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飴と檻

岐阜城の大広間には、いつもより多くの火が灯されていた。


西の空が赤く染まり、城下を見下ろす窓から差し込む光が、畳の上に長い影を落としている。

重臣たちはすでに列していた。

柴田勝家(しばたかついえ)

佐久間信盛(さくまのぶもり)

村井貞勝(むらいさだかつ)

前田利家(まえだとしいえ)

丹羽長秀(にわながひで)

滝川一益(たきがわかずます)

木下(きのした)藤吉郎(とうきちろう)秀吉(ひでよし)

そして若き将たち。

武具の軋む音が静かに響き、場は張り詰めた空気に包まれていた。

やがて、襖が開く。


御医頭(おいがしら)、桃慧。参上いたしました」

澄んだ声だった。

白い法衣に身を包み、桃慧はゆっくりと歩み入る。

その背後には、供回りとして一綱、治長、宗次、柚、琴、あやめらの姿も見えた。

彼女が進み出て平伏すると、信長は座から静かに見下ろした。

しばし、沈黙。


そして


「面を上げよ」


桃慧が顔を上げた瞬間、信長の眼がわずかに和らいだ。

「……改めて坂本の疱瘡。伊勢長島の戦。医務衆の働き、大義であった。」

場に響く力強い声。


「特に先の坂本での疱瘡の鎮圧、戦に勝つよりも難しいことをおぬしは成した」


場にざわめきが走る。


疱瘡それはこの時代、神仏の祟りと恐れられた病。

それを公の場で「鎮めた」と信長が言い切ったのだ。


「それにこの度の伊勢長島での活躍、そして改めてこの医務衆設立に尽力したことは、もはやただの集団ではない。余の軍の一部を普請(ふしん)し作り替えたに匹敵する、今や医務衆は余の国の重要な柱だ」


