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都の脈とり

秋の光は柔らかいが、都の空気は澄み切らぬ。

武田信玄の遠江三河侵攻、通称"西上作戦"の噂は、水面を渡る風のように静かに広がっていた。

京にも既に武田信玄上洛のうわさが流れ信長の動きに注視するのは信玄や諸大名だけではなく、民衆もその一挙手一投足に集まっていた。


その一歩みが目の前にあるとも知らず。



曲直瀬家の門前で、桃慧は足を止める。


琴は半歩後ろ、藤田景盛(ふじたかげもり)は通りの気配を測っている。

取り次ぎの弟子が現れたとき、桃慧は静かに告げた。

「こんにちは、私は遵慧(じゅんけい)と申します、一向の医僧なのですが、御師匠様はいらっしゃいますでしょうか?」


弟子の表情がわずかに変わる。

「しばしお待ちを」


やがて奥へ消え、ほどなくして弟子が走ってきた。

「……こちらへ」


書院に入る。

曲直瀬道三は、筆を置いた。

「おぉ、まさか京でお会いできるとはこちらへ」


道三は座布団を敷き手招きする。


「申し訳ございません、重い話をしますので。」


弟子と琴、景盛が退いたあと、静寂が満ちる。


目の澄みは、以前の岐阜城で見たそれと同じだった。


「御無沙汰しております」

深く頭を下げる姿に、道三は胸の奥がわずかに軋むのを覚える。


「まさか遵慧の名を使うか。」

怒りはない。

才を持ち、理を恐れず、そして自らの理で道を外れた女。

その娘が、今目の前にいる。


「この名を使えば一言で誰が来たか分かると思いまして。」

桃慧は顔を上げた。


「他にその名を使う者はいないだろうな。全く僧として亡き母の名を騙る等いかがなものか。」


目が似ている。

声でもない。

常識を常識とも思わないようなどこか世の裏側を見る様な“理を疑わぬ目”が、似ている。


道三の胸に、二つの感情が交錯する。

ひとつは遥か遠路に居る孫娘が帰ってきたような、安堵。

以前、岐阜で見たときからこの娘を守らねばならぬと感じた。

医の未来を担う芽。

自らが歩んだ道を、別の角度から進む者。


もうひとつは政敵を見るような、警戒。

彼女は今や織田信長 の直臣。

京の均衡を揺らす男の手中に居る。

そして道三は知っている。

医は政治と無縁ではいられぬ。

将軍家の病を診れば、公家だけでなく諸大名の文も目に入る。

公家の腹の内を診ればうわさが流れる。


「何を求めて来た」


問いは冷静。

だが胸の内は複雑だ。

守りたい。だが利用されてはならぬ。


桃慧は答える。

「都の脈を診に参りました」


脈、その言い方に道三はわずかに息を吐く。医の言葉だ。


「都の脈とはそれは大変だな。それでどうだ?脈は取れたかね?」


「いえ、道三様の元で脈をとりたいと思いまして。」

この娘が、どこまで踏み込むか。


「勘弁してくれ、政治の泥中に足を踏み入れるなど、沈み抜け出せなくなるだけだ。」


足利義昭の動き。

武田信玄の名。

帝の腹の中。

病は見たいと思うが泥の中見たくもない。。


「では道三様の元で数週間修業をつけてはくださいませんか?」

問いは柔らかいが、鋭い。


道三は少し目を伏せる。

「はぁ、私より医の高みに居る人物に何の修業をつければよいのだ。死体でも漁るか?」

頭を抱えながらも様々な感情が渦巻く。

自身では見えなかった医の神髄、医の理、医の在り方、この娘と共に病を診たらどれほど楽しいか。


医の探求者として求めてしまう性。


「御導師様の元で調和の医を学びたいのです。間近で、この目で直接。それに死体は既に漁った後にございます。」


「ならば一層教えることなど無いではないか。」


「私が乞いたいのは心の内を見る医でございます、調和の医、温もりの医を。」

どうやらこの娘も同じ自らの手に無い医のこと思っているようだ。


その秋晴れの青空の様な澄んだ瞳の奥、老いぼれた医者をしっかりと捉えている。


「わかった、だが私は何も言わぬし教えないぞ。その腹の奥の目的が何であってもな。」

道三は紙をとり筆に墨をつけすらすらと文字をかく。


「明日朝日が昇る前に再び訪ねよ」


「お気遣い痛み入ります」

桃慧は平伏する。


「とある公家が居る。そのものは将軍家や諸大名と朝廷の取り次ぎ役を務めるものだが、ここ最近仕事が増え体調を崩していると相談を受けた。ちょうど明日赴く予定だったのだ。」


