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信長公の謁見

1572年 三月、京。

二条御所(にじょうごしょ)の奥、将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の前には、近習(きんじゅ)公卿(くぎょう)、そして幕府の重臣たちが集められていた。表向きは政務の評定である。しかし、その空気には、もはや織田信長への「不信」と「警戒」が隠しようもなく漂っていた。


信長は将軍を奉じて上洛(じょうらく)し、天下静謐(てんかせいひつ)を掲げながら、畿内を制圧し、軍政・財政・宗教に至るまで自らの理で再編を進めている。


比叡山焼き討ち、延暦寺勢力の壊滅、坂本の町の再編――いずれも将軍家の名を借りつつ、実態は織田の独断であった。



義昭は静かに言った。

「……このままでは、将軍家は名ばかり。政も軍も、すべて織田の一存で動く世になる」


側近の一人が声を潜める。

「織田は、もはや御旗を(いただ)く家臣ではございませぬ。

将軍家を“利用する主君”にございます」



沈黙が落ちた。



義昭は扇を閉じ、その音を合図のようにして告げる。

「ならば、将軍家としての意向を、天下に示すほかあるまい。さすれば将軍家の権威とその力に織田家に裁きを下さんと、多くの武士が馳せ参じるであろう。」


こうして、御所では密かに文が起草され始めた。

――織田信長の専横(せんおう)を戒め、

――幕府の権威(けんい)回復のため、

――将軍家に与する者は立ち上がるべし。

宛先は、浅井・朝倉、武田、毛利、本願寺、三好残党、そして上杉にまで及ぶ。


義昭は、単に不満を述べたのではない。


「将軍の名による大義」を与えることで、信長に対抗する諸勢力を一つの旗の下に集めようとしたのである。



――すなわち、織田包囲網。



この時、まだ表立っては語られぬものの、京の公家たちの間でも、ひそやかな囁きが広がっていた。


「将軍家が、ついに動いたらしい」

「各地の大名へ御内書が飛んでおるとか」

「武田や毛利も、無関係では済むまい」


そして、さらにもう一つの不安が重なっていた。



坂本で疱瘡が鎮められたという噂。

織田の医務衆なる新たな組織が、病を“祈りではなく理で”抑え込んだという噂話。

武だけでなく、民の生死をも掌に収める力を、信長は持ち始めている――。

それは将軍家にとって、武威以上に厄介な支配の兆しであった。



義昭は静かに言った。



「織田は、国を治めるだけでなく、人の命の在り方まで変えようとしておる……」




この日を境に、将軍家は水面下で諸大名への働きかけを本格化させる。


浅井朝倉、武田信玄、毛利輝元、本願寺顕如、上杉謙信――


それぞれに「将軍家の御意」を伝える使者が走り始めた。


やがて歴史は、この動きをこう呼ぶことになる。


第一次信長包囲網————と。





岐阜城下、早春の朝。

冷たい風がまだ残る中、城下の一角に設けられた医務衆の詰所では、すでに一日が動き始めていた。


外の馬場(ばば)では宗次が救走班の訓練を見ている。


担架の持ち上げ方、狭い路地でのすれ違い、泥に滑らぬ足運び。比叡山と坂本で実地を経験した古参が、新しく加わった者たちに声を張り上げる。

「走るな、急げ。慌てるな、急げ。命を運ぶ足は、速さと静けさの両方が要る。」


診療所では一綱(かずつな)が黙々と患者の足の膿を洗い、清め、患者に声をかけながら治療に勤しむ


(ゆず)がその脇で傷口を素早く縫合し指で確かめては小さく頷く。

「はい、終わりましたよ、痛くないですか?」


膿の腫れに痛んでいた患者は「傷が楽になった、ありがとう」と縫合された足を引きずりながら杖をつき歩いて診療所を出ていく。


(こと)は若い医務兵に脈の取り方を教え、診察の心得を優しく諭し、治長(はるなが)は板机に向かい、患者数・回復日数・薬草消費量、処方した薬の記録を淡々と書き留めている。


