包囲網
―― 京・初冬 三日目の往診 ――
夜半の冷えがまだ残る朝であった。
洛中の屋根に霜が淡く光り、空は薄青い。
三日、食を慎み、酒を絶ち、灯を早く落とすよう申し渡してからの朝。
桃慧は静かに大鷹原邸の門をくぐった。
今日は、曲直瀬道三は伴わない。
弟子という体の桃慧、"琳"が経過を診る。
それでよい、と言われている。
書院へ通されると、胤貞は既に座していた。
初日に比べ、背筋が伸びている。
「これはこれは、昨日は曲直瀬様だけであったが今日は琳だけなのですな」
声が少し軽い。
「はい、昨日の体調は師、道三よりお聞きしました。」
琳は前に進み、脈を取る。
脈はやや落ち着き、荒れが減っている。
「夜はいかがでしたか?」
「久々に目を覚まさなかった。そなたが申した通り3日で灼ける様な痛みは消えた。」
胤貞は自ら続ける。
「重みは残るが、血も吐かず穢れは消えた、そろそろ飯を食いたくてな」
琳は小さくうなずいた。
「胃の火は鎮まりつつございます、ですが急な食事は胃を驚かせますので徐々に進みましょう。」
胤貞はほっと息を吐く。
「そうか?黒い便も出なくなりこの2ヶ月悩まされた腹の蠢きも無くなったのにか?」
その言葉に、琳は視線を上げる。
「大鷹原様の胃は器が繋ぎ合わされたばかりでございます。急に飯を入れると繋ぎが破れまた血が溢れますよ」
静かな間。
火鉢が小さく鳴る。
琳は腹部を軽く按じる。
みぞおちに触れると、胤貞はわずかに身を引いたが、強い痛みはない。
「ここを押されて痛みますか」
「いや、耐えられる」
「良い兆しにございます」
胤貞は微かに笑った。
「三日で変わる、誠のことだったな」
「大鷹原様が言いつけを守り、ご自愛くださいました事の賜物にございます。」
「そうか?そちも上手いのう。若い女医とは思えぬ腕前よ。流石、曲直瀬道三様の弟子。その辺の医者共とは位が違う。あやつらは祈祷し金だけとって痛みを取ってはくれなかった。」
「師、道三には敵いませぬ」
素っ気ない応えに、胤貞は静かに笑う。
しばし沈黙。
庭の楓がひとひら落ちる。
「……三日、政務も思案も控えた。そろそろ手をつけて良いか?」
胤貞がぽつりと言う。
「政務はお待ちになられないのですね、それほどお忙しいのですか?」
琳は穏やかに応える。動揺は無い。落ち着きながら薬を準備する。
「我が胃のように休む事をしてくれないのでな。」
初日に見た書類の山かふたつに増えている。重厚な桐の箱や漆塗りの櫃が並ぶ。
他に担い手が居ないのだろうか?
「胃が2つあればすぐに御政務にお戻りになられて良かったのですがね」
「確かにな」
胤貞は視線を落とす。そして続けて話す。
「しかし、しっかりと夜寝て過ごしたので活力が体をみなぎっておる。」
琳は薬包を差し出す。
「それは何よりです。しかし無理は禁物。本日より量を減らしますが1食でも抜かれますとこの3日が水泡に帰すと思ってくださいませ。」
「薬を減らすのか……それに何やら恐ろしいことを言う。」
「今必死に胃が治るために建材を必要としているのです。この薬は胃を作るための柱になる薬にございます。柱無しの建物はすぐに崩れます。故にきついようですが言いつけはお守りくださいませ。」
胤貞は頷く。
「厳しいことを言う。医者に優しき者はおらぬのか。」
「甘やかせて治れば苦労致しません、体は資本。ご自愛してくださいます他、治しようがございませんからね。胃は特に気ままですので。」
その言葉に誇張はない。
ただ事実。
胤貞はしばし琳を見つめた。
神への祈祷もなく経を読み清める僧ではない。
力ずくの武家でもない。
ただの老医に仕える医の弟子。
2ヶ月も苦しみ、床に伏せる程の病を三日で胃を鎮めた。
曲直瀬道を頼り、その弟子がこれ程の医を持って応えてくれた。
「明日も参るか」
問いは自然であった。
「はい」
「わかった、言うことを聞く。なので明日も診にきてくれ」
その一言には、命よりも安心が混じる。
