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痘痕

疱瘡治療、四日目――。


疱瘡の患者たちの回復の兆しは見え始めていた。

疱瘡による死者数は、確かに減っている。

新たな発症も、わずかに抑えられている。


だが、別の影が忍び寄っていた。


物資の枯渇である


医務衆は即応的な治療を行う集団である故に補給が続かねば息が切れてしまう。すぐに届くと聞き及んでいた物資は未だ届いてはいなかったのだ。


岐阜へ走らせている医務衆の荷駄隊だけでは長期の医療支援を支えるだけの物資の供給は出来ない。あくまで即応用の少数運用での荷駄であるのだ。


雪により遅れているのか、はたまた別の理由か分からないが3日経っても姿を見せない織田本軍の荷駄隊を待ち、今か今かと焦るのは本陣で指揮をとり、医務衆の裏方の長、治長であった。


 本陣の奥、仮の集積地として使われている場所で、治長は帳面を閉じ、深く息を吐いた。


「……薬草が足りぬ。包帯も、明日の昼までもつかどうか」声を落としての報告だった。

 

連日の治療で、煎じ薬は底をつき始め、

清潔な布も、洗っては乾かし、穢れを払った物は疱瘡患者へ優先的に使っているため熱病患者へ対応するための清潔な布は既に枯渇しかけてる。



そしてしばし黙したまま空箱が重なる蔵の中を見回した。

そこには空になりつつある籠。底が見える甕。薬湯を煮る薪も、残りはわずか。

米や麦、雑穀に肉、魚、野菜は町より提供されている物や明智勢より譲り受けたものが大半を占めてきた。


「……明日までは、持たせるが……」

 淡々と告げたが、その裏にある緊張を、隣で見守る琴は見逃さなかった。



「町の人達からの徴用はこの復興中の人々から今の生活を奪うようなものです。近くの村へ人を走らせ少しでも……」

不安そうに籠のそこにへばりついた薬草の枯葉を眺める琴。


「もしくは……助けるものをさらに選別するしか……」


治長が言葉を継ぐ前に、外がざわついた。


遠くから、蹄の音が重なって聞こえる。

明智勢の見張りが何か叫んでいる。

そしてガタガタと何かを引くような音。



だが次第に、その音は確かな形を持ち始める。

「…っ!!……が…来るぞ!」


「荷駄……? 軍勢……?いや、あれは……」


坂本の町の外れ、街道の向こうから現れたのは――

長々と続く荷駄列だった。

牛馬に引かれた荷駄車。

担がれる木箱。

織田家の旗。その隣に靡くのは丹羽家の家紋入りの旗槍


先頭に立つ武将の姿を見て、誰かが息を呑む。

「……丹羽……様?」


「そんな!丹羽様自らが!?」


彼は馬を降りると、土に膝をつきそうな医務衆の面々たちを制し、静かに言った。

「医務衆への補給である。速やかに受け入れを願う」


「長秀様自らの補給、感謝いたします」

蔵から一気に駆け、かつての主、長秀の元に駆け寄り嬉しさと焦燥感からの解放を笑みに変え対面する治長。


「おぉ、治長!良いところに居た。誠に遅れてすまぬ。上様が張り切って物資の選定をしたもので時間を弄してしまったのだ」


治長は急いで荷下ろしを命じ納入される物資を記述し管理下に置く


補給の荷が下ろされ、医務衆の陣が再び動き出した頃――


 丹羽長秀は、ひとり馬の傍に立ち尽くしていた。

 視線の先には、町の外れに煙が上る白布で囲われた隔離陣。

 人の出入りは厳しく制限され、誰一人として、容易に近づくことは許されない。

 その奥に、桃慧がいるのだ。

 長秀は、拳を握りしめ、そっと息を吐いた。


「……会えぬ、か」


 口にした声は低く、誰にも聞かせぬ独り言だった。

 延暦寺の折もそうだった。

 無茶をする。

 身を顧みぬ。

 命を救うためなら、自らを削ることを厭わぬ。

 あの娘は、いつもそうだ。


 ――だからこそ、心配になる。


「さすがに疱瘡は……危険すぎます」


 傍らの治長が、気遣うように声をかける。

 長秀は苦笑し、首を振った。

「分かっておる。分かっておるからこそ、だ」

 疱瘡は、農民であろうと、帝であろうと、容赦なく命を奪う。

 近づくこと、それは死ぬ行為。

 理では理解している。

 だからこそ、会うことは許されない。


 ――だが、感情は別だった。


 綾の出産の折、あれほど落ち着き、冷静に妻と子を守ってくれた少女。

 今度は、その身を、死の病との戦の只中に置いている。

「……無事でいてくれ」

 長秀は、隔離陣に背を向けた。

 自分にできることは、限られている。

 

