士気の保ち方
桃慧が信長本陣に入り3日が経った。
桃慧はこの三日間兵たちの治療に明け暮れていたが、医務所にて治療を受ける兵たちの間は傷の痛みに慣れてきたのか陣中に落ち着きを取り戻しつつあった。
一向一揆衆の攻勢を弾き返し睨み合いとなり、信長は敵をどう攻略するか、はたまた撤退するか悩んでいたのだ。
その最中、傷の浅い者は痛みも和らぎ、仲間と焚き火を囲みながら笑い声をあげている。
「もう腕も動くぞ」
「昨日より歩きやすい」
「目の腫れが引いてだいぶ楽になったな」
――そんな言葉があちこちで漏れ、戦場とは思えぬほど穏やかな空気が漂っていた。
兵たちは声を揃えて笑い、傷の痛みも忘れたかのように肩を叩き合った。
桃慧は静かに微笑み、ひとりひとりの包帯を外して傷口の様子を確かめる。
切られた右肩の傷口は赤みが引き、肉が新たに盛り上がっているのを確認すると、ドクダミやユキノシタなど薬草をすり潰した薬液を布に沁み込ませ丁寧に拭い、清潔な麻布で巻き直した。
「よし、順調ですね。この調子なら、元気に動ける日も近いですよ」
「うーん、早く元気になるとまた戦わんといかんからなぁ」
綺麗に巻き直された麻布を眺めながらボヤく兵はゆっくりと立ち上がり「ありがとよ」と軽く手を振り自分の寝床へと鼻歌交じりに機嫌よく戻っていった。
深手の傷を負った者たちも安らかな寝息を立てており、夜通し苦しげに呻いていた姿はどこにもない。
天幕の端では焚き火を囲みながら食事をとるもの達も多い
その中で、ひとりの兵が土器の杯を手に取った。
「やれやれ、三日も酒を口にしておらんと喉が鳴く……少しだけ、な」
杯を傾けようとした瞬間、すっと小さな手が伸びてそれを止めた。
「こら、だめですよ」
桃慧は優しく微笑みながら、杯を受け取る。
「今はまだ酒は体の毒になります。せっかく傷が癒えてきたのに、また痛むようになりますよ」
「……すまん、お嬢」
兵は耳をかきながらうつむく。
その姿に、隣の兵たちが堪えきれず笑った。
「はは、まるで母上に叱られる子供じゃな」
「お嬢は俺たちのかかさまだな、ガハハハッ」
桃慧は少し赤らんで、代わりに水を差し出した。
「はい、お水ならいくらでも飲んでいいです。元気になったら、また皆で酒を飲めばいいではないですか」
水を受け取った兵は、深く頭を下げた。
「ありがとよ……。嬢ちゃんの言葉を聞いてると、不思議と故郷の家族を思い出す」
「そうだなあ」と別の兵もしみじみと頷く。
「まるで家に帰ったみてぇだ」
「帰りてぇな、うちはまだ娘が生まれたばっかりだからよぉ」
「けどな、お嬢が居てくれて良かったよ、手当は痛くないし、こうやって笑って飯も食える」豪快に椀に入った野菜汁を啜り口へかきこむ
「違ぇねぇ!がはははははっ」
「な~、うちのせがれの嫁になってくれよぉ、お嬢」
「ばーか、お前のせがれはまだ3つだろうが!」
「ガハハハハハハハハっ」
笑い声が広がるその輪を抜け、桃慧は一番重い傷を負った若武者のもとへと向かった。
その若武者はまだ床に伏せ、浅い息を繰り返していた。
桃慧が包帯を解く前に、優しく声をかける。
「ご気分はいかがですか?」
佐原秀景という若武者は17から19程の歳であろうか?
