教育
町が朝霧に浸かり、岐阜の町並みは海に沈むような朝。
まだ人通りもまばらな街道を、多くの若者たちが駆け抜けていく。
――タッ、タッ、タッ。
駆ける音が揃い、息が白く立ちのぼる。
先頭は宗次。その背に一綱、あやめ、柚、琴が続き、桃慧は隊の中央やや後方で小柄な体を懸命に動かしていた。
「みなさん、各々の速さで構いませんで! はぁっ、はぁっ……無理はしないように……!」
声は少し息切れしていたが、必死さが仲間を鼓舞した。
五里の道程は想像以上に厳しかった。
息が荒く、額の汗が衣を濡らす。
それでも、桃慧達は足を止めない。
彼女が後ろを振り返ると、農民あがりの者たちが歯を食いしばってついてくる。
「お嬢……すげぇ、ぜぇぜぇ……!」
「医者様って……あんなに走るもんか!?」
その声に、桃慧は息を切らしながら微笑んだ。
「命を救うには、まず……自分が倒れては、いけませんから……!」
やがて先頭集団、宗次、一綱、あやめが広場に駆け込む。
「宗次様、やりました! 今回は勝ちましたよ!」
「残念だが、まだ某の方が半刻早い。次は頑張るんだぞ。」
「なっ……!」とあやめが口を尖らせる横で、一綱が大笑いした。
「二人とも余裕そうだなぁ……。やっぱ医者じゃなくて武士の方が向いてるんじゃねぇか。」
そこへ、やや遅れて桃慧が駆け込んできた。
肩で息をしながらも、きちんと姿勢を崩さない。
宗次が駆け寄り、手ぬぐいを差し出した。
「桃慧様お疲れ様です。中盤での到着。これだけ男衆が多い中で十分すぎる体力です」
「……はぁっ、みなさん……体力、すごいですね。」
桃慧は微笑みながら、水筒を受け取って喉を潤す。
そこで、あやめがにやりと笑った。
「桃慧様も……ちゃんと息が切れるんですね!」
「そりゃあ切れるだろ、あんな華奢な身体で.......五里も走ってんだ。むしろようやった方だ。」と一綱。
「……ふふ、これでも奥州からここまで旅してきたんですから、体力はある程度自信あるつもりですよ」
桃慧がそう言って笑うと袴の裾をまくり引き締まった足の筋肉を見せる、すると一綱は耳まで真っ赤になった。
「きれいな足で........い、いや! そ、そういう意味じゃ……!」
「あははっ! 一綱さん、顔真っ赤ですよ!」
「うるさい、あやめっ!」
宗次が苦笑しながら腕を組み、
「仲がよろしいようで」とぼそりと呟いた。
笑いの中にも、隊の士気は確かに高まっていた。
桃慧は息を整え、静かに皆へ向き直る。
「早朝からお辛いですが皆さん、これから頑張りましょう。ともに多くの人を助けられるように。まずは己の体力、そして精神と技術を鍛えましょう。そして仲間との信頼も。」
その言葉に、全員が自然と背筋を伸ばす。
朝陽が霧を払うように昇り、人それぞれを金色に照らす。
宗次が一歩前に桃慧に誓うように出て言った。
「日ごろから備えなければ助けられる命も助けられない。救う者が倒れては、命は救えぬ。忘れぬよう心に刻みましょう」
全員が拳を胸に当てる。
五里走の終わりとともに、彼らの結束はひとつになった。
その中心で、桃慧は静かに息を吐き、
「……これを毎日.....次はもう少し……距離を短くしてもいいかしら……」と小声で呟いた。
あやめが聞きつけてくすりと笑い、
「桃慧様も人間らしいところ、あるんですね。」
「あやめ?前々から思うのですが、私を何か化け物のように思ってはいませんか?」
「あっぅぇ......んー、なんだだろう」
眼をそらすあやめ
「あやめ?」
ふたりのやり取りを見てくすくす笑う周囲の者たち
その横で、一綱は胸の高鳴りを押さえきれず、赤面したまま後ろを向く。
琴と柚子がくすくすと笑いながら囁いた。
「一綱様、桃慧様を見過ぎでは?」
