4・鍵を持つ人
4・鍵を持つ人
私は慌てて声の主を捜した。流れる群集の中、私は一人の老婆と目が合った。その瞬間、二人の時が止まった。
再び時が動き出すと、老婆は唇を強く閉じ、慌てて私から目を逸らした。そして私の中で、疑惑が確信へと変わった。
(この町の住人は私を知っている。忌わしく思い、私自身を戒めている)
ここを去って終わりにするか、追い求めて不可思議の正体を知るか。自分の意思で未来を動かす時だ。
(私は・・・真実が知りたい)
そそくさとこの場を去ろうとする老婆を追いかける為、私は走り出した。
「待って、お婆ちゃん」
人ごみを掻き分けていると、ふと心が問いかけた。
(後悔しない?)
(・・・しない。衝動に駆られていても、これは私の意志。私は、自分の選択を信じる)
答えを返すと同時に、私は老婆の手を掴んだ。
「お婆ちゃん、どうして私を知っているの?お婆ちゃんだけじゃない、町の人みんなが私を知っている。どうして?何でこの町は私のことを嫌っているの?」
「ご、御免なさい、人違いでした」
私の気迫に気圧されたのか、驚いた様子で老婆は答えた。
「そんなはずない。お婆ちゃん、さっき私の名前を呼んだでしょ?」
次第に頭が熱くなっていくのが分かる。行き着く所を知らない感情は、私の中全てを駆け巡り、やがては結晶へと姿を変え、体の外へと流れ出した。
「教えて・・・どうして、何でみんなが私を知っているの?」どうして・・・みんなが、私を嫌うの?
最後の方は言葉に成りきらなかった。私は体を支えることが出来なくなり、その場に泣き崩れてしまった。
「朱音ちゃん・・・辛い目にあったんだね。ほら、泣くんじゃないよ。さ、立って」
お婆ちゃんは私の肩を揺らした後、ぎゅっと支えた。そして力強く私を立ち上がらせた。と言うより、持ち上げた、かな。
「・・・っ・・・っ」
それでも涙は止まらない。施錠の外れた心が私を支配し続けている。大粒の涙が滞ることなく溢れてくる。私は瞳を両手で覆い、涙を受け止めることしか出来なかった。それはまるで、幼い子供のよう。
「よしよし、もう泣かない。ね?」
お婆ちゃんは私を覆うように包んでくれた。それが私の心の施錠をもう一つ外し、今度は甘えたい気持ちが暴れ出した。
あの、暖かさを求める幼い頃の感覚・・・。
私は側にあったベンチでしばらくの間泣き続けた。すっかり空が茜色に染まった頃、涙は枯れ、心は満たされた。
泣き止んでからしばらく無言でいると、私にようやく恥ずかしいという感情が戻ってきた。それが余計気まずく、口を微かに開いては言葉を呑み、唇を噛む。どれだけそれを繰り返したか分からない。・・・後どれ位続くのだろう。
最初に、静寂を破るのは・・・何の音?
くー。
それは私の、お腹の虫の音。
聞いた途端、お婆ちゃんは大きな声で笑い出した。その声は、次第に私の顔を赤く染めていく。そして空の色が、それをそっと隠してくれた。
「そんなに笑わなくてもいいでしょ」
「いやいや、ごめんね、安心したんだよ。お腹空いたのかい?」
「ん、ちょっと。あいや、結構、かな?昨日の夜から何も食べてないから」
思い返すと、丸一日何も食べていないことに気が付いた。
「朝早く、旅館を追い出されたんだ。それからどのお店に行っても嫌がられてさ、結局何も食べられなかった」
学校から帰ってきて、今日あった事を愚痴る小学生のように私は話した。
「帰りの切符は?もう買ったのかい?」
「まだ。それどころか、船に乗って帰れるのか調べてない」
「多分・・・帰れるよ」
「え?」
「・・・いや。何でもないよ。それより、私の家に来るかい?」
少し戸惑い、躊躇いながらもお婆ちゃんは私を優しく誘った。どこか、覚悟を感じさせる表情をしている。
「・・・いいの?」
「ああ。・・・それじゃあ、行こうかね」
お婆ちゃんはベンチから立ち上がると、私の手を引いて歩き出した。私は躓きながら、お婆ちゃんの隣に急いだ。
私はこの時、お婆ちゃんの心を覗けなかった。覗こうとしなかった。代わりに、柔らかく暖かな手は、幼い頃の記憶を映し出し、私の心をふんわりと包む。心が羽を得たようだ。
「・・・トキ」
港のすぐ側の一軒家。その家の表札にそう書かれている。
「お婆ちゃんの名前?」
「そう。カタカナで、トキ」
「じゃあ、隣に書いてある、ルル、は?」
「一緒に住んでいる猫の名だよ」
そう答えながら戸を開けると、一匹の猫が行儀良く私を迎えた。
「ああっ」
「どうしたんだい?」
私を迎えた猫には見覚えがあった。そう、間違いない。
「私を港まで案内してくれた猫だ」
「じゃあ、ルルに首輪を付けたのは朱音ちゃんかい?」
首輪とはビーズアクセサリーのことだ。
「そうそう、案内してくれたお礼にと思ってね」
私はルルを抱き上げた。ルルは抵抗することなく私に身を任せた。
「・・・あれ?左目、良くなったんだ」
会った時、左目だけが赤くなっていたのを、私は鮮明に記憶していた。
「何だか雰囲気が違うねぇ。本当に私を案内した猫?」
そう独り言を言うと、猫は欠伸をしながら前足で首輪を掻いた。
「・・・だよね」
予想外の再会を果たした私は、姿の無い予感を感じた。これは運命?それとも・・・。
「さぁ、突っ立ってないで入んなさい」
「あ・・うん」
私はまだ、何も知らない。きっとこれから知ることになるのだろう。但し、私がそう望めば、だ。
(・・・本当に知りたいの?)