桃慧は静かに頭を垂れた。


「恐れ多きお言葉にございます。すべては皆様の支えあってのことです」


その慎ましい答えに、勝家が小さく笑った。

信長はゆっくりと立ち上がる。


そして近侍が一つの箱を差し出した。

中には金子が収められていた。

「まずは褒美だ。医務衆へ、金子(きんす)を与える。これまで働いた者すべてに分け与えよ」


次に、もう一つの巻物が差し出される。

信長がそれを広げた。

「そして桃慧」

声が、わずかに低くなった。


「おぬしに所領は与えぬ」


広間に一瞬、緊張が走る。

だが信長は続けた。


「しかし権利は与える。岐阜城の北の地、稗野に新たな御用畑を作りその管理を桃慧に一任する。これまで育てた御用畑の管理を其方に移す」


ざわざわと重臣たちが息を飲んだ。

織田家直轄地の管理権。

信長が最も信頼する者にしか与えぬ役目だった。


「上様、城下の御用畑は丹羽様の管轄でございます、それはあまりにも」

桃慧は慌てて信長に考えを改める様促すか如く頭を下げる。


しかし信長は

「医は医に任せるだけの事、長秀より奪い取るのではない。」


桃慧が横にいる長秀へ目を向けると、ニコニコと桃慧を見つめ頷く。


「長秀は政を束ねよ。軍需に街道の整備事業、それに水利管理と米管理それに医療農政まで任せていたからな、嫡男が生まれ心配事も多かろう。これで少しは楽になるか?」

信長が目を横に流しながら長秀に語り掛ける。


「はっ、ご配慮感謝いたします。」


「良くぞ桃慧の才を生かしてくれた。新たな理の礎を作ったのは長秀、其方だ。減封でも失脚でもない、安心せよ。」


「恐悦至極に存じます。」

その声に不満はない。

むしろ肩の荷が下りたような安堵が滲む。


他の重臣たちも息を呑む。


「薬草を育て、兵を養い、医の理を育てよ。畑はおぬしの手で広げるがよい。ただし、」

信長の視線が鋭くなる。


「それは私領(しりょう)ではない。織田の民の命を繋ぐ地だ。余の腹の内だ。しかと治めよ」

桃慧の胸が、わずかに震えた。


「……はい。その御志、必ずや形にいたします」


信長はさらに言葉を重ねる。

「医務衆の人数も、三百を越えた。これよりは単なる随伴ではない。余が出陣する戦に、正式な軍勢として同行せよ」


一綱の肩がわずかに震えた。

柚が小さく息を呑む。

宗次は静かに目を伏せた。

信長は最後に言った。


「桃慧。おぬしには戦をさせぬ。だが戦を支えさせる。」


その声には、確信があった。

「我が軍勢には刀傷や矢弾傷から命を守る軍が共に居る事、よって兵は死なず強固な兵となる。」

一瞬、信長の表情が柔らいだ。


「……喜べ。これは褒美であり、新たな役目だ」


桃慧は深く、深く頭を下げた。


「恐悦至極にございます、上様」


その声は震えていたが、決して崩れはしなかった。


広間の空気がゆっくりと緩む。

勝家が大きく頷き、長秀が安堵の息をつく。

秀吉たち他の重臣達も静かに桃慧を見つめていた。


その眼差しは既に只の女子(おなご)を見る目ではない。


――医務衆筆頭。

――織田の御医頭。

――そして、国の医を支える理の担い手。


この場にいる織田家の重臣として対等であると信長が認めた証である。


信長は静かに座へ戻り、最後に低く呟いた。

「……さて。これでようやく、戦が始められるな」


煌々と紅く大地を染める夕日はこれから流れる血を表す様だった。




桃慧への恩賞交付後、襖が静かに閉じられると、広間の騒音は嘘のように消えた。


奥御殿の一室。

灯りは少なく、影が濃い。

信長は上座に腰を下ろし、重臣達が座している。

織田家に仕える重臣たちが一同に口を閉ざし重々しい空気の中向かい合う。

誰も口を開かない。


先ほどの褒美は、あまりに異例だったからだ。

やがて秀吉が口火を切る。

「……上様。お言葉ながら、ひとつお伺いしてもよろしゅうございますか」


信長は片眉を上げた。

「申せ、猿」


秀吉は深く頭を下げた。

「なぜ、あの娘に領地をお与えにならなんだのでしょう。功だけ見れば、一国半郡(いっこくはんぐん)を与えても足りぬ働きにございます。あの娘が居なければ坂本は今頃人が居りませぬぞ」


勝家も腕を組んだまま、低く唸る。

(それがし)も同じことを思った。家臣団の重臣だけでなく町の人々の命も救い、疱瘡をも退ける医師など天下探しても桃慧殿一人でしょう。土地を与えればさらに忠義も深まるというもの。」


長秀は何も言わず、信長の顔を見ていた。


信長はゆっくりと笑った。


「だからだ」


一同が息を呑む。

信長は指先で机を叩いた。

「領地を与えれば、あれは領主になる。領主になれば、家を持ち、家臣を持ち、利を持ち、武を持たねばならぬ」


そして声を落とす。


「……そうなれば、必ず奪われる」


秀吉の目が細くなる。

「奪われる……?」


「朝廷。将軍。諸大名。あの娘の力を目にすれば欲しがらぬ者はおらぬ」


その言葉に、部屋の空気が変わった。


信長は続ける。

「医務衆は、民や兵を病と怪我から救う、戦力を一人でも多く欲しがる戦国の世で失うはずの1人を救い、0を1に戻す桃慧の存在は特別だ。そして疱瘡も退ける医者ぞ。そんな理を他家や朝廷が見逃すと思うか?」


勝家が低く笑った。


「……確かにな。武田や三好あたりが聞きつけりゃ、喉から手が出るわ」


他の家臣たちも続く。

「徳川も欲しがろう。あそこは人が居らん」


「上杉も、将軍家もだ」


「仏や神へ祈らず人を救う存在は朝廷や仏門に関わるもの達にも都合が悪い、神罰、仏罰の名を借り焼かれるのは必然の事」


信長の目は、遠くを見ていた。

「そうだ、ゆえに領地は与えぬ」


秀吉が小さく頷く。

「なるほど……晒さぬため、ですな」


信長はさらに続けた。

「だが、何も与えぬわけにもいかぬ。功ある者を軽んじれば、軍は腐る」


そこで、長秀が静かに口を開いた。

「……粟野の御用畑。あれは直轄地にございます。つまり…。」


信長が笑った。

「そうだ。褒美という名の、檻だ」


一同が目を見開く。

「余の庇護下(ひごか)から出ぬ限り、誰も手出しできぬ」


勝家が膝を打った。

「なるほどな……!あの娘を“守る”ための褒美か」


信長は頷いた。

「畑を任せたのは、理がある。医は土から生まれる。薬も、兵の飯もな。あの娘は医者であり薬草など植物に精通している。そのものが自由にできる御用畑の管理を与えるのは理に適うだろう。それに城の北は治安も良く目ぼしい当家の施設もなく隠すのに最適と考えた。」