そこには戦の準備とは別の、もう一つの軍としての息遣いがあった。



そしてその中心に、桃慧がいた。

法衣の袖をたくし上げ、煮沸し人肌に冷ましたお湯で手を洗いながら、彼女は次々に診療を行っていく。


咳をこじらせた農夫、冬の冷えで関節を痛めた老女、薪割りで手を切った若者。

戦のない日でも、医務所に人は絶えない。


「大丈夫です。深くありません。ただし三日は水仕事を控えてください。…はい縫えましたよ、包帯を巻きます。」


声は静かで柔らかいが、動きは迷いがない。ひとりで2役3役もこなして居るにも関わらず神速とも言える処置に縫われていた若い男もキョトンと痛みも感じずに奇麗に縫われた傷口をまじまじと見つめる。


「感謝いたします、桃慧様!すごいあんなに血が流れていたのに....」


誰もが、坂本で疱瘡を鎮めた少女が、今はこうして日常の傷と向き合っていることに、奇妙な安心と畏れを抱いていた。



その時、医務所に伝令が走る。

「上様より、御医頭(おいがしら)・桃慧様を呼び立てとの(おお)せ」

と告げた。

桃慧は治療の手を一度止め、

「一綱、すみませんが引き継いでくれますか?」

丁寧に症状、現状、そして今後の治療や処方する薬の種類など、流れを細やかにゆっくりと申し付ける。


「お任せ下さい桃慧様」

一綱が頭を下げ患者に笑顔をで言葉をかけ治療を引き継ぐ


「桃慧、ほれ上着を、まだ外は冷えるぞ」

宗庵が桃慧へ法衣に羽織る衣服を渡す。

そして法衣の襟を正し、長く黒々としなやかな髪を束ね治す桃慧に見とれ動きが止まる一綱と伝令の肩を叩き「行ってきます」と声をかけ急ぎ城へと向かった。



岐阜城の奥、静かな一室に香の匂いが淡く漂っていた。

戦の軍議が開かれる広間からは離れ、ここは信長が日々の疲れを癒し、最も信を置く者だけを招き入れる場所である。



部屋に入ると、信長は薄衣のまま数々の書物の前に座していた。

その表情は天下布武を唱える将ではなく、どこか疲れの(にじ)む一人の男のそれであった。

「来たか、桃慧。待っていた。すこし身体を見てくれ」


「はい、上様。」


そう言って脈に触れる小さな手に、信長は一瞬だけ目を細めた。

「相変わらず冷たい指だ。医者というものは皆そうなのか。」


「血の流れを読むには、温度の差があった方が分かりやすいのです。」


淡々と答えながら、桃慧は呼吸、脈、舌の色、肌の張りを一つ一つ確かめていく。


信長はそれをじっと見つめながら、ふっと鼻で笑った。


「この国の行く末を見る余が、小娘に内臓の方を先に見透かされておるな。」


「上様が倒れられれば、国の行く末も同時に揺らぎます。無理はなさらぬよう。」


「ふっ。小言まで医者らしくなってきた。いやじゃ、いやじゃ」


そう言いつつも、その声にはどこか安堵が混じっていた。



一通りの診察が終わると、信長は湯を口に含み、喉を潤した。


「ところで……坂本の件、改めて礼を言わせてくれ。」

桃慧の手が一瞬止まる。


疱瘡(ほうそう)と熱病、いずれも国の一大事、明智(あけち)の早馬が、まるで大勝の戦果のように報せて来た際は心底安堵(あんど)した。」


「多くの方の助力があっての事です。私一人の力ではありません。」


「謙遜はよい。だがな」


信長は桃慧をまっすぐに見据えた。


「疱瘡というものは、へたをすれば国一つ滅ぼす病だ。それを理で抑え、組織で制した。そなたの医務衆は余の軍勢の中でも、既になくてはならぬ存在になりつつある。」


少し間を置いて、何気ない口調で続ける。

「今の練度はどうだ。救走、治療、薬事、記録、いざという時、何人を救える?」


桃慧は一礼し、静かに答えた。