だからこそ――


「荷を急がせよ。不足が出ぬよう徹底しろ」


声に、迷いはなかった。

会えぬなら、支える。

言葉を交わせぬなら、物資で守る。

それが、今の自分の役目だと、

長秀は誰よりもよく理解していた。

荷駄車から、次々と箱が下ろされる。

薬草。

布。

薪。

食糧。

そして防疫のための清潔な医具

その一つ一つが、医務衆の命を、町人の命を、繋ぐものだ。



 長秀は、運ばれていく木箱を見送りながらふと小さく笑った。

「……まったく」



普段はのほほんと城下の人々と話し、畑に危険な薬草を植えようとしたり、怪しい薬を調薬する桃慧の姿を思い出す。


 そんな桃慧が今は、誰よりも恐ろしい敵と向き合っている。

「大将自ら危険な場所へ籠ってどうするのだ。指揮するの極意を一言物申すか、帰ってきたら覚えておけよ,,,」


少しにやけながら呆れたような口ぶりで話す長秀は再び背筋を伸ばし、黙々と荷を下ろす部下たちを見守る。



隔離陣の向こうにいる、会えぬ少女の背を、ただ信じながら。



疱瘡治療の第三陣の内側は、相変わらず静かな地獄だった。

 布で仕切られた空間に満ちる、薬の匂いと、湯気の熱気と、病の気配。

 呻き声は減ったが、油断すればすぐに戻る。

 桃慧は、梅の額に滲む汗を拭いながら、ふと外の騒がしさに気づいた。

 医務衆の一人が、戸の隙間から顔を出し、低く告げる。

「桃慧様。丹羽長秀様が……荷駄を率いて来られたそうです」


 その言葉に、桃慧の手が一瞬だけ止まった。


 この国の内政と兵站を支える、織田家の要。

 ――その方が、自ら。

 

 胸の奥に、じん、と熱が広がった。

 一目会いたい、という気持ちが、真っ先に浮かんだことを、桃慧は否定しなかった。

 岐阜城の城下で、いつも気遣うように声をかけてくれた人。

 自分の暴走を、苦労しながらも受け止めてくれた人。

 だが、すぐに現実がそれを押し戻す。

 

 疱瘡。感染。そして患者たち。


 ――会えない。


 それは、寂しさだった。

 けれど同時に、別の理解が、はっきりと胸に落ちてきた。

 丹羽長秀が来たのは、自分に会うためではない。

 信長の判断として、ここを支えるためだ。


(おもったより私は追い詰められているのかもしれない)


桃慧は、深く静かに息を吐いた。


(……殿は)


 自分を、ただの医者として使っているのではない。ただの慈悲の象徴として、ここへ送ったのでもない。


(……託されている。殿がこの私を)