「い、いや!違う、桃慧様が美しくていや、違う変な意味ではなく」
必死に言い訳するが、耳まで真っ赤だった。
宗次はそんな一綱の頭を同時に軽く小突いた。
「一綱、変な気を起こしてはならぬぞ、我らの守るべき主だからな?ふざけた気で居ると次の鍛錬が増えるぞ。」
「わかっておりますとも」
頭をかく一綱は再び桃慧とあやめを視界に収める。
大輪のように咲く桃慧の笑顔と汗に濡れた肌が輝く
「うっ.....」胸が一綱が胸を押さえる
「ダメだ、もう落ちておる」宗次は呆れたようにその場を後にしたのであった。
日が昇り朝食を食べ、一同は少し休んだの後、知識教育を受けるべく医務所の近くの広い講堂へ集められた。
講堂には静けさが満ちていた。
板張りの床に百名を超る人々と医師見習いが並び、前には大きな木板そこに骨と筋の図が描かれている。
桃慧はその前に立ち、両手を軽く合わせた。
「……皆さま。命を奪うのは刃だけではありません。目に見えぬもの、それこそが、もっとも恐ろしい敵です。」
ざわり、と空気が動く。
前列に座る一綱が眉をひそめ、隣の柚が筆を取る。
彼女の声は、どこか祈りにも似て静かだった。
聞く者たちは息を呑む。
「我々の手は、刃を持たずして人を殺すことができます。もし、汚れたまま傷に触れたなら、それは穢れを移すこと。それは、殺生と同じです。」
その一言で、場の空気が一変した。
武人である者たちが、無意識に手を握りしめる。
“殺す”という言葉が、戦ではなく己の無知に向けられたことに、
誰もが心を打たれた。
桃慧は静かに桶の水を持ち上げる。
透明な水が木の器を満たし、陽の光できらめいた。
「だから、手を洗いましょう。血を洗うのではなく、穢れを祓うために。」
その所作はまるで禊だった。彼女の手が水に沈むと、兵たちは自然と同じ動きを真似た。宗教ではない。だがそれは信仰のように神聖な行いだった。
「この“洗い”こそが、命を守る最初の術です。穢れなき手で、穢れた命を救う。それが医の道です。」
あやめが小さく息を呑む。柚は震える筆で「穢れ=病の根」と書きつけた。
一綱は拳を握り、呟くように言う。
「刃より恐ろしい敵が……己の手の中にいるのか。」
桃慧は頷いた。
「そう。だからこそ、恐れなさい。けれど、怯えてはいけません。理を知れば、穢れは断てます。」
講堂の隅、宗庵が目を細めて見守っていた。あの炎の中で育った少女が、今や百の人に“理”を教えている。
「これは先日治療した者から取り替えた包帯です。」
すると桃慧は包帯を2本取り出して見せる。
「一つはそのまま放置したもの、もう一つは煮沸し、石鹸で洗い、乾燥させたものです。洗えばきれいになる当然のことと思って居ませんか?それは当然ではないのです。」
洗っていない包帯は異臭を放ち、どす黒く変色している
「これが、我らの敵の姿です。これが人の体で起こります。血と肉は腐り異臭を放ちます。目には見えずとも、確かに在る。穢れは、人の怠りから生まれます。」
宗庵が黙って頷く。
彼もまた、戦場で“腐れ”に命を奪われた者を数えきれぬほど見てきた。
桃慧は水桶を抱え、汚れた布を掴む。
そして桶の中で何度も何度も洗う。
血が、汚泥が、濁流のように流れ落ちていった。
「清めるとは、祈ることではありません。働きかけること。理を知り、理で守ることです。これが、医の信仰です。」
皆はただ見つめていた。
荒れ果てた戦国の中で、誰もが“命が長らえる”という理を、初めてこの目で見たのだ。
やがて、桃慧は濁った水を外へ捨てた。地に吸われていくその水を見つめながら、静かに言葉を落とした。
「穢れは人の怠りに宿る。だが、理をもってすれば滅ぼせます。だから、洗いなさい。医の基本は穢れを持ち込まない、放置しない、起こさないです」
講堂の隅、宗庵が目を細める。
