比叡山延暦寺焼き討ち【中編】
走り出す事数分、目の前に地獄が広がっていた。
燃え盛る家屋、突き刺された男の死体、両腕を切り落とされた女の死体、切られた腕が守る踏みつぶされた赤子の死体、炎に巻かれ踊り狂う影、逃げ惑う民たち、既に息絶えた子供を必死に運ぶ親の姿。
泣き叫ぶ童の姿、死体から金子を奪う乞食たち、笑いながら女をさらう男たち。
あまりの惨劇に歩みを止めて恐怖する者も多かった。
ピィ―――――――――――――!
鉄笛の音が天から鳴り響くように燃え盛る坂本の町へ降りそそぐ。
桃慧率いる医務衆の到着である。
「救走班!三班は比叡山側の救助者捜索、さらに琵琶湖側にも三班回って、一班は現在地に待機、軽傷者の搬送に、二班は私に着いてきてください、必ず風上から接近し救助するのです、煙は毒と心得て、無茶はしないように、明智勢に追われたら柴田隊を頼りなさい、必ず助けてくれます」
「応っ!」
「行くぞお前ら!」
医務衆の面々は即座に動き出す。炎と悲鳴に包まれる混乱の中、農民たちは互いに声を掛け合い、瓦礫をどけ、負傷者を担ぎ、素早く周囲の状況を把握していった。やがて道の突き当たりに、家屋の焼け跡と広場が残された一角が見つかる。
「ここです! 桃慧様!」
「よし、ここを拠点とする!風向きには随時注意して!炎が接近してきたら脱出できるように、荷駄をここに集めなさい!」
桃慧は声を張り上げ、次々と指示を飛ばした。
薬箱を運ぶ者が拠点中央に集まり始める。倒れた負傷者たちが次々と運び込まれ、桃慧の足元はあっという間に血と、周囲に焼けた肉の匂いが立ち込める。
「息をしている者から診ろ! 出血の多い者を優先! 軽傷者は外へ! 重傷者は中央へ集めて!」
声が飛ぶたび、農民たちは素早く行動する。すでに彼らは何度も訓練を受けていた。見立て、応急処置すべてが連鎖するように動き始める。
「……まだ、間に合う」
桃慧は手早く止血を施し、火傷に薬を塗り、声を上げる者たちに短く優しく声をかけていった。
彼女の目の奥には、炎や悲鳴ではなく命を助ける、目の前の命のみが映っていた。
「ぎゃあああっ!!」
坂本の町の奥から、再び甲高い悲鳴が上がった。
明智隊の兵が、逃げ惑う町民を追い立て、家々に火を放ち、泣き叫ぶ稚児を容赦なく槍で突いていく。その姿はもはや軍ではなく、暴徒そのものだった。
「やめなさい! そこは民家です! 敵ではありません!」
桃慧は声を張り上げた。だが、武装した兵たちは若い少女の声など意にも介さない。
「女子が口を出すな!」
怒鳴り声と共に、刃がこちらを向く。
一瞬、空気が凍りついた。
――――――そのときだった。
「止まれぇぇぇぇッ!!!」
地を震わすような咆哮と共に、坂本の通りに猛将の旗が翻る。
柴田勝家隊だ。
鉄靴が石畳を打ち鳴らし、武骨な兵たちが一列に並んで明智隊と桃慧たちの間に割って入った。勝家自身が馬上から怒声を放つ。
「明智! 貴様ら、何をしているか分かっておるのか!!」
勝家の声はまさに雷鳴。暴れていた兵たちは一瞬にして顔色を変えた。
「この町はすでに制圧済み、命ある前の先駆けと、無抵抗の民、女子供を斬るなど信長様のご意志に反する暴挙! 恥を知れい!!」
明智隊の兵たちは、柴田軍の重圧に押されてじりじりと後退する。その背後で、明智光秀自身は遠目からその場を見下ろしていたが、何も言わず、ただ静かに踵を返した。
「桃慧殿、心配無用。これより先、我ら柴田隊が貴様ら医務衆の守りを引き受ける」
勝家は馬上から桃慧を見下ろし、焦げ縮れた髪を風に揺らしながら笑った。
「……柴田様……」
