顕如の城
京・大鷹原邸。
診療四日目の朝。
秋の空気は澄んでいるが、屋敷の空気はどこか沈んでいた。
門をくぐると、家司の顔が曇っている。
「これは琳殿、お待ちしておりました」
門兵から使用人に取り次がれ、共に奥へ通されると、畳の間に大鷹原胤貞。
昨日は幾分顔色も良く、軽口まで叩いていた男が、今日は明らかに顔つきが違う。
琳は静かに膝をついた。
「本日はお加減いかがでしょうか?」
胤貞は苦笑する。
「腹の調子は良い。昨日より楽ですな。」
だがその声には力がない。
「では何かありましたか?」
胤貞はは腕を組んだまま、じっと見ている。
そしてゆっくり息を吐いた。
「話を聞いてくれますか?政務が予想以上にたまりにたまっておるのです。見てくだされ、この書状の山」
胤貞は頭を抱えている。
「御所よりの文、越前からの使い、それに甲斐の者まで顔を出すというのです。」
将軍家の調停。
公家はその橋渡しを求められる。
足利義昭 の周辺が、確かに慌ただしくなっている証。
胤貞は顔をしかめる。
「胃より、頭が痛い」
悲痛な悲鳴にも似た震える声で淡々文句をと言う。
琳は撫でめるように手を握り、脈を取り、流れる様に腹部の診察に移り、みぞおち付近を軽く押す。
昨日より炎症は落ち着いていると見え痛みをあまり感じなさそうだ。
だが目のクマが物語る。疲労と緊張が強い。
「本日は薬を増やします」
桃慧は薬籠を開く。
胃を鎮める薬に、安神の薬草とオオバコを煎じたモノを少し加える。
包みを十包。
「次に伺えるのは、十日ほど後になりましょう」
胤貞が顔を上げる。
「十日も?それは困る、今は曲直瀬殿や琳殿が心の支えなんだ、頼む明日も来てくれ」
琳は静かに頷く。
「別の患者がおりまして」
嘘ではない。
だが場所は、京ではない。
「十日分の薬をお持ちいたします。ではまた蜂蜜をお渡ししますので梅などと共にお召し上がりください。」
琳は薬を並べながら続ける。
「薬は飲み過ぎず、朝夕二回に分けて必ず服用を」
そして、控えていた従者を見た。
声がわずかに厳しくなる。
「食事は粥を中心に。徐々に米の粒を戻していきましょう。油と酒は控えてください」
従者が慌てて頭を下げる。
「酒は特に禁物ですからね。どうしても飲みたくなった場合はこれを。」
先ほど渡した蜂蜜と梅をトントンと指先で叩いて見せる。
琳はさらに言う。
「守ってもらえねばまた酒は遠のくと思いください。」
胤貞が苦い顔をする。
「それは拷問だ」
従者が後ろで微笑む。
「十日で胃は健康に戻ります。その際にまたお伺いいたしましょう。良い酒をお持ちします故。」
胤貞は観念したように頷いた。
「わかった」
そして、ふと琳を見て言う。
「そなたがおらぬと、胃がまた荒れそうだ」
琳は静かに礼をする。
「私の代わりに薬が大鷹原様を守ります」
屋敷を出て門を出ると、秋の空は高い。
藤田景盛が周囲を見渡す。
「京の空気、重くなりましたな」
桃慧は小さく頷く。
「将軍家が動き始めております、どうやら朝倉の使者も入っているようです。」
文の往来。
越前。甲斐。
武田信玄 の名が、都に広がっている。
琴が小声で言う。
「次はどちらへ」
桃慧は答える。
「大坂石山本願寺へ」
一瞬の沈黙。
顕如の本拠。
藤田景盛が目を細める。
「危うい場所です」
桃慧は静かに言う。
「わたくしは一向宗の医僧、なんてことはございません。」
その立場は、ここで活きる。
「藤田様も寺へ入られますよね?」
「いや、私は...」
「延暦寺の麓でお過ごしになられて居たら門徒と言っても差し支えございません。」
「いや、しかし」
「少なくとも私よりは一向の教えに素直だと思いますよ。私は延暦寺が焼け落ちて清々してますから」
「それはしかし....まぁ色々あるのでしょうなぁ」
琴は先ほどから笑いを堪えて噴き出しそうである。
そして三人は息を整える。
京の空気は重い。
だが、そのさらに南、石山にはもう一つの火種がある。
三人は静かに歩き出す。
京を背に。
そして京を発って二日目。
秋の朝霧が低く流れる頃、桃慧たちは大坂の町外れに辿り着いていた。
遠くに見えるのは巨大な伽藍。
濠に囲まれ、城のように聳える寺。
石山本願寺。