秀吉が身を乗り出す。

「つまり……医務衆を“後方の軍”として根を張らせ、それを”隠す”ためのおつもりで?」


「そうだ」

信長の声が鋭くなる。

「のびのびと働かせ後方の軍として育てる、そして朝廷や他の国衆、武家から身を隠させるためだ」


長秀が静かに言った。

「あのもの達の前ではこれまでの常識、習慣など不合理の塊でございます。」


長秀は我が子の出産のおり桃慧が妻お綾の方に行った手法を思い出し、出産後も妻の容態の良さがこれまの出産がいかに不合理で危険なものだったのかと思い知らされたのだ。


「……では上様。あの者を戦場に出すのは、戦のためだけではないと?」


信長は答えた。

「見せるためだ」

「……誰に?」

信長の目が暗く光った。

「織田の兵すべてに。余のもとにいれば、死なぬとな」


その言葉に、誰も声を出せなかった。

やがて信長は立ち上がる。

「覚えておけ」


重臣たちを見渡す。

「今後桃慧を一家臣と思うでないぞ、桃慧が居なければ織田の統治に未来はない。余の分身と思い守れ」


「「ははっ」」


そして最後に低く言った。

「この理は、守らねばならぬ」


部屋に沈黙が落ちた。

勝家はゆっくりと頷き、長秀は深く目を伏せる。

この意味をしっかりと理解しているのはおそらく....。


(さすが殿、政治に医を組むのは常としても、戦にも統治にも使うとは...これは良いことを思いついた。)

秀吉は心の中でにやにやと零れる笑みを押さえきれずにいた。



重臣達の会議ののち、酒席が設けられたのは自然の成り行きであった。

戦で汗を流した者は、酒で胸を鎮めねばならぬ。

だが今宵の席は、いつもと異なる。


刀で得るはずの誉れが、包帯と薬草に分けられた。


それが若い武者たちの胸に、静かな燻りを残していた。


盃が二巡したころ。口を開いたのは、18歳の若武者、佐久間盛政(さくまのぶもり) であった。

「……某は、納得いたしかねます」


座が凍る。


上座に控えるは、織田武闘派の筆頭、柴田勝家 。


盛政は視線を落としたまま続けた。


「首を挙げ、血を流し、兵を率いた者より、傷を治した者が郷を預かるとは」

言葉は慎重だが、芯は固い。

それに呼応したのは、まだ少年の面影を残す


一昨年父の森可成(もりよしなり)を失い、森家当主になったばかりの森長可(もりながよし) であった。

「戦場で受ける傷は名誉にございます」

声は若いが、鋭い。

「怪我は当たり前。それを治したのみで褒美を得るなど戦国の世の恥にございましょう」

若武者たちが息を呑む。

誰もが思っていた。


だが、それを口にする勇気は持たなかった。


柴田勝家は(さかずき)を置いた。


「……終いか」

その一言で、座敷の空気が締まる。


勝家は盛政を見た。

「貴様、兵を何人預かる」


「百余」


「その百が、明日も立てるのは、誰の働きだ」


答えはない。


勝家は森長可に目を移す。


「一昨年、父可成殿を失ったな」


長可の拳が震える。

宇佐山の戦で討たれた森可成の影が、若武者の背に落ちる。


「可成殿は強かった。そしてその命を勇猛果敢に殿への忠義に燃やし果てた。だが生きておれば、なお強かった」


低い声が畳を震わせた。


「死ねば名誉か。名誉は飯を食わせぬ、死ぬが誉の我らじゃが、戦の些細な傷や病で死ぬは不名誉か?違うだろう」


酒の匂いの中に、鉄の匂いが混じる。

「戦は、刀だけでは続かぬ。兵が減れば、いずれ刀も振れぬ。戦場以外で死もあり得るこの実世で医の力が強まるのは我ら武辺者にも利と成すだろ?」

若者たちは黙した。

だが、その胸の火は消えてはいない。


その空気を、破ったのは笑い声であった。


豪放に盃を掲げたのは、前田利家(まえだとしいえ)