少なくとも桃慧よりは年が上だと見えるが顔つきは幼く、その顔にはまだ傷への痛みに耐えるようなひきつった表情が見て取れる。
「………だいぶ良い、はっきりと物も見える、痛みも耐えれる程のものだ。」
「まぁ」桃慧は微笑んで頷き、麻布を剥ぎ、患部を一度煮沸し冷やした水で洗い流し、酒を染み込ませた麻布でふき取り、薬を塗る。
時折秀景は呻き声を上げるが「くぅ~っ」と呻き声を上げるが大人しく治療を受けていた。
ひきつった顔をしつつ「明後日には槍を振るえるな」と冗談を言うと、その言葉に様子を見ていた仲間の兵たちがどっと笑った。
「聞いたか? 槍に刺されたのにまた槍を振るうつもりじゃ」
「槍の心配より結婚したばかりじゃろ、嫁さんの心配をせんか!」
布団の端を直していた老兵や中年程の古参兵も、顔をほころばせて言った。
「そうだ、帰ったらちゃんと嫁さんに説教されるくらい長生きしろよ。『もう無茶はしないで♡』ってな」
秀景は弱々しくも笑みを浮かべ、肩の力を少し抜いた。
「……たしかに、嫁に怒られるのは勘弁だ」
「なんじゃ、もう尻に敷かれとるのか、なんとまぁ…先が思いやられるわなぁ~」
ガハハハと一同が笑い声をあげ医務所はかつて無い笑顔で溢れていた。
桃慧は頷き、患部に清潔な麻布を巻き直しながら「生きたいと思えるのならば大丈夫。秀景様のお身体は自ら治そうとしています。私がその助けをいたしますので」
優しい声で秀景へ声をかけると
「そうか、かたじけない。」すこし恥ずかしそうに秀景は笑う。
「しかし尻に敷かれるのはお助けできません」きゅっと麻布を固定すると桃慧は秀景に冗談交じりに言い放つ。
すると眼を見開いて老兵が大声を上げる
「おい、一大事じゃ、嬢ちゃんが見放したぞ!夫婦関係の治療は出来んのかぁ~某も頼もうと思うたのになぁ」
眠りにつこうとしていたもの達も思わず吹き出し周囲に笑顔がまた生まれた。
宗庵や他の金創医達はその光景を見て、頭をかしげる。
「この戦場で、この医務所が1番生に溢れておる。呻き声もなく泣き言もない……あの娘が彼らの命を繋いでおる」
するとそんな異様な光景を見る医師たちの後ろから、信長が足音を殺して話に割入ってきた。
「ずいぶんと賑やかではないか、ここは」
「と、殿っ」一同が頭を下げる
戦略を練り続け顔に疲労の色が見える信長の目に、珍しくニコニコと安らぎの光が宿る。
「よいよい、この3日間兵たちの治療大儀であった。」
医師たちが頭を再度下げ
「滅相もございませぬ、あの桃慧という娘が居なければいまだにここは死の宴の最中であったでしょう」
信長は頷きつつも桃慧と怪我をした兵士たちの笑い声を聞きながら、「ふむ……あの小娘ひとりで、これほど兵どもが癒やされるか」と信長は低く笑みを漏らす。
「やはり召し抱えたは正解よ。余の目に狂いはなかったわ」
うんうんと頷く信長の隣で黙って見ていた宗庵が、やがて深い吐息を洩らした。
「殿……あの娘、ただの尼……いや医僧ではございませぬ。某の見知った医の理を遥かに超えております。まるで……神がかりの術……いや仏に仕えるのであれば仏がかりの術と言えばよいのか、一体何者なのでしょうか」
信長は目を細め、口角を吊り上げた。
「神か仏かなど、どうでもよい。肝要なのは、余の兵を生かし、心を繋ぐということよ。これほどの宝、他の誰にも渡すものか、しかし一向宗に加わっていたのは見過ごせぬが.......まぁ密偵の類ではないだろう。これほど余の兵たちを救ったのだ、褒美を与えるに値する」
宗庵は信長の横顔を見つめ、口をつぐむ。
だが胸の奥では、医の道を極めてきた自分が、あの少女に追い抜かれてゆくのを感じていた。
「私もまだ医の道を極めたつもりではあったが頂には立てぬか」
頭をかき落胆する宗庵に信長は慰めるように
「落ち込むな宗庵、お前の医術のおかげで余はここに立っておるのだ。これからもそのつもりぞ」
そう言うと信長はゆっくりと天幕を後にした。
宗庵は感激し、涙が頬をつたり、満点の星空を澄んだ気持ちで眺めることが出来た。
天幕を後にした信長は周囲の地形や今の味方の陣形、兵たちの様子、予測される敵方の配置を見渡している。一向宗の布陣は堅く、難儀な地形も相まって敵の抵抗は予想以上に強固だった。兵たちの体力は削られ、士気も物資も減りつつあり戦線は限界に近い。
信長は深く息をつき、蘭丸へ声をかけた。
「お蘭、このまま攻め続けても、多くの兵を無駄死にさせるだけだ。敵は海からも補給を受け体制は盤石で強固だ。余は撤退を決める」
蘭丸は少し驚きつつも、冷静に頷く。
「殿……それが最善の判断かと存じます。兵の体をいたわることも、戦の才の一つでございます」
信長は天幕の方向を見ながらそこには、桃慧が兵たちを見守る姿がある。手当てされた兵たちは笑みを浮かべ、安心しきった様子で休息していた。
「そうだな……あの小娘の存在が、余の決断を後押ししてくれたようだ。それに」
低く呟き、腰に指した刀を握りしめる。
「岩山や西方の動向が気がかりだ素早く退くぞ。」
蘭丸は信長の鋭い眼光に身を引き締め撤退の命を各陣に伝令へと走った。
暗い夜も明けきらぬ明朝、旗を下ろし、静かに撤退の命令が伝えられると、兵たちは安堵の表情を浮かべた。伊勢・長島の攻略は叶わぬが、多くの命は守られた。信長は自ら兵たちの戦列を整えつつ、戦場から撤退を開始した。
桃慧たちや軽い怪我の者たちは動けぬ者たちを介抱し、励まし合い素早く撤退する本隊の後を追った。
殿を務める武者たちが急げと檄を飛ばしつつ医務隊の通過の時間を稼いでくれた。
敵の姿は見えないが時折鉄砲が放たれる轟音が山に反響し聞こえてくる。
「余に今必要なのは情報、そして時間だ、それに生きていれば必ずや目的は叶う、生きていればな」
信長は空を見上げ、欠けた月を見ながら、静かに馬の手網を引き歩みを進めた。
家臣たちも主君の決断を深く理解し軍勢は伊勢・長島を後にしたのであった。