 この町を。この病を。結果を。


 ――私に。



 信長の顔が、脳裏に浮かぶ。

 豪胆で、目立ちたがり屋で、それでいて、肝心なところで情を切らぬ人。


 「次も使うぞ」と笑った、あの声音。


 あれは命令ではなかった。

 期待だった。


「綾姫様は元気ですかね」


長秀と綾姫の笑顔が脳裏にちらつく

幼い赤子を抱き笑顔で私を呼ぶ長秀


あやめが桃慧の寂しそうな横顔に気が付き声をかけようとする



桃慧は視線を戻し、床に横たわる少女の顔を覗き込み一息ついて少し汗ばんだ黒髪を耳にかけ頭巾を縛りなおす。


 梅の荒かった呼吸が、少しだけ整っている。

 膿疱はまだ消えない。

 熱も下がりきらない。

 だが――生きている。


「……大丈夫ですよ」

 桃慧は、仏に誓いを立てる様に、柔らかく告げた。

「ここに居る限り、私は必ず、手を離しません」


 それは、少女に向けた言葉であり、


 同時に、自分自身への誓いでもあった。


 会えない寂しさは、胸に残る。

 だが、それ以上に重く、確かなものがあった。

 信長から預けられた信頼。


 丹羽長秀が、身をもって示した覚悟。


 それを、結果で返すしかない。


 桃慧は立ち上がり、次の患者のもとへ向かった。

 疲労は、すでに限界に近い。

 それでも、手と足は止まらない。


 ――私は、織田家、殿の家臣。

 ――そして、医だ。


 会えぬ人の思いを、

 言葉ではなく、生き延びる命で返すために。

 桃慧は、再び手を伸ばした。

 より深く、より慎重に、より強い覚悟で。

 その背に、織田信長の信が、織田家からの期待が静かに重なっていることを、

 彼女自身も、はっきりと感じながら。



桃慧は、その日から一度も「仕方がない」という言葉を口にしなかった。

疱瘡は人の力ではどうにもならぬ天罰のように語られてきた病である。


だが、桃慧は違った。


死は結果であって、前提ではない。

ならば――前提を許さねばよい。


「ここから先、この陣で死者は出しません」

 

低く、しかし揺るぎない声だった。

それは号令ではなく、誓いだった。

あやめ、柚、医務衆の者たちは一瞬、息を呑み、

そして何も言わず、それぞれの持ち場へ戻っていった。


不可能だと誰もが思った。

それでも――背を向ける者はいなかった。

桃慧が、そうしてきたからだ。


どれほど深い傷でも、どれほど高い熱でも、

息がある限り、彼女は必ず手を伸ばした。

患者たちの呼吸は昼は長く、夜は短い。


患者たちは夜に逝くことが多く油断は禁物であった。


煎じ薬は切らさず、

膿疱は一つ一つ洗い、

二次感染を防ぐため、布は何度も煮沸され、

隔離の動線は徹底された。


恐怖は、最初に抑えねばならぬ病だった。

疱瘡に触れれば呪われる。

近づけば家が滅ぶ。

そんな噂が、町を蝕んでいた。

だから桃慧は、あえて最も重い患者の傍に立ち、自らの手で処置を施し続けた。



 

 町に着いた際に怯える町人の前に立ち、こう告げた。

「病は、罪ではありません。恐れるべきは放置です」

 

 その言葉は、すぐには届かなかった。


 だが、時間が――結果が今、それを証明し始める。



 最初の変化は、朝ではなく、夜に訪れた。

 まだ症状の軽い疱瘡を患っていた一人の少年が、高熱にうなされることなく、

 静かな寝息を立てていた。



 翌8日目の朝、立ち上がる者が現れた。

「……朝だ!」

窓から差し込む朝日を顔いっぱいに受け目を燦燦と輝かせて。



少年の呟きが、次第にざわめきへと変わる。



8日目の終わりには、「概ね回復」と記される名が、帳面に初めて記された。


治長が、震える手で筆を止める。


「……回復例、確認しました」

第三陣からの報告に、ただ一度だけ、深く安堵の息を吐いた。


「疱瘡なのですよ?一週間程で……。」

 柚のその声はしっかりとしていたが、その背に走る動揺は、報告を耳にしたもの達もはっきりと感じていた。



 近くにいた者だけが感じ取った異質な感覚

疱瘡に勝てるもという淡い希望が見えた気がしたのだ。


それから数日が経ち十四日目。

恐怖は、明確に形を失い始めていた。

疱瘡の新規感染者は、出ていない。


熱病も、重症化する例が激減した。


本陣で日夜報告を耳にする町人たちも言葉を交わすようになる。


「……助かるのかもしれん」

 その一言が、どれほど重かったかを、医務衆は知っていた。


十四日目の帳面には、

完治の印が、いくつも並んだ。

歩ける者。

笑う者。

家へ戻る許しを得る者。


念のため隔離されている三陣と二陣の間に仮宿を設けて再発しないか数日様子を見る。


桃慧は、彼ら一人一人の顔を見送りながら、

決して笑わなかった。まだ終わっていない。油断は、死に直結する。



そして坂本に付き三週間と数日

――年の明け。

冷たい風が、比叡の山から吹き下ろす頃、疱瘡と熱病は、静かに収束した。

新たな感染は確認されないまま二週間が過ぎ


帳面に記された数字は、確かな事実を示していた。

 


誰もが、信じられぬ思いでそれを見つめた。

天災でも、神罰でもない。

人の手で、病を押さえ込んだのだ。

新たな年の始まりと共に、坂本の町には、再び炊煙が立ち、人の音が戻った。


正月三が日を過ぎた1572年1月5日


一番症状が重度であった梅が快復し隔離陣を去っていった。


桃慧は、町外れで立ち止まり、静かに空を仰ぐ。

白い息が、夜空に映え、上り詰める日の出に照らされる。

「……夜が明けましたね」

誰にともなく、そう呟いてから、

彼女は再び、陣へ戻っていった。

まだ学ぶことは多い。

 