思わず桃慧は胸が熱くなった。
柴田隊の兵たちは医務衆の周囲に展開し、即席の柵や荷駄を盾に、外から襲いかかる暴徒や火の手を防ぎ始める。
治療と救助に専念する医務衆。
その周囲を固める歴戦の兵たち。
「手の空いている者共は救走班の手伝いを致せ!可能な限り火を遠ざけよ!不破!明智のやつらを坂本の町から追い払え!恩を返すは今ぞ!」
勝家は大声で場を指揮し続ける。
「はっ!部下の命を助けていただいた恩、返さぬは柴田隊の恥にございます!者共続けぇぇぇぇ!」
不破隊の騎馬が先頭を駆け後続たちが燃え盛る家屋を横目に突き進む
「桃慧殿、この場は任せよ、負傷者は頼むぞ!」
勝家は兜を締めなおすと前線へと駆けていく
ピィーーーー
再度搬送係からの鉄笛が響く
「重傷者!」声が響き桃慧は再び治療台へ戻る
運び込まれてきたのは髪と肌を焼かれた少女だった。
家ごと火に包まれた中、逃げることもできずにいたのだろう。
腕と頬は赤黒く爛れ、皮膚が剥がれたところからは血が滲み出ていた。
「水っ! ……いや、急にかけるな、少しずつ、少しずつだ」
桃慧は桶を取り、細い手で慎重に水を垂らした。
少女が呻き声をあげ、体を震わせる。
「大丈夫……助かります、絶対に」
その優しい声は、少女の荒い呼吸に届いたのか、恐怖に見開かれていた目が次第に落ち着いていった。
桃慧は焼け爛れた皮膚の表面を丁寧に拭い、薬草をすり潰した膏薬を塗布し、滅菌用に薬で漬けた麻布で丁寧に包帯を巻いていく。
「大丈夫、もう大丈夫」
少女は落ち着いたようにゆっくりと息を吸う、助かったんだと薄く目を開け桃慧を見つめ口を動かす。
桃慧は笑顔で応え次の処置に向かう
次に運び込まれてきたのは腹を槍で貫かれ、倒れていた婦人だった。
脈は弱く、瞳は半ば虚ろ。しかし、まだ生きている。
「……っ、生死を分けるのは今だけ」
桃慧は迷いなく小刀を手に取り、血に濡れた布を裂き、傷口を露わにする。
腹腔内にまで及ぶ裂傷。普通なら既に死んでいるはずであった。
だが彼女は生きていた。
桃慧は手を突っ込み、失血を止めるために血管を指先で探り当てた。
「縫合用の糸持ってきて! 麻糸いや.......」糸を取らせるその一瞬も惜しかった
自らの髪を鋏で切り取り、瞬く間に血管を縫合していく。
その姿に周囲の兵たちは言葉を失い、農民たちは膝をついて見守った。
桃慧が患者の胸を押し、息を吹き込み何度も何度も繰り返す、数秒、1分、2分と繰り返し
周囲が一瞬静まる、熱い風が周囲を包む
「息が……戻った!」
周囲の陣医たちが声を上げる。息を吹き返したのだ。
「この者は危うい、目を離さないで」
「次の者を!早く」
桃慧は顔を上げることなく、次の患者を迎え入れる。
そこに運び込まれたのは、火に巻かれた母親に覆いかぶさるようにして助けを待っていた稚児。
母親はすでに息絶えていたが、子供の脈はまだあった。
「この子は生きます! 母の想いが守りました」
桃慧は小さな体を抱き上げ、煤にまみれた顔を拭って優しく声をかけた。
その声に、泣きじゃくっていた子供の喉から、かすかな「ひっく……」という息が漏れる。
素早く火傷を治療し後送してもらう。
治療所では次々と叫びと血の匂いが交錯し、桃慧の白衣は瞬く間に鮮血と煤に染まっていった。
それでも彼女は止まらない。
「負傷者を見逃すな! 一人残らず救いなさい!」
その声に呼応して、医務衆と農民たちが路地を駆け、焼けた家屋に飛び込み、倒れた人々を次々と担架に載せて運び出していく。
炎と血、叫びと命が交錯する修羅の中で人々は見た。