織田と対峙する巨大な宗教勢力の中心。
街道の往来には門徒の姿が多く、念仏の声が風に乗って聞こえる。
桃慧は歩みを止めた。
「赴く前に一休みしましょう。」
琴と藤田景盛も足を止める。
寺の城郭のような姿を見上げながら、景盛が低く言う。
「……まるで城ですな」
桃慧は静かに頷く。
「城ですね、なんとも無残な寺の姿です。」
宗教の城。
そして戦の城。
しばし沈黙が流れる。
その後、桃慧は琴を振り返った。
「琴」
声は穏やかだ。
「お願いがあります」
琴は首を傾げる。
「なんでしょう」
桃慧は一瞬だけ、自分の髪に触れた。
肩を越えて背に落ちる、長い黒髪。
京でも、公家の屋敷でも、人の目を引くほどの美しい髪。
そして言う。
「剃ってください」
琴の目が見開かれる。
「……え」
「ここから先は、本願寺です」
桃慧の声は静か。
「髪を残した僧は目立ちます」
琴は言葉を失う。
かつて桃慧より聞いた話を思い出す。
―――戦場ではこの髪も縫合に使う医具となります。
―――私が仏に背き救われるの命があるのであれば、私は仏に背く僧なのです。
そう語った髪。
それを。
「今……ですか」
桃慧は頷いた。
「今です」
風が吹く。
髪が静かに揺れ、桃慧は続ける。
「この髪は、私が医師としての覚悟の証ですが」
琴の声が震える。
桃慧は微笑む。
「守るべき者、理に従うべき相手の為ならば医師の覚悟を折ってでも見るべき場所です。」
そして膝をつく。
「ここで我が主の為にこの髪を献じます」
琴の喉が詰まる。
藤田景盛は黙って少し離れた場所へ歩く。
視線を外す。
武士として、この場に口は出さない。
琴はゆっくりと小刀を取り出した。
手が震えている。
「……よろしいのですか」
桃慧は前を向いたまま言う。
「はい、遠慮も慈悲もいりませんよ、私がそう願ったのですから。」
「でも....」
琴の言葉は途中で消える。
桃慧は静かに笑う。
「髪は飾りです」
そして続ける。
「また伸ばせるものですから。医師から僧に戻るだけです。」
琴は胸を軽く叩く、そして深く息を吸う。
そして髪を束ねる。
刃が入る。
静かな音。
長い黒髪がはらりと落ちた。
地面に広がる。
琴の目に涙が浮かぶ。
だが桃慧は動かない。
次に剃刀が走る。
僧の剃髪。
やがて頭が整えられる。
他の僧と同じ姿。
琴は手を止めた。
桃慧は立ち上がる。
頭は軽い。
風が直接触れる。
「さすが琴ですね、素晴らしい腕前です。久しぶりに剃髪しましたが頭が軽くていいですね。」
石山本願寺を見上げる。
その巨大な門の向こうに、
かつて自分がいた宗門の世界がある。
そして今は、織田信長 の直臣として、
そこへ入る。
桃慧は静かに言う。
「参りましょう」
琴は頷く。落ちた長い髪をこっそりと自身の薬指に縛る。桃慧にバレぬように。
藤田景盛も歩み寄る。
三人は再び歩き出す。
門前には人が溢れている。
門徒、商人、負傷した兵、武装した僧兵、さらには三河や伊勢長島から流れてきた避難民。
戦と信仰が混ざり合った町の様な境内であった。
桃慧は足を止めた。
錫杖をつきながら粛々と歩く。
その横に琴が従者として付き従う。
かつて公家を診た麗しい医僧の姿はもうない。
ただの修行僧である。
門前の僧が二人を見た。
「何者だ。」
桃慧は静かに合掌する。
「奥州にて医の修行をしておりました。更なる修行のため石山へ参りました」
僧は一瞬だけ桃慧の顔を見つめた。
若い。
だが剃髪も整っており、
法衣も不自然ではない。
しかし背中に背負う木箱より香る薬の匂いが身分を明かす。
「医僧か」
「はい」
僧は肩をすくめる。
「良いところに来た。中で役に立つ、来い」
門を指した。
「あそこだ、怪我人で溢れておる」
桃慧は静かに礼をした。
門をくぐる。
その瞬間、空気が変わる。
寺の中とは思えない。
広場には負傷者が横たわり、包帯は血で濡れ、呻き声があちこちから聞こえる。
戦乱の影。
織田との戦が続くこの寺は、
すでに戦場の後方基地のようになっていた。
門徒の若者が腕を押さえている。
僧兵が肩に矢傷を負っている。
まだ幼い修行僧が熱にうなされている。
治療は行われているが粗い。
焼いた刀で傷を塞ぐ。
民間療法も盛んなようで出鱈目な治療が目につく。