「はは。親父殿の言は重いな」


緊張がわずかに解ける。


利家は盛政の盃に酒を注いだ。


「盛政。お前の焦りも分かる。武で立つ身だ。首を挙げねば名は上がらぬ」


森長可にも盃を差し出す。


「長可。傷は誇りだ。俺も若い頃はそう思った」


一瞬の間。


「だがな。傷を誇れるのは、生き残った者だけだ」

言葉は柔らかい。

だが、芯は鋭い。


「俺たちは武で立つ。あの娘は医で立つ。どちらも、上様の駒だ」


盃を掲げる。


「我だが傷つきながらも武功を立て、そしてあの娘に治してもらい再び戦に立つ、そこでまた武功を上げる。我ら武者の支えになってくれるお方だ、敬えとは言わない、ともに織田家の家臣で味方だ、仲間だ。そんなに嚙みつく事無いだろ?な?」


勝家は黙して否定せず。

若武者たちは顔を上げる。

否定されたのではない。

試されているのだ。


利家は最後に低く言った。

「どうしても気に入らぬなら、戦で上回れ。上様は、強い方を選ぶお方だ」


森長可の瞳に、再び火が宿る。

若さの火だ。


だが今宵、その火は少しだけ形を変えた。

武を否定されたのではない。


武だけでは足りぬと示されたのだ。


城下の夜は更ける。


酒席の笑い声の向こうで、新しい力が、静かに織田家中に根を下ろし始めていた。


それは刀ではなく、理。

やがてその理は、若き武者たちの刃と交わる。

その時、誰が折れ、誰が立つか。

戦国の世は明日どうなるか分からない。

そんな明日の命を保証する医の強さを理解するには若武者たちには早いのかもしれぬ。



月が空に昇り始め、松明の光が障子越しに細く差し込んでいた。

差し出された巻紙を、信長は静かに読み進める。


差出人は三河(みかわ)徳川家康(とくがわいえやす)


武田動静、ただならず

軍備増強。

兵糧集積。

鉄砲改め。


そして、盟の強化を求める文。

信長は最後まで読み、巻紙を閉じた。


笑みはない。

だが、怒りもない。

「……急くな、家康」

独り言のように呟く。

この時、甲斐との関係はなお蜜月にあった。

武田の主、武田信玄 (たけだしんげん)

西と東、互いに利を認め合う均衡。

武田は北条を牽制し、織田は浅井朝倉と対峙する。


利害は一致している。

ただでさえ北に浅井朝倉、西に三好、石山本願寺、南に一向一揆衆と敵がいる現状、その均衡を、徳川の焦りで崩すわけにはいかぬ。


信長は側近を呼んだ。

「返書を」

筆が用意される。信長は短く、明快に書かせた。


「武田との盟、未だ堅し。軽挙、時を誤るべからず」

さらに続ける。

「敵を作るは易し。盟を保つは難し」

徳川を諫める文であった。

援軍を約さぬ。動くとも言わぬ。

ただ急ぐな。その一点。


信長は筆を置いた。


「家康は疑い深い」

誰にともなく言う。


「疑いは武家の習いだが、疑いが盟を壊す」

冷ややかな目が庭を見据える。


武田が動く兆しはある。

だが、それはまだ兆しに過ぎぬ。


今、矢を放てば、敵を増やす。

信長は風を見る男であった。


信長は一人、城上から濃尾平野を見下ろす。


武田信玄。

徳川家康。


いずれも才覚ある主、だが焦る者は負ける。

「家康よ、まだその時ではない」


風が吹く、遠く甲斐の山々を思う。

やがて、風向きは変わる。

その時こそ、刃を抜く。

今はまだ、縁で縛る。


岐阜の夜は静かであった。

だが、その静けさの裏で、

三国の思惑が絡み合い始めていた。

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