琳は深く礼をする。
「ありがとうございます。」
胤貞は小さく笑った。
「感謝するのはこちらだ。」
胤貞の表情にも、久しく見えなかった穏やかさが戻りつつあった。
琳は静かに立ち、退出する。
庭に転がる栗のイガを踏まぬように、わずかに歩幅を変えた。
門番が礼をし、それに応え返礼し一言「明日もこの時間に参ります」と声をかけて門を出た。
医の道を進むものとしては当然の流れ。患者を憂いその周りの者にも気を遣う。
しかし今は違う、医の道を進む医者だけでは居られない。
「はぁ、こんな役やるのではなかった。」
桃慧は長い髪を束ね直し小走りで今日の街を進む。
京の道はまだ静かだが、市へ向かう人の足は増え始めている。
琳は振り返らず、歩みを緩めない。
床の間の積み重なる書の中に、雅な桐の箱が混ざっていたのを見逃さなかった。なにより装飾に入っていた家紋"武田菱"まさに武田信玄の家紋である。間違いなく将軍家、朝廷と武田は繋がっている。
菱形に四割、甲斐武田の紋。
文面を覗く必要はなかった。
将軍家への取次役の机に、武田の密書箱が据えられている。
それだけで十分である。
しかも一通ではない。
それに予想外だったのは漆塗りの櫃に一文字に三ツ星、毛利家からの書状も混ざっていたことである。
箱の重みは、往来の多さを物語っていた。
桃慧は歩きながら、頭の中で整理する。
将軍家と武田家、密に文の往来あり。
しかも頻繁、証は焼印。
それで足りる。
市に入ると、声が一斉に立つ。
野菜を売る声。
干魚を炙る匂い。
カンカンと石を削る音、道沿いの寺からは朝の経を読み上げる美しい音が響く。
そして少し歩くと薬草の香り。
琳は迷わず薬売りの店へ向かう。
小さな屋台。
籠に薬草が並んでいる。
店主は町人風の男。
腰の脇差は妙に立派である。しかし羽振りの良い薬売りではなくこの男こそが明智家が京に放っている密偵の一人である。
その目は静かで凪ぎのような落ち着きよう、町に溶け込んでいる。
桃慧は自然に腰を下ろす。
「薬を調えたいのですが」
男はうなずく。
「どの草を」
桃慧は袖から小さな包みを出した。
中には乾いた草が二種。
菱の実。
そして黄連。
そして袖より一つ大きく未熟な栗の実を取り出す。
「これと交換してほしいのです。」
男はそれを見た瞬間、ほんのわずかに目を細める。
だが声は変わらない。
「これはずいぶん苦い薬だな。」
「胃の火に効く薬にございます。いかがでしょうか?」
琳は静かに答える。
男は包みを受け取り、籠の奥へ置いた。
それだけで意味は通じている。
菱、武田。
黄連、将軍家。
まだ熟していない栗の実を添える。
三つが並ぶ。
密接な往来。これは薬草をそれぞれの大名家になぞらえた暗号である。
それが混ざり合い薬になっている。
それだけで二つの派閥が癒着していること、一つは別にある事を表す。
一つを除き。
「栗はなんだ?」
「西の山に赴き落ちていた大きなものを拾い上げました。まだ未熟ですが熟すのを待つべきですかね?」
「まだ未熟か、確かに熟すのが気になる季節だな。」
【西】の山の【大きな栗】で意図が伝わったのだろうか薬売りは頷き、腰に巻く【毛】皮を撫でる。
桃慧は微笑み頷く。
男は代わりに籠から二種の草を出す。
白い花の乾いた葉。強いにおい、癖の塊のような葉。
ドクダミ。
もう一つは柔らかな葉。清らかな香り
ヨモギ。
「これを」
桃慧はそれを受け取る。
ドクダミ――石山本願寺。
ヨモギ――三好。
つまり。
これより石山と三好を探れ。そういう命令である。
桃慧は軽く頭を下げた。
「これは良い質のヨモギとドクダミですね。いい薬になりましょう。ありがたく」
男は笑う。
「まことによく効くぞ、明日は雨になる風邪をひくなよ」
それだけ。
桃慧は立ち上がる。
「ご心配ありがとうございます。それではまた。」
「気を付けて、また利用してくれ。」
市の喧騒に紛れて歩き出す。
誰も気づかない。