暗に示している、この公家が武田や諸大名と将軍家の調整役で情報を握っていると。


「それは医としては診ませんと、医とは言えませんね、同行させていただいてよろしいのでしょうか?」

桃慧はすっと道三の顔を見ながら微笑む。


「私は脈をとり気の流れを見るだけだ、医の道を進むのは貴様だ」


「私が診てよろしいのですね。それは試験でしょうか?それとも逃げでしょうか?」


「私にとっての逃げだ、私は知らぬ。すべてお前に託す。明日の診察までに耳が腐り落ちるのを祈ることにする。」


道三はため息交じりだがその眼には探求者として燃える炎が宿り背中には羽が生えて居るかのように足取り軽く部屋を出た。


「目は腐り落ちないようですね」

桃慧はふふふと笑い部屋を出る道三の背中を見守り、姿が見えなくなると道三が記した紙を受け取り部屋を出る。


「取次役 大鷹原(おおたかはら) 胤貞(たねさだ)様、思ったより大物を紹介してくださいますのですね、流石御師匠(どうさん)様」

桃慧は背筋に冷たいものが走るが深呼吸し冷や汗も働きの糧とした。



すべては主の恩に報いるため。



「お待たせしました。琴、景盛様、宿へ行きましょうか」

上機嫌で二人に声をかける桃慧の姿に弟子の一人が見惚れている。


「随分上機嫌ですね。何かありましたか?」


「いえ、久しぶりに御【師匠(ししょう)】様にお会いできて嬉しいだけですよ」



三人は弟子たちの見送りを受け屋敷を後にした。

「明日私はお師匠様と共にとある公家の治療に参ります。二人は町の散策でもお願いします」


散策とは要するに要所に出入る使者の素性を見てほしいという事である。

頻繁に出入りするのはどこの家中の者なのか、急ぎの用があればそれは今一番動きの激しい家のものであろう。

「かしこまりました、琳様」


そして翌日都の朝は薄い霧に沈み朝日がそれを照らす。

白い息が石畳の上に溶ける。


都は静かに見えて、その内では常に人と文と噂が動いている。



「ついたぞ、琳」

美しい木目の太い柱の雅な門、瓦に乗る落ち葉が朝日に照らされ影を伸ばす。


鼠色の小袖に浅葱の上衣、袖は細く、帯は簡素に締められている。

髪は低くまとめ、清く楚々とした娘がいる。


「はい、御師匠様」



門番が深く頭を下げる。


「曲直瀬殿、お待ちしておりました」


道三はうなずき、静かに中へ入る。

琳は一歩後ろを歩いた。


書院は温められている。


火鉢の炭が赤く、パチパチと音を立てる。


床に就くのは、大鷹原胤貞。


正二位権中納言。

諸大名や将軍家と帝の取次役を担う実務の中心にある男である。



顔色は青く、痩せが目立つ。


道三が軽く会釈する。

「この頃、胃の腑が重いとお聞きしました。」

胤貞は苦笑した。


「重いというより、焼ける様に痛む。夜も目が覚めてしまい腹の中で虫が蠢く様だ。」


道三は脈を取り、目を細める。


「ほぉ、脈がやや強いですな」


そして振り返る。

「琳」

若き弟子は静かに前へ進む。


「はい」

声は落ち着いている。

胤貞の視線が、初めて琳をとらえた。

若いが、姿勢はまっすぐ。


「これは愛らしい。お弟子か?」


「はい。琳と申します。」

淡々とした自己紹介であった。

誇りも気負いもない。


「私の自慢の弟子にございます。将来はこの者が京の医の中心とも考えております。」

道三は手招きし、胤貞の枕元へ呼ぶ


胤貞はそのやり取りを微笑ましく感じ、わずかにうなずく。

「ずいぶんと若いな」


琳は静かに座し、問いを始めた。

「16になりまして、少々質問いたしますがよろしいでしょうか?」


「うむ、良い」


「ありがとうございます。では痛みは食後に強くございますか?」


「夕餉の後が特に痛む。最近は白湯が一番良い。粥も薄いものを食むばかりだ」


「痛みはどのような痛みでしょうか?灼けるように?針で刺されるようにでしょうか?」


「うむ、まるで灼ける様な痛みだ。」


「夜半に目を覚まされますか?」


胤貞は一瞬、驚いたように琳を見た。

「……たしかに、ある。今日もまさにそうだ」


「その際水を求められますか」


「確かに乾く、枕元に」

胤貞が視線を向ける先には湯呑に水が注がれていた。


琳は小さくうなずく。

「少々お応えづらい質問ですが重要なことをお聞きします。便の色は?」


胤貞は目を伏せる。

「黄色味がかった便はしばらくしていない、黒いことが大半だ」