ひとりの少女が、白衣を血に染め、神速の手業で次々と人を救っていく姿を。
その姿は、もはや慈悲の女神ではなかった。
血と死の只中に立つ“生と死の境界を支配する存在”だった。
「どんな状態でもいい! 息がある者を運び続けよ!!」
少女の声が夜空を震わせた。
「どんな死にかけでも、私が助ける!!」
その言葉は炎の轟きにも負けず、全員の胸を突き刺した。
―――――――――信長本陣に伝令が入る
「申し上げます、明智隊は山を登り、残党どもを根本中堂と大講堂へ包囲しております。」
信長は頷きその報告に満足した様子で座っている。
「明智の先駆けと撫で斬りの件は後で話を聞かねばな....」
信長が感慨深く家臣たちを見渡す。
「さらに医務衆、坂本の町で奮戦!物見によりますと死者が息を吹き返し目を開けたと」
本陣に控えていた家臣たちがざわつく
「死者が?馬鹿者そんな筈があるまい」
「誰が戯言を....」
信長は思わず立ち上がりパクパクと口を動かし興奮を隠しきれない。
「......そ、そうか」
そう一言呟くと信長は立ち上がる、そして腰の刀を軽く叩いた。
「見に行く。……馬を用意せよ」
その声に、家臣たちが一斉に動き出す。驚きと緊張が走る中、信長は一刻を争うように天幕を出て、坂本の町へと駆け出した。
――そして目にしたのは、地獄だった。
町のあちこちから立ち上る黒煙。焼け落ちた家々、泣き叫ぶ稚児、呻き声をあげる負傷者、血の臭いと焼けた肉の臭いが入り混じり、空気は重く淀んでいた。
「退けい! 上様のおなりだ!」
信長の馬が兵の列を割って駆け込み、そのまま医務衆の拠点の前で止まる。
勝家が駆け寄ろうとするが、信長は手でそれを制し、馬上から一歩、二歩と足を進めた。
信長は馬を下り、足元の瓦礫を踏みしめながら医務衆の拠点へと歩みを進めた。
鼻を突くのは血と煙の臭い。焼け焦げた町の残骸、呻き声と泣き声、そして治療の怒号が混じり合う異様な空間だ。
その中央で桃慧は膝をつき、次々と運ばれてくる負傷者に手を伸ばしていた。
法衣はもはや白衣ではなく、真紅に染まっている。
柔らかな頬も、凛とした目元も、血の飛沫に覆われていた。
「……桃慧……」
信長は思わず、その名を小さく漏らした。
その声に気づいたのか傍で怯えたように立ち尽くしていた若い少女の看護係が、はっと顔を上げた。まだ十にも満たぬであろう少女。手には血に濡れた布が握られている。
信長はその少女の肩に手を置き、低く穏やかな声で問いかけた。
「怖いか」
少女は小刻みに震えながら、か細い声で答えた。
「……はい……でも……桃慧様は……こわく、ない……です……」
信長はその言葉に眉をひそめ、視線を前に戻した。
そこには、かつて彼が娘のように可愛がっていた少女の姿はなかった。
楚々として清らかに微笑む愛らしい顔立ち。
才気煥発ながらも、どこか柔らかな雰囲気を纏う少女。
あの桃慧が今は血の海の中で、人の腹に手を突っ込み、縫い合わせ、命を無理やりこの世に引き戻している。
その姿は、まるで肉を喰らう修羅、死神のようだった。
手の中で呻く兵の腹から血が噴き出すと、桃慧はためらいもなくその中へ指を滑り込ませ、裂けた血管を探し当てる。
縫い上げ、止血し、包み終えると同時に次の患者のもとへ。
汗と血にまみれながら、ただ淡々と。呼吸の隙すらない。
信長の胸を冷たいものが撫でた。
”恐怖”
天下を目指す織田信長、その心の奥底を震わせるほどの「異質な力」。
「あれが……あの娘の姿か……」
信長は呟いた。
声は、かすかに震えていた。
信長は無言のまま医務衆の陣を出る。