次の戦も、次の病も、必ず来る。

だが――この冬、人は病に勝った。

 れは、剣ではなく、祈りでもなく、知と覚悟によって。

 

織田の医務衆が、その新たな歴史をこの実世に刻んだ瞬間だった。



疱瘡が退いたあと、町に残ったのは安堵だけではなかった。

癒えた者たちは、鏡を見ることを恐れた。

膿疱が引き、熱が下がり、歩けるようになっても――


顔や腕に残る、浅くも深い痕。

痘痕あばた。それは病が去った証であり、

同時に、この世の残酷な烙印でもあった。

十歳の少女は、布で顔を隠したまま軒先に立っていた。

目だけを伏せ、誰とも視線を合わせようとしない。


「……もう、治ったのに」か細い声が漏れる。

「でも、これ……」


指先が、頬の凹凸をなぞる。

その仕草には、痛みよりも深い、恐れがあった。

疱瘡を患った者は、忌まれ、避けられ、嫁にも行けず、商いも断られる。それが、この町で長く信じられてきた「常識」だった。


町人たちも、初めは同じだった。

疱瘡の患者が出たと聞けば、戸を閉め、噂が立てば、道を変え、「穢れ」という言葉で、自分たちの恐怖を正当化してきた。



――あれは、触れてはならぬ病だ。

――あれは、天の罰だ。



そう言い聞かせなければ、

自分たちの弱さと向き合えなかったからだ。

だが、この一月。桃慧たちは、その「常識」を、静かに壊していった。


隔離はしたが、見捨てなかった。

触れたが、恐れなかった。

病を「穢れ」とは呼ばず、

ただ「病」として扱い続けた。

膿を洗い、熱を下げ、二次感染を防ぎ、生きて帰す。

 

それを、淡々と、繰り返した。

やがて町人たちは気づく。

疱瘡の者が歩いている。

疱瘡の者が笑っている。

疱瘡だった者が、また家族の隣に座っている。

――触れても、うつらぬ。

――正しく扱えば、治る。

その事実は、どんな説法よりも雄弁だった。



炊き出しの場で年配の女が、痘痕の残る梅に声をかけた。


「……その顔、つらかったろう」

一瞬、場が凍る。言われた方は、思わず身を強張らせた。だが、続く言葉は違った。

「昔な、瘡は“穢れ”や言うて、近づくな、見るな、言われたもんや」


 年配の女は、自分の手を見つめる。


「……けどな。あんたらが、こうして戻ってきとるのを見て、わしらの方が、恥ずかしなった」


周囲にいた町人たちが、黙って頷く。

「病を知らんまま、怖がっとったのは、わしらや、疱瘡は治らないと勝手に決めていた、神仏の行いだと思っていた。けど結局は只の病気でなにも恐れるものでは無かった。」


その言葉に、梅と痘痕のある者たちは、初めて顔を上げた。桃慧は、その光景を少し離れた場所から見ていた。


少女が、恐る恐る布を外す。完璧ではない肌。だが、そこには生きている顔があった。


「……あの痕、消えませんよね」


 琴が、ぽつりと問う。

「ええ。完全には消えません」


 桃慧は、はっきりと答えた。


 

だが、続ける。


「でも、それは“生き延びた証”です。恥じるものではありません」


琴の目が、揺れる。


「痕があるから、病にかかる者が弱いのではない。痕があっても、生きている。」


桃慧は梅の元に歩み寄り頭を撫で手を握り笑顔を向ける


 町人たちも梅を抱き上げ笑顔を向ける。

「疱瘡」を語る言葉を変えていった。


 穢れ、ではなく、病。

 罰、ではなく、戦った証。


 そして、恐怖ではなく、理解。


 新たな年明けには町では自然と、こんな言葉が交わされるようになっていた。


「疱瘡は、治る病だ」


「正しく隔て、正しく診れば、命は助かる」


それは、知識であると同時に、人が人を見捨てなかった記憶でもあった。

 

痘痕は残った。だが、それを恥とする空気は、消え始めていた。は、病だけでなく、自分たちの恐れと偏見からも、回復しつつあった。桃慧たちは、名を残さず、誇らず、ただ次の準備を始めていた。だが坂本の町には、確かに一つの変化が根づいた。



 ――病は、人を分けるものではない。

 その理解こそが、疱瘡に打ち勝った、もう一つの「治癒」だった。



その日、明智光秀が岐阜城へ早馬を走らせた。


”医務衆 疱瘡に勝利”



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