「ご飯作っている間に、お風呂に入っちゃいな」
最初は遠慮しようと思ったのだけれど、肌触りの悪いシャツがそれを許さなかった。私をそそのかすように張り付き、無言で訴えてくる。
「・・・助かります」
「遠慮はいらないよ」
気のいい声に、私は手を合わせて感謝した。
(色んな道があっても、最後は自分の意思で選ぶんだ。そして自分の意思を信じる。そうすれば、例え選んだ選択が間違っていたとしても、後悔までは至らない。朱音にはそうやって生きて欲しい。・・・心のままに、生きて欲しい。分かるね?)
湯船に浸かりながら、私はお爺ちゃんがくれた言葉を思い出した。
「分かっている。今私は、自分の意思でここにいるよ」
私は白く染まった湯船に浮かぶ香草を手に取った。葉に付いた水滴を振り払い、茎から葉脈を辿り、先端まで目で追う。
「いい香り」
立ち昇る湯気が香草を撫でると、先端に水滴が出来上がった。大きくなった水滴は、ゆっくりと葉脈を降り始めた。やがて水滴は茎を伝い、私の手を伝い、生まれた場所である湯船へと還った。
「・・・在るべき所へ、か」
これも予感の一つなのだろうか?辿っている運命の一部なのだろうか?
「・・・お腹空いた」
「随分と長湯だったね」
「おかげでサッパリしました」
「さ、いっぱい食べて」
私は酔っ払ったようにフラフラと畳の上を歩き、お婆ちゃんの向かい側に腰を下ろした。丸いテーブルの上には沢山の手料理が所狭しと並んでいる。どれも美味しそう・・・だけど、
「こんなに食べられないよ」
「そうかい?あんまり大きなお腹の音だったからね、つい」
「むぅ・・・」
お婆ちゃんの笑い声が、私の恥ずかしい気持ちを蘇らせた。
「頂きます」
予想通り、全てを平らげることは出来なかった。残しては申し訳ないと思い、限界以上には食べたのだけど・・・。
ルルも食べ過ぎたのか、横になって動く気配が全く無い。
「ご馳走様」
「無理しなくてもよかったのに」
「大丈夫」
・・・だと思う。
食後のお茶を入れているお婆ちゃんに、私は尋ねることにした。
「お婆ちゃん。私、どうしても知りたい。何故、この町の人が私を知っているのか。それから、どうして私を拒むのかを」
下を向いたまましばらく黙っていたお婆ちゃんが、ゆっくりと口を開いた。
「世の中、知らなくていいこともある」
やっぱり、おばあちゃんは何かを知っている。
「それでも、私は知りたい。信じたいの、知りたいって私の気持ちをね。だからお願い、知っていることを教えて。
急須に注がれたお湯が煎じられ、湯飲みへと注がれていく。徐々に湯飲みを満たしていく音が、やけに鮮明に聞こえる。
「朱音ちゃんはね、この町に住んでいたことがあるんだよ」
衝撃の言葉を述べながら、お婆ちゃんは私に湯飲みを差し出した。
「私が・・・ここに住んでいた?」
「本当に小さい頃にね。多分・・・4歳までかな。港のすぐ側に鳥居があってね、」
「知ってる。今日行ってきたから」
「・・・そうかい。石段は登ったのかい?」
「途中まで。登りきらないで引き返したの」
「そうかい・・・。石段を登りきると、神社があるんだ。朱音ちゃんはその神社で生まれ、育ったんだよ」
「知らない・・・そんなの知らない」
いくら思い返しても、そんな記憶は見当たらない。一欠けらも捜し出せない。
「きっと忘れてしまったんだよ。とても辛いことがあったから」
「辛いこと?」
それがきっと、町の人が私を拒む理由なのだろう。
「昔・・・この町で何があったの?」
「・・・・・・」
「お婆ちゃん?」
「・・・・・・」
お婆ちゃんは下を向いたまま、沈黙を続けている。顔を上げるどころか、少しずつ前のめりになっていく。
そんな姿を見た私は、何も言えなくなった。湯飲みの中で揺れている水面を、黙ってみているしかなかった。
「・・・ごめんね、朱音ちゃん」
お婆ちゃんは土下座をするような姿勢に蹲ると、掠れた声で泣き出した。
「ごめんね、やっぱり言えないよ。もう、これ以上は・・・許しておくれ」
許しを請うお婆ちゃんの姿を見た私は、苦しいほどに胸が締め付けられた。
本当に痛い。お婆ちゃんの苦しみが伝わってきて、息が出来ないほどに痛い。
「いいよ、お婆ちゃん。お願いだから泣かないで。もう何も、言わなくてもいいから。もう・・・いいから・・・だから・・・」
お婆ちゃんの心を両手で掬い取ると、瞬く間に指の隙間から零れ落ちた。私には抱えることの出来ない心。
私とお婆ちゃんは一緒になって泣き続けた。ルルも、一緒に泣き出した。
「誤らないで・・・お婆ちゃんが泣くことなんてないよ」
私の言葉に、お婆ちゃんがより強く泣き始めた。私もそれに続き、ルルも私たちに釣られた。
悲しい心が乾くまで泣き続けた後、私は後悔しなかった。
みんなが泣き止んだ後、私はお婆ちゃんが敷いてくれた布団で並んで眠った。月明かりだけの薄暗い部屋で目を閉じると、頭の中がすぐに真っ白になった。きっと泣きすぎたせいだろう。
(あの日のようにまた、自分が分からなくなるところだったな)
ふと、心に浮かぶ声。
(あの日・・・って、いつよ?)