講堂には沈黙が満ちていた。桃慧は静かに手を拭い、皆の視線が自分に集まっていることを感じていた。
そのとき、ひとりの若い男が手を挙げた。浅黒く焼けた腕には、まだ戦場の痕が残る。
「桃慧様……ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか。」
「ええ、構いません。どうぞ。」
「では疱瘡は、穢れなのですか?」
場の空気が、ぴんと張り詰めた。
この問いは、ただの質問ではない。
戦乱の世を生きる者たちにとって“疱瘡”とは、神の祟りとも、仏の罰とも言われた恐怖の代名詞だった。
桃慧は、しばし考えるように瞼を伏せ、やがて顔を上げた。
瞳には一点の迷いもなかった。
「いいえ。疱瘡は穢れではありません。」
ざわ、と人々の心が揺れる音がした。
宗庵が息を呑み、あやめが不安そうに桃慧を見る。
「穢れとは、人が怠って生むもの。けれど病は、理です。目に見えぬほど小さきものが、体の中で暴れる。それは天罰でも呪いでもない。よって疱瘡は穢れではなく病です。理が分からぬだけのただの病なのです」
誰もが息を止めたまま聞いていた。
一綱は拳を握り、柚はそっと筆を取ってその言葉を写し取った。
桃慧は続ける。
「かつて私は、“疥癬”という病を治しました。皮膚が裂け、膿が出、皆が触れることすら恐れたあの病です。けれど、薬湯と熱と清めによって一週間ほどで完治しました。」
「そんな筈はない、疥癬は穢れだ……ほんとうに治ったのか?」
誰かが呟いた。信じがたい、という声音で。
「ええ。必ず治るのです。」
桃慧の声は、確信に満ちていた。
「恐れさえしなければ、理を正せば、どんな病にも道があります。」
そんな中、柚がすっと立ち上がった。
黒髪を揺らし、真っ直ぐに桃慧を見る。
「私は、この目で見ました。疥癬で見捨てられた人々が、桃慧様の手によって次々に癒されていくのを。」
ざわめきが広がる。
柚は続ける。
「織田の畑には、今も元疥癬の方々が多く働いています。 松吉というお爺様を筆頭に、皆元気に畑を耕し、薬草を育てています。皮膚は綺麗になり、笑って、歌って、……もう“穢れ”なんて言う者は誰もいません。」
その声には確信があった。
あやめはうんうんと自慢げに頷き、宗庵も共に静かに頷く。
柚はさらに言葉を続けた。
「そして桃慧様は.......」
一呼吸おいて、少し照れたように笑う。
「穢れだと虐げられた者たちを安心させるように……疥癬の者たちと一緒に、薬湯へお入りになったのです。」
「なっ……!?」ガタッ!!!
あまりの衝撃に、一綱が勢いよく立ち上がった。
その目は、まるで雷に打たれたかのように見開かれている。
「ととととと.....桃慧様が!? そんなっ、は、肌をっ!」
「座れ、犬かお前は」
宗次の拳骨が即座に一綱の頭に落ちる。
「いってぇっ!?」
「お前はどこに反応している。だぞ講義中だぞ。」
「ち、違っ……! ちょっと驚いただけで……!」
必死に弁解する一綱を、周囲の者たちは苦笑しながら見守っていた。
桃慧はというと、頬を赤らめて咳払いする。
「ええ、その……症状を確かめるために、一緒に湯に浸かりました。もちろん、薬湯が危険なものでは無いものという証明と医療行為としてですしちゃんと服を着たまま入りましたよ?」
「ほらな。」宗次が淡々と呟き、一綱は胸をなでおろした。
柚は微笑み、補足するように言った。
「その時、誰もが涙を流しました。“この人は穢れを恐れぬ”と、そう感じたからです。」
桃慧は、少し困ったように笑う。
「……あれはただ、おぞましい色の薬湯でしたし.....信用してもらうためにどうしても.....」
その言葉に、あやめが「桃慧様らしいです」と笑い、
講堂の緊張がふっとほどけた。
