医の道、人の道
岐阜城へ戻ると城下の季節は秋の色が濃く、澄み切った秋空の下。岐阜城の奥御殿には重苦しくも荘厳な空気が漂っていた。信長は上段の間に座し、家臣団や奉行衆が控えるなか、陣医務衆筆頭・桃慧が前に進み出た。彼女の姿は、戦場での血と喧騒の中にいたとは思えぬほど清らかで静謐。医務衆を率いて前線へ赴いていたい勇ましさなんて感じさせない年相応の女子の姿であった。
「比叡山、坂本における救護活動の報告を申し上げます」
桃慧は一歩進み出て、自身がまとめた記録とともに、救出した民・治療した兵・死亡者の内訳などを、細やかに、そして一語一句淀みなく読み上げた。その数字と詳細な分析は、軍議の場にいる重臣たちを唸らせるほどの精密さである。
信長は報告の半ばからじっと黙り、腕を組んで桃慧を見つめていた。まるで一つひとつの言葉を噛みしめるかのように。やがて報告が終わると、数瞬の静寂が訪れる。
「……ふははははっ!」
突如、信長は朗々と笑い声を上げた。城内の空気が一瞬で張り詰める。
「よくやった! 桃慧、まこと見事である!見事余の願い通りの任を果たした!」
その声は上段の間に響き渡り、重臣たちの背筋も思わず伸びる。信長は立ち上がり、自ら階段を降りて桃慧の前へと歩み寄った。
「この度の戦で、我が軍の威が武の者だけでないことを世に知らしめた、そなたの働きは天下に比類なし!」
信長は家臣に合図を送り、献上台が運び込まれる。そこに置かれていたのは、堺の鍛冶師に命じ特別に作らせた小刀、研ぎ澄まされた刃、織田木瓜紋が刻まれた柄。まさに、医のための刀である。
「これは、そなたのために用意した。天下一の切れ味よ。存分に使え」
小刀を受け取った桃慧は、戦場では決して見せなかった年相応の笑顔を浮かべた。その瞬間、信長の表情も、父親が娘の喜ぶ顔を見るように、ふっと和らぐ。
「……ありがとうございます! 大切に、使わせていただきます!」
「よい顔じゃ。次も使うぞ。」
信長の労いに場が和らぐ中、もう一人、静かに前へ進み出る人物がいた。
織田家御医頭、安藤宗庵である。年に似合わぬ筋骨隆々の肉体に、柔らかな目元。長年、織田家の医療を支え続けてきた重鎮だ。
「上様……この宗庵よりも、ひとつご報告とお願いがございます」
宗庵は一礼し、穏やかだがはっきりとした声で語り始めた。
「延暦寺での戦い……老骨ながら、わしも医務衆と共に働きました。ですが、いかに鍛えていようと、この老いさらばえた身には、戦場はあまりに過酷。正直に申し上げます……この宗庵、これ以上前線で采配を振るうことは難しいと悟りました」
場が一瞬、ざわめく。
だが、宗庵は微笑みを浮かべたまま、横に立つ桃慧に視線を向けた。
「……されど、この戦において、医の要を担い、人の命を繋ぎ、誰よりも成果を上げた者がここにおります。桃慧。わしはこの場をもって、織田家御医頭の座を、そなたに譲りたいと思います」
信長の眉がわずかに動く。重臣たちの間にも驚きが広がった。十五歳の少女が、織田家御医頭、前例のない人事だ。
宗庵はさらに続ける。
「もちろん、そなたはまだ若い。だからこそ、わしはこれより後、桃慧の後見人として、全身全霊で支えて参る所存です。桃慧が己の医術を天下に広め、戦乱の世で一人でも多くの命を救うことができるよう、この老いぼれも役目を果たしましょう」
その言葉に、桃慧は目を見開いた。戦場では冷徹な決断も下す彼女の心に、確かな波が立つ。宗庵のその宣言は、彼女にとって何よりも重く、何よりも心強い支えだった。
信長はしばし黙考したのち、寂しそうに二人を眺めながら言葉を紡ぐ。
「……宗庵。そのような大任を任せて、そなたが率いてきた医務衆に異論はないのか?」
宗庵はふっと目を細めた。その顔には迷いがない。
「ございませぬ。坂本でのあの獅子奮迅の働きを見た者で、桃慧様に異を唱える者は一人としておりませぬ。皆、己が目で見、その医の道、医の技術見た者たちは皆心はひとつにございます」
宗庵の静かな言葉が、広間を満たした。
その声に、柴田勝家や丹羽長秀らが静かに頷く。
宗庵はさらに続けた。
「これより先は、後見としてこの子を支え、この才を天下に示す手助けをいたします」
