丹羽長秀
「――長秀、残れ」
呼ばれた長秀は膝をつき、信長の前に進み出る。
信長は扇を膝に置き、鋭い眼差しで長秀を見据えた。
「……桃慧のこと、余はあれを大いに気に入っておる。
だが同時に、あれは織田の宝だ。軽々しく外へ晒すわけにはいかぬ」
長秀は深く頭を垂れた。
「御意。あの医の才が他国に渡れば、敵は必ず狙いましょう。
その身、その技を守ること、この丹羽長秀、身命に代えてもお引き受けいたします」
信長は小さく頷き、声を低めた。
「よい。其方には、桃慧を育て、庇護し、織田の力とする役目を一任する」
長秀の顔に緊張が走る。
さらに信長は続けた。
「それとこれは他には許さぬ権だ。織田家お抱えの医務衆の中より、其方の裁量で何人かを引き抜き、桃慧の下につけてよい。桃慧一人に任せては潰れる。あの技を広めるには、選り抜きの者を集めねばならぬ」
長秀の目がわずかに見開かれた。
「……医務衆から、直接引き抜きを許されるとは……」
信長はにやりと笑い、扇を軽く打った。
「其方にしか任せぬ。桃慧の周りに“医の衆”を育てよ。
ただし、無能な者、口の軽き者は斬れ。余の宝を穢すこと、許さん」
長秀は深く頭を垂れ、きっぱりと答える。
「御意。厳選し、必ずや一群の精鋭を桃慧殿の下に置き、織田の力といたします」
信長は満足げに立ち上がり、広間の奥へ歩きながら言い放った。
「よいか、長秀。桃慧を活かすも殺すも、其方次第よ」
「ははっ」
小間を辞した丹羽長秀は、信長からの言葉の余韻を胸に、静かな廊下へ出た。
梅雨の夜風が、敗戦の気分を一層重くさせている。
ちょうどその時、柴田勝家が大股で廊下を歩いてきた。
豪放な面持ちとは裏腹に、どこか晴れやかな表情をしている。
「おお、長秀。」
「柴田殿。」
並んで歩き出す二人。勝家は腕を組み、いつものように大きく息を吐いた。
「……いやはや、殿のあの娘への入れ込みようは尋常ではなかったな。まるで新しき秘宝でも手に入れたかのようだったわ。」
長秀は微笑を漏らしつつ、真剣な声で応じた。
「それだけの価値があると殿は見抜いておられる。……実は先ほど、殿より桃慧殿に関わる特別の任を仰せつかったのです」
勝家は興味深そうに眉を上げた。
「ほう?どのような任か」
長秀は声を潜めた。
「織田家お抱えの医務衆の中より、私の裁量で何人かを選び、桃慧殿のもとへ付けることが許されました。あの技を広げるための“医の衆”を整えよ、とのお達しです」
勝家は目を見開き、大きく頷いた。
「なるほど……あの娘一人に任せきりでは潰れる。ならば周囲を固めるは当然の策よ。殿も先を見ておられるな」
長秀は静かに頷き、目を細めた。
「ええ。選び抜いた者を付ければ、いずれ桃慧殿の技は織田の中で大きな力になるでしょう。……ただし、口の軽い者や技を軽んじる者は、容赦なく切り捨てるようにとの厳命です」
勝家は豪快に笑い、拳を叩きつけた。
「はははっ、いいではないか! まるで戦場の鉄砲隊を組むようなものよ。ならば我らが守るべきはその“旗頭”桃慧というわけだな。」
勝家は少し目を細め、遠くを見つめるように続けた。
「……某の命を繋いだ娘だ。守るも、育てるも、惜しむ気はないぞ。某にはおらぬが孫娘を養う気分じゃ」
長秀はそんな勝家の言葉に小さく笑い、真剣な声で締めた。
「えぇ、彼女は、織田の戦を変えるかもしれぬ人材です。我らが軽んずるわけにはいきません。」
「おぉ、その通り実に良い娘じゃ、しかし武は無い娘が戦場へ連れるのだ、某らが守ってやらねばな」
勝家は手を振りつつその場を後にした。
長秀は廊下を進み金鶏の間にて待つ桃慧の元へ急いだ。
蛙が鳴き、静かに月が上りながら廊下の先を明るく照らす。
金鶏の間へ着くと膝をつき声をかける。
「丹羽長秀と申す、桃慧殿はおられるか」
「はい、丹羽様、中におりまする」
落ち着いた声の桃慧に安心し「失礼する」
桃慧は正座して待ち、襖が静かに開くと、丹羽長秀が姿を現した。
「……桃慧殿」
「丹羽様」
桃慧はすぐに膝を進め、深く頭を下げる。
長秀は手で制し、対面に座って穏やかに微笑んだ。
