第3話 空から降ってきた不眠症皇帝
満天の星空を切り裂くように、空間が歪み、一人の男が「湯船」へ落下してきた。
ザパァァァン!!
盛大な水しぶきが上がり、静寂だった露天風呂が波打つ。
岩場の端でくつろいでいたポチ(フェンリル)が、ビクリと巨大な体を震わせた。
私も手に持っていたコーヒー牛乳の瓶を落としそうになる。
「……え?」
何が起きたのか、一瞬理解が追いつかなかった。
空を見上げる。
星々の間に、ガラスが割れたような青白い亀裂が走り、すぐにシュンと閉じて消えた。
空間転移?
それも、かなり乱雑で制御されていない類のものだ。
「ブハッ……!」
湯船の中央から、黒髪の男が顔を出した。
ずぶ濡れの衣服。
呼吸は荒く、肩で息をしている。
「グゥルルルル……」
ポチが喉を鳴らし、即座に戦闘態勢に入った。
金色の瞳が鋭く細められ、牙が剥き出しになる。
主人のテリトリーに侵入した不届き者を排除する気だ。
「待って、ポチ!」
私は咄嗟にポチの首元(モフモフの毛)を掴んで制止した。
「様子がおかしいわ。あの人、攻撃する気がないみたい」
男は岩場にしがみつき、虚ろな目でこちらを見ていた。
殺気がない。
というより、生気がない。
月明かりに照らされたその顔を見て、私は息を呑んだ。
整った顔立ちだ。
切れ長の目に、通った鼻筋。冷ややかな美貌を持つ青年。
けれど、その美しさを台無しにするほど、顔色が土気色だった。
目の下には濃いクマが刻まれ、頬はこけ、目は血走っている。
まるで、三日三晩徹夜した後のデスマーチ中のプログラマーのような顔だ。
「……ここは、地獄か……?」
男が掠れた声で呟いた。
その視線が、私の隣で唸る巨大な狼に向けられる。
「フェンリル……。そうか、私の墓場には相応しい……」
彼は自嘲気味に笑うと、ゆらりと右手を上げた。
指先に青白い光が集まる。
攻撃魔法だ。
「グルッ!」
ポチが飛びかかろうとする。
でも、私は見た。
男の指先の光が、蛍の光のように弱々しく明滅し、フッと消えてしまったのを。
魔力枯渇(ガス欠)。
魔法使いにとって、それは極度の脱力と頭痛を伴う最悪の状態だ。
男はそのまま白目を剥き、糸が切れたように湯船へ沈んでいった。
「危ない!」
私は考えるより先に飛び込んでいた。
腰までの深さがあるお湯の中をかき分け、沈んでいく男の襟首を掴む。
重い。
けれど、今の私は土木工事で鍛えた基礎体力がある。
「よいっ、しょぉぉぉ!」
なんとか男を岩場の浅瀬に引きずり上げた。
男はぐったりとして動かない。
死んで……いない。微かに呼吸がある。
「ポチ、手伝って。この人を平らな場所に」
ポチは不満げに鼻を鳴らしたが、私の指示には逆らわなかった。
器用に鼻先を使って男の体を転がし、湯船の縁にある休憩用のウッドデッキ(自作)へ押し上げてくれた。
私は男の顔を覗き込んだ。
近くで見ると、その過労具合は一層深刻だった。
肌はカサカサで、唇も荒れている。
典型的な「働きすぎ」の症状だ。
前世の記憶が疼く。
深夜のオフィスで倒れた同僚や、過労死ラインを超えて働いていた自分自身を思い出す。
(この人、きっとブラックな環境から逃げてきたのね……)
王宮の魔導師か、どこかの組織の酷使された下っ端だろうか。
空間転移の暴走も、疲労による制御ミスに違いない。
「……かわいそうに」
敵意は霧散した。
代わりに湧いてきたのは、同じ社畜経験者としての深い同情と、リゾートオーナーとしての使命感だ。
「お客様、だいぶお疲れのようですね」
私は手早く動いた。
まず、濡れた服を緩めて呼吸を確保する。
そして、彼の手足を温かいお湯に浸したタオルで拭き、血行を促進させる。
男がうめき声を上げた。
「……う、あ……頭が、割れる……」
「魔力欠乏による頭痛ですね。わかります、私もよくやりました」
私は男の頭側に回り込み、そのこめかみに指を当てた。
冷たい。
血が巡っていない証拠だ。
「じっとしていてくださいね。少し楽になりますから」
私は指先に微量な魔力を込め、【整地】の魔法を応用したマッサージを開始した。
