俺の名を呼んだだろ?」
あぁ・・・光が・・・闇を祓う。
私は全てを真愁に話した。何故かこの町の住人が私を知っていること。私を忌んでいること。港で会ったおばあちゃんのこと。背中に浮かび上がった文字のこと。恐怖に駆られ、自棄になってここまで走ってきたこと。
言葉を吐き出すにつれ、私は少しずつ落ち着きを取り戻していった。でも、目の奥に潜む恐怖心だけは拭い切れなかった。
「話は分かったよ。・・・それで?これからどうしたい?」
「・・・・・・」
「これ以上怖い思いをしたくないなら、朝までここにいればいい。俺が一緒に居てやるよ。夜が明けたら船に乗って帰れ。そしてここでのことは忘れろ」
(全てを、忘れる選択)
「もし・・・もしもだ。真実が知りたいのなら、ここを登りきれ」
「知る手掛かりがあるの?」
「・・・さぁ、」
真愁はバツが悪そうに目を逸らした。
「俺は選んでやれない。自分で決めるんだ」
私に選択を迫る真愁。それを照らすように、千切れた暗闇の雲から月明かりが差し込んだ。
光の矢筋を辿って空を見上げると、訴えの象徴のような、欠けた月が静かに輝いていた。
(これはきっと・・・私に咲く運命)
「私は、ここで遭ったことを忘れることなんてできない。忘れたフリもできそうにない」
それだけ深い闇。心に根付く、深い闇。
「それに、全てを忘れることができたとしたら、真愁もおばあちゃんも、ルルも消えちゃう。私の中で消えちゃう」
私が本当に怖いのは・・・。
「いい思い出を忘れて生きるのは嫌。私の中で、誰かが消えてしまうのは絶対に嫌」
私の為に泣いてくれたお婆ちゃん。町を案内してくれたルル。そして、光を感じさせてくれた真愁。
・・・消えさせはしない。
「それは自棄になっての意思じゃないな?」
「・・・うん」
「選んだ選択を、後悔に繋がないな?」
真愁は私に手を差し伸べた。この手を取ったら、私はもう戻れない。
(どうしよう・・・。なぁんてね)
私は迷わず真愁の手を取った。
「後悔なんかしない。私が自分の心で選んだ未来なんだから」
真愁は鼻で小さく笑うと、グッと私の手を引いた。
「じゃあ、行こうか」
私達は手を繋いだまま石段を登り始めた。先ほどとは違い、月明かりがしっかりと足元を照らしてくれている。ふと横を見ると、漆黒に染まっていた海に、ほんの少し輝きが戻っていた。
「海が恋しいのか?」
「別に、そういう訳じゃ、」
「心配するな。朝が来たら船に乗って海の上にいるさ。それまでは・・・俺が守ってやるよ。何があってもな」
真愁の言葉に、私の胸が少し疼いた。
「おやおや?私に惚れたのかな?」
「・・・馬鹿、そんなのじゃない」
真愁は何もなかったように、私の手を握ったまま石段を登り続けた。
(じゃあ・・・どんなの?)
石段の頂上にある鳥居の前で真愁は立ち止まり、私の方へ振り返った。
「この鳥居が入り口と言えるな。最後にもう一度、」
「聞かなくていいよ」
私は真愁の言葉に割り込んだ。
「ここで逃げたら、私は闇から抜け出せなくなる」
「・・・そうか。そうだな」
私達は最後の石段を登り、鳥居をくぐった。わずかな月明かりにさらされた古びた神社が見える。
(ここが・・・私の家?生まれ、育った?)
「何か思い出したか?」
「・・・何も」
明かりの付いた神社を想像してみたが、全く記憶は呼び起こされなかった。縁日の賑わいも試してみたが、結果は同じだった。
(明かりに縁日・・・。怖がっているだけじゃない)
何を想像しても、今感じている恐怖は和まなかった。
「神社に入るぞ」
私は無言で真愁の後ろを付いていった。
「ん・・・硬いな」
真愁は神社の入り口の戸に手を掛けると、息を止めてそう言った。その声に混じり、戸の軋む音が耳を劈いた。
「・・・っと、」
両手で力を込めて戸を開くと、舞い上がった埃の一つ一つを月明かりが照らした。
「よし、入るぞ」
私は声を出さず、後に続いた。足音を殺すように、そっと足を運ぶ。
「喋らないな。怖いの、」
「ひっ」
私は息が止まった。硬直した私の手が真愁の手を締め上げた。
「いで、どうした?」
「ひ、人がいる」
私は闇に薄っすらと浮かぶ人相を指差した。
「これは人じゃない、ただの像だよ」
「あ、や、」
言葉が出てこない。
「ちょっと待ってろよ」
真愁は小走りで入り口に戻ると、開きかけの戸を全部開放した。さっきよりも多くの月明かりが差し込む。
「ほら、よく見ろ。ただの観音像だ」
真愁の言うとおり、私が見えた人相の正体は、桐の箱の上に乗った観音像だった。
「本当だ。・・・なぁんだ」
しかし、これはこれで怖い。
(これは・・・年代物の箱だね。紫色で模様が施されている)
流れるような曲線は、美しいとしか言いようがない。
「それにしても、脅かさないでくれる?別に怒ってないけどね」
「何をブツブツ言っているんだ?早く済ませよう」
「ん、うん」
「手掛かりがあるとしたら、家の中か」
そう呟きながら、真愁は歩き続けた。私は黙って後に続く。
奥に進んで行くと、一枚のドアが私達の行く手を遮った。躊躇わずに真愁がドアを開けると、たくさんの月明かりが私達を照らした。眩しさに目を細めながらも、私は真愁の後ろからドアの向こうを覗き込んだ。
(窓がたくさん。それでか)
ドアの向こうは長い渡り廊下に繋がっていた。両脇には窓が連なっていて、月明かりが窓枠の影を廊下に映し出している。
「この廊下はどこに繋がっているの?」
「・・・行けば分かるさ」
真愁はそう言うとドアをくぐった。勿論、私もそれに続く。私は向こうのドアまで、子供のように窓枠の影の上だけを歩き、廊下を渡った。
「渡り廊下とは、隣り合う建物を繋ぐ廊下だ。つまり、このドアの向こうは?」
「私が・・・育った場所?」
「そうなるな」
私は思わず固唾を呑んだ。