信長は……しばし無言だった。
その眼差しには、笑みではなく、わずかな陰が差していた。
「……そうか。宗庵、おぬしも、とうとう“老い”を語る日が来たか」
そう呟いたとき、信長の脳裏には幼き日の記憶がよぎった。
まだ「うつけ」と呼ばれていた頃、病を患えば宗庵が傍にいて診てくれた。時に叱り、時に笑い、体を撫でる宗庵の手は、あの頃の“父”のようだった。
そして、かつて自分を厳しくも愛情深く導いた平手政秀。その面影が、宗庵の老いた背に重なる。
胸の奥に熱いものがこみ上げ、喉の奥がきゅっと詰まる。
信長はそれを悟られまいと、ほんのわずかに顔を背け、鼻を鳴らした。
「……うむ。宗庵、長年の働き、見事であった」
声が少しだけ震えていた。
宗庵は深々と頭を下げ、年老いた目に一瞬だけ柔らかな光を宿した。
「ありがたきお言葉にございます、上様」
信長はすぐに気を取り直し、鋭い眼差しで桃慧を見る。
「よかろう、桃慧。これよりそなたを織田家御医頭として認めよう」
「はっ!」
少女の凛とした声が広間に響いた。
宗庵が深々と頭を下げたあと、信長はしばし沈黙した。
そしてゆっくりと立ち上がり、宗庵の前に歩み寄ると、かつての“主従”ではなく“旧知”として、柔らかな声音で言葉を紡いだ。
「……宗庵」
「はっ」
「その娘は、余とは違う。うつけではない。安心して支えてやるがよい」
老医の目がわずかに潤んだ。
長年仕えてきた主の、何気ない一言に込められた信頼と情。宗庵は膝をつき、静かに、しかし力強く頭を垂れた。
「……ははっ、ありがたきお言葉」
そのやり取りを見ていた桃慧は、自然と背筋を伸ばし、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
信長の視線が再び桃慧へと向けられる。
その眼差しは、戦場を見据える将の鋭さであり、同時に父が娘を見るような温もりを湛えていた。
その後、宗庵は続けて報告した。
「さらに別件ですが、坂本の町より桃慧様のもとで働きたいと志願する者二十名、さらに噂を聞きつけ志願する者が数多く押し寄せております」
その志願者の多くは、かつて坂本で桃慧の手に救われた者、あるいは戦場で白衣を翻し鬼神の如き治療を施す姿を目にし、心を打たれた者たちだった。
中には「この方こそが我らの主君」と言わんばかりに、憧れと信仰の念を抱いている者も少なくない。桃慧の存在は、戦場の中で命を拾われた者たちにとって、すでに“救い”そのものとなっていた。
信長は満足げに頷いた。
「よい、増員を許す。医務衆は三百名体制とせよ。……人の命を拾う軍、よい響きだ」
こうして、桃慧率いる医務衆は300名の大所帯となることが決定した。だが、人が増えるということは、統率と能力の精査が不可欠となる。宗庵と桃慧はすぐに加入志願者の試験を行うよう命じられた。
某日。岐阜城下の医務所の庭に、志願者たちがずらりと並んだ。
岐阜の町に秋の冷たい風が吹き始めた十月下旬。
坂本における延暦寺焼き討ちの折、彼女が戦場で示した驚異的な医術と指揮力は、多くの命を救った。町民、兵、農民、救われた者たちは皆、感謝と崇敬の念を抱き、この日、自らの意思で集まっていた。
桃慧は広場の中央に立ちその様子を若干呆然としながら志願者たちを見つめる。
「こんなに集まるのですね.....」
少し引いたような口調で囁きつつ、気合を入れて向き合う。
「これより、医務衆への加入と供廻り選抜の試験を始めます」
澄んだ声が秋空に響くと、場は一瞬にして張り詰めた空気に包まれた。集まった志願者約300名の中から約半数が不適格として落第、さらにその中から選ばれし者は、医務衆三百名の中でも桃慧直属の供廻りとして、戦場と医療の最前線に立つことになるのだ。
■ 第一試験:体力試験 三里走
最初の試験は、城下を一周する三里(約三キロ)の持久走であった。
号令とともに志願者たちは一斉に走り出す。
中でも、ひときわ軽やかな走りを見せたのは、一人の娘であった。
あやめ農家の生まれで、幼き頃より薬草採取のため山野を駆け巡って育った少女である。細い足は矢のように地を蹴り、風を裂いて駆けるその姿は、周囲の足軽すら圧倒した。