そして膿の匂いが漂っている。
琴が小さく息を呑む。
「……酷い」
桃慧は静かに言う。
「ふだんの私の教えの意味が解りますか?」
「はい、目に見えてわかります。あれでは殺すも同じです。」
そして歩き出す。
柱に寄りかかり何かを怪訝そうな顔で飲んでいる怪我をした僧が居る。
「大丈夫ですか?」
琴が声をかける。
「あぁ、大丈夫だ。馬の糞を溶いて飲めば治ると聞いて、ようやく手に入れたのだ」
琴の顔が引きつる。
僧が一気に飲み切り咽る。
「これで助かった。」
琴は無言でその場を後にする。
さらに広場の隅に数人の僧が集まっている。
負傷者の手当をしていた。
桃慧は近づき、合掌する。
「こんにちは。何かお手伝いを」
僧の一人が振り返る。
「なんじゃ、珍しいな医僧か。」
「はい。奥州から来ました医僧にございます。修行のために名高い本願寺へ立ち寄らせていただいたのですが。」
僧は苦笑する。
「ほう、奥州とは随分と遠くから、誠ご苦労様で。医僧ならば手を貸してほしい。」
周囲を指す。
「毎日これだ」
桃慧は静かに頷く。
「では診させていただいてもよろしいでしょうか」
僧は肩をすくめる。
「頼む、これでも曲直瀬流をかじっているのだが治療法に見当もつかん。」
桃慧は膝をつき、
若い門徒の腕の傷を見る。
矢傷。
すでに腫れている。
桃慧は包帯を外し、傷口を観察する。
僧たちが覗き込む。
「矢は抜いたのだが腫れが引かぬ」
桃慧は静かに言う。
「中に矢じりが残っています、これではいつまでたっても治りませぬ。」
琴が横で木箱を開く。
信長から賜った木瓜紋の入った小刀ではなく、昔から桃慧が使っている小刀を取り出す。
琴も慣れた手つきで医具をそろえ、清潔な布が用意される。
その異様な周囲の僧は興味を持つ。
「奥州は戦が多いのか」
一人の僧が尋ねる。
桃慧は答える。
「戦は近江や畿内程多くはありません。」
僧はうなずく。
「そうなのか」
そして声を潜める。
「しかしここ数年は酷い有様でした。」
「ほう、それはいかに?」
「洪水や冷夏により飢饉が蔓延し、道端に放置された死体から疫病が湧き多くの者が死にました。その為食料を奪い合う村同士の戦もあります。」
その言葉に、周囲の僧が小さく頷く。
「それは生き地獄とも言える。仏を祈り奉るべきだな。」
桃慧は手を止めない。
「仏に祈るもの達も皆死にました。その為私は仏とは如何なるものなのか修行の為全国を行脚していたのです。」
傷を清めながら静かに聞く。
僧は続ける。
「ここもそうだ、仏に仇なす織田が攻めてこのザマだ。しかしその織田を討つべく武田信玄公が旗を掲げたと聞く。そして毛利家もこの地を救うべく手を差し伸べてくださるようだ。」
別の僧が言う。
「毛利、武田、浅井、朝倉、全てが織田に天誅を下す。その時こそ石山が動く」
三人目の僧が低く笑う。
「今も顕如様は様子を見ておられる」
※本願寺顕如は浄土真宗本願寺派第11世宗主。若くして本願寺を継ぎ、石山本願寺を拠点に門徒勢力を統率している。その影響力は大名家以上の力を持つ仏教勢力の頂点とも言える。
桃慧は傷口を開き、竹の水筒から水のようなものを傷口にかけ、素早く白い軟膏を塗る。小刀で傷口を更に切開し矢尻を取り出し清潔な布で傷口を押える。
「それではまだこの寺では戦は続くのですね」
話しながら淡々と処置を続ける
空を見て流れる雲を目で追う。
「続く、だが信長が滅べば世は変わる。そのために顕如様は様々な大名家と共にある。」
桃慧は静かにユキノシタやドクダミ、ヨモギを混ぜた薬を塗り込み、縫合し、包帯を巻く。
傷の男が顔を上げる。
「……痛みが引いた」
負傷者たちを僧たち見直すと驚く。
「な、何をした?」
桃慧は立ち上がる。
「処置をしました。」
僧たちは感心したように頷く。
「医僧殿」
一人の僧が言う。
「石山で修行するなら、退屈はせぬぞ。仏の道も医の道も。」
桃慧は合掌する。
「見極めてから決めましょう。」
だがその目は、
治療場の奥、本堂の方を見ていた。
この寺の中心に今、戦のもう一つの火種がある。
桃慧は静かに息を吸う。
石山本願寺。
信長が数年かけて戦う敵地に桃慧達は今、足を踏み入れていた。