やがて、再び柚の声が静かに響く。
「でも私は思いました。あの光景こそ奇跡だと。穢れと呼ばれた人々が、同じ湯に入り、同じ笑みを浮かべる、それを見て、神は人の手と心に宿るのだと思いました。」
再び場は静まり、宗庵は深く目を閉じ、宗次はうなずき、一綱は、頭を押さえながらも誇らしげに笑っていた。
桃慧は柔らかく言う。「奇跡ではありません。理です。病の理を理解すれば、どんな病も怖くありません。」
宗庵が静かに呟く。
「どんな病にも理があり、理を理解し病を治す、それが医の道に生きると言う事だ」
「でも一緒に入るのはやりすぎだと思いますよ、桃慧様」
あやめがそう言い放つと講堂に笑い声が響いた。
笑いと涙が交じり合い、講堂の空気は温かく包まれた。
一綱がぼそりと呟いた。
「……俺も桃慧様と薬湯に入りたい。」
宗次の拳骨、再び炸裂した。
「二度と口にするな。」
長い一日が終わり、普段の生活に戻る桃慧たち。
灯火の下、帳面に向かう二人の影が、紙の上で揺れていた。
治長の筆先が墨を吸い、数字を刻むたびに、静かな息遣いが響く。
「治長さん。」
桃慧が顔を上げ、柔らかく問いかけた。
「三百名の医務衆で、いったいどれほどの命を救えるでしょうか。」
治長は筆を止め、巻物を指でなぞる。
戦場規模にもよりますが、即時対応できるのは百五十前後。搬送や記録を含めると、実働はその三分の二ほどです。」
「……そうですか。」
桃慧は小さく息を吐き、遠くを見つめた。
その瞳には、炎と煙に包まれた坂本の記憶が浮かぶ。
「坂本の町では、ひと月のうちに約三百人を救いました。」
その声は穏やかでありながら、芯の通った硬さを帯びていた。
「焼け落ちる屋根の下で、血を吐きながら泣く母や、斬られた僧兵、飢えた子供たち……あの時は昼夜の別もなく、ただ命を拾い続けるだけでした。けれど、あの惨状は戦場よりも遥かに苛烈でした。」
治長が息を呑む。
「……戦よりも、ですか。」
桃慧は静かに頷いた。
「ええ。坂本では、町に火が放たれ大火災と撫で斬りが同時に起こり、負傷者も焼傷者も、逃げ惑う民も一度に押し寄せた。あれは“救命”というより、“洪水の中で溺れる手を掴む”ようなものでした。戦場では、負傷者の搬入はもっと緩やかです。戦線が動き、戦況が変わるごとに波のようにやってくる。だからこそ、三百名体制が真に力を発揮するのは、あの坂本のような極限ではなく、“継続する戦”の中です。」
治長は感心したように筆を止める。
「つまり、戦場では坂本より冷静な判断と分担ができる……と。」
「はい。坂本での三百救助は奇跡ではなく、ただただ命を繋いで居ただけでした、治療と呼べるものではありませんでした。ですが、あの地獄を見たからこそ分かります。戦場では、混乱を抑え、指揮を保てば救命率は必ず上がる。けれどそれには、見立てと搬送の正確さ、物資の配分、そして隊の“心の統率”が欠かせません。」
治長はその言葉を帳面に記しながら、目を細めた。
「……坂本の地獄を、数字で語れる方は貴女しかいない。」
「数字にすれば冷たいですが、それが命の重さを量る唯一の秤です。」
桃慧の声は、静かに、しかし力強く響いた。
「だからこそ、この三百名で、五百を救うための仕組みを作りましょう。あの火の中で見た“混乱の地獄”を、二度と繰り返さないために。」
治長は深く頷き、筆を置いた。
机上の帳面には、新たな一行が加えられる。
『三百名体制、想定救命五百。搬送・物資循環・心の統率要。』
「では、これを基に再計算いたします。」
「お願いします。宗庵殿への報告は、あなたの数字でなければ通りません。」
二人はまた黙々と筆を走らせる。
障子の外では、秋の夜風がすすきを揺らしていた。
その静けさが、次なる嵐の前触れのように思えた。