室内の空気がわずかに変わる。

琳が頷く。そして真剣に告げる。

「黒い便は血が混じっている証拠にございます。」


琳は落ち着いたまま続ける。

「この頃、御政務はお忙しゅうございますか」


胤貞は苦く笑った。

「忙しくない日はない、このように寝込むまで追い込まれている。」


「それでは夜更けまで灯を付け御政務を?」


「そうだ、書いても書いても終わらぬ、一日休めば二日分溜まる」


琳は静かに言う。

「それでは少々お体を診させてくださいませ。そのまま横になられてください。」

胤貞は仰向けになり天井を眺める。

すると琳は胤貞の上着を捲り腹を見る。


「痛むのはどのあたりでしょうか?」


「このあたりだ」

胤貞が示すのは体の中心線よりやや左側、肋骨の下付近みぞおちの辺り。


「少々失礼いたします」

琳はそのあたりに右耳を寄せ音を聞く。


「なるほど、では舌をお見せください。」

琳は口を覗き込む。

「吐血なさいましたか?」


再び胤貞は驚いた顔をする。

「確かに、なぜわかる?」


「見ればわかります、吐血はいつ頃?」


「昨日の夕餉の後だ」


「病がわかりました。気の張り過ぎによる胃の乱れ、胃という器が壊れておりまする。」

※ストレス性の胃潰瘍


「それは治るのか?」

胤貞は深刻な面持ちで琳を見る。


「このままでは(おこり)となり死につながります。素早い治療が必要です。」

※瘧・・・現代の言葉で癌


「お、瘧....道三殿何とかなりませぬか。」


「落ち着きくださいませ大鷹原様、我が弟子の話をお聞きください」


「胃はしっかりと休みを与えれば自らを癒します。3日程食を慎みくださいませ、酒は厳禁です。」

その言葉に責めはない。


「そして薬をお渡ししますので少々お待ちください。」

琳は道三の後ろに行くと木箱より【黄連・甘草・芍薬】を煎じる


胤貞はしばしその様子を見ながら沈黙し、やがて息を吐いた。


「政務は軽くならぬ、どうすればよいか....」


「しっかりと休めば体は元に戻り政務を果たせるようになります。今はしっかりと体を休めるのが大鷹原様のご政務です」

薬の香りが立つ。

手際は迷いがない。


「そなたの言った三日で変わるか?」


琳は顔を上げぬまま答える。


「間違いなく変わります」

言い切るが、強くはない。

静かな確信。


道三が笑う。

「琳が言う事に間違いはない、私が保証いたします。」


琳はわずかに目を伏せる。

「御師匠様に比べればまだ未熟にございます、そこまで言われると少々心配になります」


胤貞はふと、微笑み柔らいだ。

「曲直瀬殿。良い弟子を持たれたな」


道三は肩をすくめる。

「弟子かどうかは分からぬ。勝手に学び、勝手に治す。ふらりと消えては突然帰ってきて腕を上げておる。困った女よ」


小さな笑いが生まれる。

火鉢の炭が鳴る。


緊張は解け、書院の空気は和らいだ。


琳は薬を差し出す。


「先ほども申しましたが3日は重湯を。そしてこの薬をお飲みください。政務は他に任せまずは安静に。」


「三日か」


「三日で効果が出ます。」


胤貞は薬を受け取る。

その手つきは、先ほどよりも軽い。

「それと重湯にこれを混ぜてお飲みください」

琳が手渡したのは蜂蜜の入った土瓶。


「これは?」

「蜂蜜にございます。」


「おぉ、蜂蜜とは豪華な!感謝する。甘味は好物でな。」


「あまり多く取らず、少量ずつ重湯に混ぜてお飲みください。」



「感謝する。琳と言ったな」


「はい」


「三日後、また参れ」


琳は深く礼をする。

「はい」



京の空は高く、静かである。


この朝、若き医の名は初めて大鷹原家の書院に響いた。

曲直瀬道三の弟子、琳。


その名が、これから静かに、都の内奥へと入り込んでゆくのであった。


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― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます。 本当に展開が面白く、この先が楽しみです。 都で桃慧の名が広まり、それがどの様な話に繋がるのか。 お忙しい中、更新されるのは大変な事と存じます。 寒暖差もあります。くれぐれも…
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