その後方では、二人の男が火花を散らしていた。
一人は、元僧の宗次。宗庵の息子で山岳での修行と戦場への従軍で鍛え上げられた脚力は重厚そのもので、一歩一歩が揺るぎない。
もう一人は、元柴田勝家隊の足軽、一綱。大柄な体に似合わず俊敏な走りを見せ、若さと根性で宗次に食らいついていく。
走り終えた三人は他を大きく引き離し、息を荒げながらも互いに視線を交わした。その眼差しには、早くも戦場で共に走る者たちの連帯の兆しが宿っていた。
■第二試験:縫合試験 獣皮縫合
次の試験は、戦場で最も多く求められる技術、縫合である。
志願者たちの前に置かれたのは、動物の皮。これをいかに迅速かつ精密に縫い合わせられるかが問われた。
ここで静かに一歩前へ進んだのは、柚であった。
商家の娘として育つも、一揆で家を潰され、放浪していたところを桃慧の提案による薬畑事業で命を救われた経緯を持つ。
彼女が針と糸を手にした瞬間、空気が一変した。指先が迷いなく走り、皮と皮の接合部は絹のごとき滑らかさで閉じられていく。
その縫合線には一分の隙もなく、見守る宗庵の口から自然と「見事」という言葉が漏れた。
さらに、一綱が意外な器用さを見せた。
戦場では槍を振るってきたその大きな手が、まるで陶工が細工を施すかのごとく慎重に糸を引き、縫合線を整えていく。その姿に周囲から驚きのざわめきが広がった。
■ 薬学試験 薬草の鑑別
薬草の山が机の上に広げられると、志願者たちの顔に一様に戸惑いが浮かんだ。
だが、あやめは迷わなかった。
鼻を近づけ、一瞥するだけで効能を言い当てる。
「これはユキノシタです」「こちらはトリカブト!ヨモギと似てるけど裏の綿毛で見分けてもいいかも」「これがねケシの実」「これは.....オオバコを乾燥させて煎じた粉かな?」
矢継ぎ早に正答を連発するその姿に、試験官たちが舌を巻いた。山野に生き、草を知る娘その知識は誰にも及ばなかった。
何より桃慧と共に半年過ごした仲である。鍛えられ方が違う。
■ 第三試験:記録・診断試験
次なる課題は、負傷者数や戦況記録から適切な医療配置を導き出す、軍略的な試験である。
ここで頭角を現したのは治長であった。
丹羽長秀の下で兵糧と物資の管理を担ってきた彼は、数字と記録において群を抜いている。
与えられた仮想の戦況を即座に分析し、十五分という短時間で完璧な配置計画を描き上げた。桃慧も、記録を手にしながら感嘆の息を漏らす。
「これは……素晴らしい速度と精度です。丹羽様からも重宝されていたのでは?」
桃慧の質問に治長は答える。
「桃慧様の方が私を良く使ってくれると進言して頂きまして、なので安心してお使いください」
■ 耐性試験 血と臓物を前に
最後の試験は、医務衆にとって最も過酷なものだった。
死んだシカとイノシシを使い、切開し内臓を確かめる。
血の匂いと肉のぬめりが漂う中、多くの志願者が顔を背ける。
そこに、ためらいなく一歩を踏み出した者がいた。
琴、坂本の町で桃慧の治療を見て感銘を受け、医務衆に加わった娘である。彼女は落ち着き払った表情で処置の手順を示し、冷静に臓器へ手を伸ばした。その丁寧な所作は、まるで熟練の医師のようであった。
続いて一綱が登場する。戦場で血を見慣れた彼は、顔色ひとつ変えず淡々と処置を行い、針を通す。豪胆さと繊細さを併せ持つその姿に、宗次が静かに頷いた。
全ての試験が終わると、桃慧と宗庵が記録をまとめ、話し合い結果を判断した。
場は一瞬にして静まり返る。秋風が吹き抜け、木の葉が舞う中、桃慧が一歩前へ出る。
「これより、合格者を発表します。それと供廻りの任命を行います」
呼び上げられた名は十八名。
その中には、あやめ・柚・一綱・治長・琴、宗次の名があった。
桃慧は彼らを前にして、力強く告げる。
「皆様を、私の供廻りとして任命いたします。これより戦場において、共に命を救う柱となってください」
あやめは歓喜に小躍りし、柚は深く胸に手を当て、琴は柔らかな笑みを浮かべ、一綱は拳を握りしめ、治長は静かに頭を垂れ、宗次は胸をなでおろした。
その光景を見つめる宗庵の眼差しには、確かな誇りと希望が宿っていた。
「これで新たな力が加わった、新たな時代が来るぞ」