「重傷者を同時に百名単位で受け入れ、軽症者を含めれば三百名規模まで、現体制で対応可能と考えております。ただし補給と規律が保たれる事が前提です。」


「ほう……」


信長は興味深げに頷いた。

「戦だけではない。幕府将軍家が不穏な動きを見せ、諸国が騒がしくなる。大きな戦となるだろう。戦と疫は、常に連れ立って来る。」


そして、声を低くする。


「その時、余の命だけでなく、国の命を繋ぐのは、間違いなくそなたの手だ。」


桃慧は一瞬言葉を失い、やがて深く頭を下げた。


「……御期待に応えられるよう、理と技を尽くします。」


信長は小さく笑った。

「余はな、桃慧。そなたを“使う”のではない。そなたの理が、この国の未来をどう変えるか、それを見届けたいだけだ。」


そして、まるで父が娘の無事を確かめるように、穏やかに言った。

「無理はするな。だが、歩みは止めるな。今の世は、理のある者から狙われる。」


静かな部屋に、外の城下のざわめきがかすかに届く。

嵐の前の、ひとときの静寂。

その中で、織田信長はすでに見据えていた。


――戦だけでなく、

――病と、理と、

――そしてこの少女を巡る争奪の時代を。


診察と報告など諸々が一段落し、信長が肩の力を抜いたように座り直したときだった。


「……ところで、桃慧。」


「はい、上様。」


「そなた、(せがれ)の奇妙丸と同じ十五の歳であったな。」


「はい。」


「医僧とはいえ、年頃の娘だ。……どこぞへ嫁に入るつもりは、ないのか。」



あまりにも唐突な問いに、桃慧は一瞬言葉を失い、ぱちりと瞬きをした。


「……い、いえ……そのようなことは、考えたことも……」


「そうであろうな。」


信長は苦笑に近い笑みを浮かべた。


「そなたは命と向き合うことしか考えておらぬ。刀を取る武将が家の存続を考えるように、医もまた、己の身の行く末を考えねばならぬ。」


少し間を置き、声の調子が柔らぐ。


「余はな、戦で多くの若者を見送ってきた。嫁ぐはずであった娘、家を継ぐはずであった若者……皆、理想も未来も、戦と病に奪われた。故に我が織田家では無闇に民への乱取りや暴行は厳しく戒めている。若者たちを守るためにもな。」


桃慧は黙って聞いている。

「しかしそなたは若く、剣を振るわぬが、戦場よりも過酷な場所に立っておる。」


視線がふっと和らぎ、まるで実の娘を見るような眼差しになる。

「誰かに守られ、誰かに想われる人生を一度も考えぬまま終わるのは、あまりにも惜しい。」


「上様……」


「だが」


信長はすぐに表情を引き締めた。

「今はよい。そなたの役目は、この国にとってあまりに大きい。嫁にやるなど、余が許さぬ。勿論余の後妻にすることもない。よく言われるのだ、あの麗し娘を後妻にする為に引き入れたと」


冗談めかしながらも、その声には本気が混じっている。


「医僧であろうと、娘であろうと、そなたは余の“切り札”だ。そして……」


一瞬、言葉を選ぶように間を置き、


「余にとっては、放っておけぬ娘のようなものだ。伊勢長島で初めて目にした時から護らねばならぬと思い過分な保護をしたつもりだったのだが」


信長は目を細め桃慧を微笑みながら見つめる。


「そなたは自身の実力とその成果をもって、過保護と罵る家臣共をねじ伏せた。よく余に着いてくれた。感謝する。誇るべき臣下じゃ」


桃慧は思わず顔を赤らめ、深く頭を下げた。


「……そのように思っていただけるのは、光栄です。ですが私は、今は医の道に生きます。救える命がある限り、その傍を離れるつもりはありません。そして私の医を理解し存分に使っていただけるのは天下において上様の他に居りませぬ。」