「かしこまることはない。今日から貴殿は織田の直臣。私は貴殿と共に織田家を支える役目を負う身だ」
桃慧は少し驚いたように目を瞬かせ、静かに頷いた。
「改めてご挨拶申す。某は織田家家老、丹羽五郎左衛門長秀、今は織田家織田領の内政や兵站、それに南方の長曾我部家へ睨みを効かす立場をになっておる。これからよろしくお願い申す」
齢15の小娘に対し長秀は敬意をもって礼を尽くした。
そんな姿に桃慧も凛とした姿勢を取り
「改めまして奥州の劉澤寺という寺で医僧としておりました。桃慧、俗名はお琳と申します」
「どちらも良い名であるな。これから織田家のため、殿の為に力を貸してほしい」
長秀は扇を膝に置き、真剣な声で告げた。
「殿から仰せがあった。貴殿には戦場の治療のみならず、医の技を織田の軍に根付かせる役を担ってもらう。」
桃慧はその重さを悟るように背筋を伸ばした。
「織田家の医務衆の中から、私の裁量で人を選び、貴殿のもとへ付けることが許された。その者たちに貴殿の技を伝え、組織として兵を救う力を築け、との殿の御意である。しばらくは某に困ったことがあれば頼ってほしい」
桃慧は一瞬驚きに息を呑んだが、すぐに真剣な眼差しを向けた。
すると長秀は、扇を置き、柔らかい声で問いかける。
「……そこで一つ、貴殿に問いたい。この役目を果たすにあたり、何が必要か。人でも、物でも、仕組みでもよい。遠慮なく申すがよい。」
桃慧は少し俯き、考え込んだ。
やがて指先を膝に添え、静かに口を開いた。
「……まずは薬草を確保できる畑や場所が必要です。野山で採るだけでは数が足りず、戦ごとに薬が尽きてしまいます。栽培できる土地があれば……」
長秀は筆を取り、小札に書き留める。
「それから、清潔な水、火、手を洗う桶や布……治療する場をきちんと整えたいのです。
泥と血にまみれたままでは、救える命も限られてしまいます。」
さらに桃慧は、少し熱を帯びた声で続けた。
「そして、人です。傷の軽い者を診る者、薬を調える者、包帯を巻く者……それぞれの役割を分け、連携できる者たちがいれば、もっと多くの命を救えます。」
長秀はその言葉に感心し、目を細めた。
「なるほど……ただの医ではない。戦の中での“仕組み”を考えているのだな。」
桃慧は静かに頷いた。
長秀は筆を置き、桃慧を真っ直ぐに見つめた。
「よい。薬草の栽培地、治療の場の整備、人員の分担すべて、殿のお墨付きのもとに進められる。私が調整し、手を貸そう。」
桃慧は深く頭を下げた。
「……はい。」
一瞬の静寂が訪れる。
長秀は筆を置き、姿勢を正し桃慧をしっかりとした眼差しで見つめる。
灯明のゆらめきが、静まり返った部屋を金色に染める。
「……桃慧殿。」
呼びかけに、桃慧は姿勢を正す。
長秀はしばし黙し、まるで遠い昔を思い出すように視線を落とした。
「某もな、初陣は十五の時であった。」
桃慧は驚いたように目を丸くする。
長秀は淡く笑みを浮かべ、静かに続けた。
「まだ幼さも抜けぬ頃、血と叫びが渦巻く戦場に立たされた。……あの時の胸の震えは、今も忘れてはおらぬ。」
そして、桃慧の真っ直ぐな瞳を見据えると、その声には柔らかい情が滲んだ。
「だからこそ、こうして若き身で戦ごとに巻き込んでしまっていること、すまぬと思っている。」
桃慧は小さく首を振り、真剣な声で返した。
「……私はこの身、この技で人の命を救いたいと思っております。たとえ戦の只中でも、それが叶うのなら……怖れはありません。」
長秀はその言葉に目を細め、深く頷いた。
「……強い娘だな。まるであの頃の己を見るようだ。」
彼は立ち上がり、襖の前で振り返った。
「だがな、桃慧殿。強さを持つ者こそ、背負いすぎてはならぬ。我らが支える。貴殿は……無理をせず、貴殿にしかできぬことをすればよい。」
長秀の口から出る言葉には上司でもなく、むしろ温かな娘を心配するような父の言葉のような温もりが感じ取れた。
桃慧は深く頭を下げる。
「……はい。」
長秀は満足げに微笑むと、静かに襖を閉じた。
残された桃慧の胸には、言葉にしがたい温もりと覚悟が宿っていた。




