第8話 ビジネスライクな撃退法
「つまり、復縁してほしければ、王位継承権を放棄しろと?」
湯上がりの濡れた髪を拭きながら、ジェラール殿下が呆けた声を出した。
「いいえ、違います。話を聞いていましたか?」
私はテーブルの上に置いた羊皮紙を、コツコツと指で叩いた。
「復縁はお断りです。私が申し上げているのは、貴国が生き残るための『商取引』についてですよ」
場所はリゾートの休憩ラウンジ。
つい先ほどまで、サウナと水風呂の往復で天国を見た騎士たちが、今は骨抜きになってソファに沈んでいる。
殿下も例外ではない。
肌はツヤツヤになり、憑き物が落ちたような顔をしているが、私の提示した条件を聞いて現実に引き戻されたようだ。
「商取引……だと?」
「ええ。王国は今、水不足で壊滅寸前でしょう? 私が管理していた地下水脈システムは、もう使い物になりません」
私は冷えたコーヒー牛乳(一杯、金貨一枚)を殿下の前に置いた。
「ですが、ここ帝国領の火山地帯には、私が掘り当てた豊富な水源があります。これを貴国へ輸出して差し上げようという話です」
「ゆ、輸出だと……? たかが水を?」
「たかが水、されど水です。なければ死にますよ?」
私は契約書を広げた。
帝国の行政書士(実は宰相様)に添削してもらった、完璧な法的文書だ。
『王国はマリエル商会を通じ、帝国から飲料水を輸入する。その際、マリエル商会は仲介手数料として取引額の三割を受け取るものとする』
「なっ……! 三割だと!? 暴利だ!」
殿下が立ち上がろうとして、ふらついた。
長風呂のしすぎだ。
「正当な対価です。私はインフラ整備と輸送魔法を担当するのですから。……嫌なら、このまま干からびた国に帰りますか?」
「くっ……!」
殿下は唇を噛んだ。
プライドが高い彼にとって、かつて捨てた婚約者に頭を下げ、金を払うなど屈辱以外の何物でもないだろう。
「だいたい、お前は王国の貴族だろう! 国のために無償で尽くすのが義務ではないのか!」
まだそんなことを言っているのか。
私はため息をつき、ポチの背中を撫でた。
ポチが「ガウッ(食うか?)」と低く唸る。
「殿下。私はもう帝国に納税している個人事業主です。貴族の義務などという古い鎖で私を縛れると思わないでください」
「貴様……!」
殿下の顔が再び赤く染まる。
サウナの赤みではなく、怒りの赤だ。
腰の剣に手を伸ばしかけた、その時。
「おや。賑やかだな」
凛とした声が、ラウンジの空気を凍りつかせた。
奥のVIPルームから、一人の男が姿を現した。
漆黒の髪に、氷のような青い瞳。
簡素なシャツ姿だが、その全身から溢れ出る覇気は隠しようがない。
「る、ルーカス……皇帝陛下……!?」
殿下の顔色が、一瞬で青ざめた。
隣国の皇帝が、なぜこんな辺境の風呂屋にいるのか。
その事実に脳の処理が追いついていないようだ。
「偶然だな、ジェラール王太子。私も今日は休暇でね」
ルーカス様は私の隣に自然な動作で座り、私の飲みかけのコーヒー牛乳を手に取った。
あ、それ私のですけど。
「マリエル。商談中か?」
「ええ。ですが、なかなかサインをいただけなくて困っています。水はいらないそうです」
「ほう?」
ルーカス様が片眉を上げた。
ただそれだけの動作で、室内の気温が五度は下がった気がする。
「我が帝国の最重要パートナーであるマリエル商会との取引を拒否するとは。……王国は、帝国との国交を断絶したいという意思表示と受け取っていいのかな?」
「なっ、違っ……! そ、そんなつもりは!」
殿下はガタガタと震え出した。
軍事大国である帝国に睨まれれば、弱体化した王国など三日で地図から消える。
それは無能な殿下でも理解できる理屈だ。
「ならばサインしろ。今すぐにだ」
ルーカス様の命令口調。
それは絶対的な「死の宣告」に近かった。
「は、はいぃっ!!」
殿下はひったくるように羽ペンを取り、契約書にサインをした。
その手は無様に震えていた。
「あ、あと未払いの入湯料と水代、それから騎士団全員分の飲食代もお願いしますね」
私は抜け目なく請求書を追加した。
「手持ちがなければ、借用書でも構いませんよ。利子はトイチですが」
「あ、悪魔……!」
殿下は涙目で借用書にもサインした。
これで彼は、国へ帰っても莫大な借金返済に追われることになる。
新しい聖女にドレスを買っている余裕など、金輪際なくなるだろう。
「……用が済んだなら失せろ。私の『癒やし』の時間が削がれる」
ルーカス様が冷たく言い放つと、殿下と騎士たちは脱兎の如く逃げ出した。
鎧を着る時間も惜しかったのか、パンツ一丁にマントだけ羽織って去っていく姿は、滑稽を通り越して哀れですらあった。
「……ふぅ。静かになりましたね」
私は契約書を確認し、大切に金庫へしまった。
これで王国のライフラインは私の掌の上だ。
生かすも殺すも、私の匙加減一つ。
最高の安全保障を手に入れたと言っていい。
「ありがとう、ルーカス様。いいタイミングでした」
「礼には及ばん。……害虫駆除も、常連客の務めだからな」
ルーカス様は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「それに、あんな男に君の貴重な時間を奪われるのが不快だっただけだ」
「ふふ、独占欲が強いですね」
私は冗談めかして笑った。
そして、エプロンのポケットからスタンプカードを取り出した。
「お礼に、今日はスタンプ三つ押しておきますね。あと二回で『無料延長券』がもらえますよ」
「……ああ、楽しみにしている」
ルーカス様は複雑そうな顔でカードを受け取った。
彼が欲しいのは無料券ではなく、もっと別のものなのかもしれない。
最近、少しずつその視線の意味が分かりかけてきた。
けれど、今はまだ気づかないフリをしておこう。
ビジネスパートナーとしての距離感が、今の私には心地よかったから。
「さあ、お口直しに新しいフルーツ牛乳を作りましょうか。今度はイチゴ味です」
「……頂こう」
私たちは再び平和なリゾートの時間へと戻っていった。
遠くで、山を下りていく殿下たちの悲鳴(転んだらしい)が聞こえたが、私は心地よいBGMとして聞き流した。
これで障害は去った。
あとは、この幸せな場所を守り抜くだけ。
そう思っていた私だが、ルーカス様の「独占欲」が、私の予想を遥かに超えて燃え上がりつつあることに、まだ本当の意味では気づいていなかった。