ただ薬草を買っただけ。
それだけの出来事。
だが今、京で拾われた情報はすでに動き出している。
菱と黄連、そして未熟なおおきな栗。
その意味はやがて近江を越え、美濃へ届く。
桃慧は歩きながら、薬草の香りを確かめる。
ドクダミとヨモギ。
次に診るのは、都の脈ではない。
石山と三好の脈である、石山、一向の聖地ともいわれる寺。
「頭が痛い、風邪をひきそうですね。」
―― 二日後 美濃・岐阜城 ――
雲が低く流れていた。
長良川の水は鈍く光り、岐阜城の石垣に冷たい風が当たる。
城内は静かだが、どこか張り詰めた気配がある。
広間の奥で、織田信長は書状を眺めていた。
徳川への援軍の約束、上杉家への書状、将軍家への仲裁の依頼。
書いても書いても増える仕事に嫌気がさし始めていた。
そこへ一人の使いが通される。
町人風の男。
近江よりの飛脚である。
男は深く頭を下げ、小さな薬包を差し出した。
文ではない、ただの薬。
信長は受け取り、包みを開く。
中にあるのは乾いた草。
菱の実。
黄連。
そして仲間外れのように一つ添えられた未熟なおおきな栗の実
「……これは?」
信長はそれを不思議そうに手に取り眺める。
飛脚のふりをした明智の家臣が答える。
「京より、桃慧殿からにございます」
信長は指先で菱をつまむ。
甲斐の紋。武田の印。
その横にある黄連。
「なるほど将軍家と武田家が混ざり合っておる。そう言う事だな。」
「はい、桃慧様がその目で確認したようです。」
信長は鼻で笑った。
「やはりな」
広間の空気が冷える。
信長は立ち上がり、庭へ歩く。
遠く美濃の山々が見える。
その向こうに近江、そして京。
「義昭め」
低く吐き捨てる、信長は拳を握る。
「武田に名分を与える気か」
明智の家臣は慎重に言う。
「文の往来、かなり密にございます。さらに多くの使者が直接朝廷や帝への面会を願い出ているようです。」
信長は薬包を握りしめた。
「密か」
声は低い。
怒りはある。
だが激情ではない。
思考は既に動き始めている。
「京に軍は」
「動員の動きなし」
信長はうなずく。
「ならばよい」
机に薬草を置く。
「この栗の実はなんだ?」
「どうやら毛利家も将軍家に接近している様子」
「武田は東、北に朝倉と浅井、南に一向一揆と雑賀、西に石山と毛利全くどうしてこうなるのだ。」
信長はため息を一つ吐く。
「まずは三河、遠江。」
そこでは今まさに徳川家康が武田と対している。
信長は静かに言う。
「今、畿内が燃えぬならばそれでよい。しかし浅井朝倉は権六が抑えているのでまだ大丈夫。恐ろしいのは南の伊勢長島一向一揆、雑賀に根来が厄介だ。」
明智家臣の男は続けるように話す。
「桃慧様は石山本願寺へ赴くようです。おそらく本日、今頃には本願寺へ潜入するかと。」
外で庭木が揺れて風が鳴る。
信長は再び菱を手に取る。
「桃慧....よく働く娘だ。」
小さく呟く。
「医者にしてはよく見ておる。いや医者だからこそ見ているのかもしれぬな。」
医として京に入り、
文を盗まず、
書を読まず、
ただ形だけで読み取る。
信長の目が細くなる。
「あの娘がコレにも才があるとは」
そして菱の実を転がし机に手を置いた。
「光秀を呼べ」
「は」
男はそそくさとその場から下がる。
直ぐに明智光秀が広間に入る。
「光秀ここに。」
「畿内はまだ動乱に非ず、桃慧の本願寺の報告次第では其方に兵を挙げてもらうかもしれぬ。」
「承知」
信長は揺れるろうそくの火を眺める。
桃慧達医務衆が初めて御用畑で採れた蜜蝋で作ってくれた蝋燭。
あまくよい香りがする。ろうそくの元で息を吸う。
「武田が来るなら、来させればよい」
武田への怒りは消えていない。
だがそれ以上に、この状況を打破しなければならない焦りばかりが思考を満たす。
「あの娘の報告が待ち遠しい。」
そして低く言う。
「神仏に吉兆を祈るしかないな。」
岐阜城の上を、冷たい風が吹き抜けていった。