「ふむ……そう言うか。」


信長は頬を赤らめながら小さく笑った。



「ならばせめて、死なぬように生きよ。余のためではない。そなた自身のためにだ。」



まるで父が、戦に向かう娘の背を押すような、

重く、温かな言葉だった。





そして後日、訓練と治療が重なり、医務所はいつにも増して忙しない空気に満ちていた。


救走班が担架を担ぎ、治療所では治療と患者の(うめ)き声が絶えず、薬事班では乾燥させた薬草の匂いが立ちこめ、記録班は帳面に脈拍と容態を書き付けている。


その最中だった。


「上様のお成り――!」


場が凍りつく。


誰一人として事前に知らされていなかった。

織田信長が、供も最小限に、まるで散策の延長のように医務所へ踏み込んできたのである。


信長が土間に立った瞬間、空気が一変した。


だが信長は手を上げて制する。


「構わぬ。いつも通り続けよ。今日は“見に来ただけ”だ。」



桃慧は即座に進み出て膝をついた。

「お越し頂き恐れ入ります。 現在、先ほど運ばれてきた患者の治療を行っております。訓練であればそ外の馬場にて....」


信長は頷き、まず治療所を覗く。


治療台の上には稽古(けいこ)中に落馬し開放骨折の治療を受ける金森長近(かなもりながちか)の配下の若武者が、他には火傷の軟膏塗布、縫合の手際など慌ただしく駆け回っている。


一綱の火傷治療、柚の繊細な縫い、琴の落ち着いた指示、あやめの的確な投薬、誰も信長を意識しても動きを乱さぬ。


ただ「患者を救う手」だけが、迷いなく動いていた。


「……実によい。次。」


信長の一言は短いが重かった。




次に薬庫へ。


普段あやめを筆頭に薬師たちが丁寧に管理する薬庫。


そこには乾燥させた黄芩(おうごん)黄連(おうれん)当帰(とうき)川芎(せんきゅう)日本桂皮(にほんけいひ)甘草(かんぞう)ドクダミ、ユキノシタ、柳の皮、。

樽に詰められた酒精(しゅせい)、煎じ壺、煮沸用の大釜。

保存のために燻煙された棚、湿気を避ける高床。


「ほう、壮観よの。薬は武具と同じ。数、質、運び方、すべて揃って初めて力になる。」


信長は治長に問いかける。


「三百人分の治療を三日間、連続で維持できるか。」


「物資だけで判断いたします。総力で事に当たった場合、現状の備蓄で一月。補給が断たれなければいくらで伸ばせます。また戦場へ赴き補給なしで事に当たれば3~5日は重軽症者300名分の医療行為は出来ます、」


即答だった。


「やるではないか、あとは医の者の気力しだいだな。よかろう」


次に荷駄車。

改良された車輪、揺れを抑える革張りの台、中には折り畳み式の処置台、包帯箱、消毒用酒精。


「これはもはや兵器だな。よいではないか」


信長は低く笑った。


「ほう、牛に引かせれば揺れが少なく移動しながらも処置ができると。これは実に良いな」



最後に馬場、訓練場。


農民出身だが今では見違えるほど洗練された動きを見せる救走班が、笛の合図で一斉に動き、

見立て紙を取り付け、脈を測り、担架に載せ、搬送路を開く。

宗次が号令を飛ばす。

「血を見るな、顔色を見ろ!慌てるな、順を守れ!」


「上様、いかがでしょうか?」


宗庵が腕を組みながら訓練を見守る信長の後ろから声をかける。

信長は腕を組み、しばし黙って眺めていた。

そして、ふっと息を吐く。


「十分だ。其方も生き生きとしてるではないか」


「そんなそんな、若い者たちが新たな目標に向かい突き進んでおります、この宗庵が焚きつけられないわけがないでしょう」

その声には満足と、わずかな誇らしさが滲んでいた。


「桃慧の医の術理解できたか?」


「老人には厳しいですが...その()なら少々理解してきました。見る所を見れば....上様は寝不足でおられるな、お休みください」



「また医者臭いことを」

信長は笑いながらも真剣に訓練する救走班を眺めながら


「戦は刀で決まると思われておる。だが余は知った。戦は戦に至るまでの準備で決まる。そして命を守るものが居ればまた軍は立ち上がるのだ。」


そして駆けてきた桃慧に視線を向ける。


「よくここまで仕上げた。医務衆は、もはや“従軍の付属”ではない。織田家の柴田、丹羽、佐久間に並ぶいや、言い過ぎだな。しかし余の精強な軍勢の一つだ。」


桃慧は深く頭を下げる。

「上様の御信任あってこそでございます。」


信長は踵を返しながら、背中越しに言った。


「油断するな。次は机上ではなく、血と泥の中で試すことになる。」


そう言い残し、将は城へと戻っていった。


医務所に再び日常の音が戻る。

だが皆、理解していた。

今、織田信長自らが見て、認め、去った。

それはこの医務衆が、正式に“戦力”として目を向けられたと言う事だった。


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