本来はデコボコの地面を平らにするための魔法だが、これを極小出力で筋肉のコリに応用すると、指圧の効果を十倍に高められる。
「ん……っ!?」
男の体がビクリと跳ねた。
「力、抜いてくださいー。はい、ここ凝ってますねー」
親指でこめかみのツボを捉え、ゆっくりと円を描くように押す。
凝り固まった筋肉が、魔法の波動でほぐれていく。
さらに、首筋のリンパに沿って指を滑らせ、滞った老廃物を流すイメージでさする。
「あ……、あぁ……」
男の苦悶の表情が、次第に緩んでいく。
眉間の皺が消え、荒かった呼吸が深くなっていく。
張り詰めていた神経が、強制的にリラックスモードへ切り替わっていくのがわかった。
「……温かい……」
「ええ、ここは最高のリゾートですから。仕事のことは忘れて、今は寝てください」
私は耳元で優しく囁いた。
それは魔法による暗示に近い。
男の抵抗が止んだ。
瞼が重力に負けたように閉じられる。
そして数秒後。
「スー……、スー……」
安らかな寝息が聞こえてきた。
泥のように深い、完全な熟睡だ。
「ふぅ。一丁上がり」
私は額の汗を拭った。
ポチが近づいてきて、寝ている男の匂いをクンクンと嗅いでいる。
「食べちゃダメよ、ポチ。この人は今夜のお客様なんだから」
ポチは「こんな貧相な肉、食うか」とでも言うようにフンと鼻を鳴らし、私の足元に丸まった。
私はデッキチェアに毛布を持ってきて、男にかけてやった。
火山の地熱があるとはいえ、湯冷めは大敵だ。
星空の下、見知らぬ男と巨大な狼と私。
奇妙な夜が更けていく。
*
翌朝。
鳥のさえずり……ではなく、遠くの噴火音で目が覚めた。
「……はッ!」
隣のデッキチェアで寝ていた男が、弾かれたように起き上がった。
彼は自分の手を見つめ、次いで周囲を見回し、最後に私を見て固まった。
「……頭が、痛くない」
男は信じられないものを見るような顔で、自分の頭に触れた。
「三年間、一日たりとも止まなかった頭痛が……消えている? 魔力も、回復している?」
彼は立ち上がり、深い深呼吸をした。
その顔色は、昨夜とは別人のように良くなっていた。
クマは薄くなり、瞳には理知的な光が戻っている。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
私は朝のコーヒー牛乳(ポチの分と二本)を持って声をかけた。
男は私を凝視した。
まるで、未知の神獣でも見るような目で。
「貴様……いや、貴女は何者だ?」
「ただの通りすがりのリゾート経営者です」
「リゾート……?」
男は周囲を見渡した。
湯気を上げる露天風呂。整然と積まれた石壁。そして、足元で腹を出して寝ている伝説の魔獣フェンリル。
彼の常識が崩壊する音が聞こえるようだった。
やがて、彼は何か納得したように一つ頷いた。
「そうか。ここは『狭間の聖域』か何かで、貴女はこの地を統べる魔女なのだな」
「いえ、元公爵令嬢のマリエルですけど」
「……マリエル殿、か」
彼は私の訂正を聞いていなかった。
そして、懐から何かを取り出した。
虹色に輝く、見たこともないほど巨大な魔石だ。
王家の宝物庫にすら、こんな代物はなかったはずだ。
「助けてもらった礼だ。私の名はルーカス。……また来る」
彼はそれだけ言うと、魔石を私の手の中に押し付けた。
そして昨夜とは比べ物にならないほど洗練された動作で指を鳴らす。
ヒュン。
空間が綺麗に切り取られ、彼の姿は瞬きする間に消え失せた。
完璧な転移魔法だ。
「……なんなの、あの人」
手元に残された魔石はずっしりと重い。
これを売れば、お城が一つ建つくらいの価値がありそうだ。
「ま、いいか。お代はちゃんと頂いたし」
私は魔石をポケットにしまい、伸びをした。
また変な客が来るかもしれないけれど、ポチもいるし、なんとかなるだろう。
けれど私は気づいていなかった。
彼が置いていったのが、単なるお礼ではなく、帝国皇帝としての「最優先保護対象」を示すマーキング代わりの国宝だったことに。
そして彼が「また来る」と言った言葉が、社交辞令ではなく、週末ごとの「通い妻」ならぬ「通い皇帝」宣言だったことに。




