恋愛禁止の理由
その後、ひと通り騒ぎが落ち着き、俺たちはリビングのローテーブルを囲んで座っていた。
さっきまでの混乱が嘘みたいに静かだ。
けれど、その静けさの奥に、まだ警戒の空気が残っている。
俺は思い切って口を開いた。
「なぁ、なんで恋愛禁止なんて書いてあるんだ? そこまで気にする必要あるのか?」
凛の表情がわずかに曇る。
「……この家は、前に色々あったのよ」
その“色々”の言い方が、軽いようで重い。
「色々って?」
「別に、あんたは知らなくていいでしょ」
ぴしゃりと遮られる。
その横から、奏が面白がるように身を乗り出した。
「知りたい〜? 凛、けっこう大変だったんだよ?」
「ちょ、言わなくていいでしょ!」
奏はわざとらしく指を折り始める。
「一人目は、毎日ラブレター攻撃。ポストがパンパン」
「二人目は、夜中にリビングで待ち伏せ」
「三人目は、告白断ったら逆ギレ」
淡々と並べられる内容に、背筋が少し冷える。
「うわ……」
思わず本音が漏れた。
凛は視線を逸らさないまま、最後を付け足す。
「四人目は、無理やり襲おうとしてきた」
空気が変わる。
さっきまでの軽さが、一瞬だけ消えた。
「それ、完全に犯罪だろ」
「未遂で止めたけどね」
あまりにあっさり言うから、逆に想像してしまう。
「どうやって」
凛は短く答えた。
「膝」
意味を理解するのに一拍かかった。
「……膝?」
「急所」
静寂。
奏が堪えきれずに吹き出す。
「すごくいい音したよね〜」
「やめなさい!」
凛が睨む。
俺は無意識に股間を守っていた。
怖い。でも、同時に思う。
(この人、ちゃんと自分で守ったんだな)
守られる側じゃない。守る側だ。
「だから、ルール作ったの」
凛がまっすぐ俺を見る。
「恋愛禁止」
その言葉には、怒りというよりも“線引き”の意思があった。
俺は少し考える。
軽く言うべきか、真面目に言うべきか。
結局、正直に口にした。
「でもさ。それって恋愛が悪いんじゃなくて、暴走するやつが悪いだけじゃないか?」
凛の目が細くなる。
否定されると思った。
けれど返ってきたのは、落ち着いた声だった。
「理屈はそう。でも、予防は必要」
そこに感情の揺れはない。
ただ、経験から出た言葉だった。
「まぁ、それは分かる」
俺は肩をすくめる。
「俺は普通に暮らせればいいだけだし」
奏がじっとこちらを観察している。
「ほんとに普通?」
「普通だよ」
「さっきちょっと凛の武勇伝にときめいてなかった?」
「してない!」
凛の視線が鋭くなる。
その瞬間——
ぐぅぅ……。
妙に素直な音が、リビングに響いた。
時間が止まる。
凛の顔が、ゆっくりと赤くなっていく。
さっきまで毅然としていた人が、今は必死に目を逸らしている。
「……違う」
追撃のように、もう一度。
ぐぅうう。
奏がとうとう吹き出した。
俺も堪えきれない。
「あはは……」
「笑うなっ!」
飛んできたクッションを、今度はなんとか避ける。
重かった空気が、嘘みたいにほどけていく。
俺は立ち上がった。
「飯、作ろうか。キッチン借りる」
凛が一瞬だけ驚いた顔をする。
「料理、できるの?」
「まぁ。親あんまり家にいなかったから。わりと自分で作ってた」
言ってから、少しだけ静かになる。
凛の目がわずかに揺れたのを、見逃さなかった。
「……一人で?」
「うん。冷蔵庫と相談しながら」
強がりじゃない。事実だ。
キッチンに立つと、不思議と落ち着いた。
包丁を握る感覚。
玉ねぎを刻む音。
油が弾ける匂い。
さっきまで張り詰めていた空気が、少しずつ溶けていく。
ふと視線を感じて振り向くと、凛がこちらを見ていた。
さっきまでの敵を見る目じゃない。
ただ、静かに様子を見ている。
(恋愛禁止、か)
まだ実感はない。
でも、この空気を壊したくないとは思った。
やがてカレーの匂いが部屋いっぱいに広がった、そのとき。
バンッ!
玄関のドアが乱暴に開く音。
「ただいまーーーっ!!」
家が震えるような声。
続けてドタドタと近づく足音。
凛が小さく息を吐く。
「帰ってきた……」
リビングの扉が勢いよく開いた。
「カレー!!!」
明るい茶髪の少女が、真っ先に鍋へ視線を向ける。
嬉しそうに駆け込んできた。
その後ろから、そっくりな顔の少女がひょこっと顔を出す。
「……新しい人?」
カレーの匂いがまだ部屋に広がっている。
湯気の向こうで、四つの視線が交差した。
凛が静かに言った。
「紹介するわ。双子の葵と紬よ」