そして隣に控える家臣たちが話しかけようとすると手で遮りぐるりと周りを見渡す。
琵琶湖に炎が揺らぎ水面が赤く染まっている、さらに横を見る、そして腰を抜かし倒れてしまった。
おびただしい程の死体がきれいに並べられていた。坂本の町で延暦寺に味方するでもなく、物見に更けていた者たちが無言で抗議しているように並んでいた。
信長は逃げるよう立ち上がり、比叡山側を目にすると医務衆に治療され呻き声を上げながらも家族との再会に喜び、知人たちと水を飲み笑顔で話をする者たちが死者たちよりも多く焚き木を囲み、寝台で横になり時を過ごす。
せわしなく走る医務衆の各々を尻目に確かに多くの者が命を繋いでいた。
信長は隣で呆然としている家臣に落ち着いた声ではっきりと伝えた。
「明智、佐久間に伝えよ、根本中堂と大講堂ごと立て籠もる者共に火をかけよ....」
「はっ、伝令!」
信長は無言で医務衆の陣を去り本陣より馬廻衆を引き連れ山へ上がっていくのであった。
医務衆の陣は坂本の町だけではなく前線より負傷者が入ってくるようになる。
桃慧だけでは手が回らなくなって自ら処置をし始める周囲の金創医達、然し昔ながらの治療に叫び声が絶えない。桃慧は金創医達にも指示をとばしながら負傷者たちへの治療を続けていると突如あやめが叫ぶ。
「桃慧様……! お寺が……お山が燃えています!」
息を呑んで告げるその声は震えていた。
燃え盛る延暦寺の堂塔。目に映るその光景は、山が噴火を起こしているのかと思うほどであった。。
夜空に轟々と響く炎の唸りは、まるで地獄の釜の蓋が開いたかのようだった。
しかし桃慧は、手を止めない。
傷口に水をかけ、止血を施し、呼吸を確かめ、包帯を巻き、次から次へと目の前の命をつなぎ止めることに全身全霊を注いでいた。
「あの……桃慧様!」
耐えきれず再び呼びかけると、桃慧は短く息を吐き、冷ややかに言った。
「……あそこにいるのは、助けるべき者たちではありません」
その言葉は、普段の桃慧からは想像もできないほど冷たく、突き放すようだった。
あやめは戸惑いを隠せず、桃慧を見つめた。
桃慧は視線を山へと向け、まるで独白のように淡々と続けた。
「私は.......元は.....信じてはいませんでしたが一向宗の医僧です。あの山にいる高僧たちが、どれほど腐っているか……民からどれほど搾取し、信仰を道具にしてきたか、嫌というほど見てきました」
炎に照らされる横顔は、あどけなさを残した十五歳の少女のものだった。
しかし、その瞳の奥に宿る光は、鋭く、断罪者のそれだった。
「祈れば救われると説きながら、病人や飢えた民に手を差し伸べず、お布施だけを貪り、権勢を誇る……。 戦になれば民を盾にし、自分たちは堂塔に籠もって高みから命じるばかり。あれは仏の道ではありません。救いでもない。欲と傲慢の塊です。彼らは今頃仏に祈っているでしょう。自らが捨てた仏の道を思い出したかのように。しかし........救われません。」
桃慧は目の前の傷病者に新たな包帯を巻きながら、静かに、だがはっきりと断言した。
「あれは、かつて私が仕えた“宗”の醜い末路です。自ら仏の道、人の道を捨てた者たちを、私が救う理由はありません」
その声には怒りも憐れみもなかった。
ただ真実を見据える医僧の、冷徹な判断だけがあった。
「……私が救うのは、今ここで倒れている、この人たちだけです」
あやめは言葉を失った。
山の炎と、桃慧の瞳の光が交錯する。
そこには慈悲深き菩薩と、罪を見逃さぬ閻魔が同居していた。
周囲の兵士や医務衆たちも、その言葉を聞いて一様に息を呑んだ。
あの優しく人を救う少女が、信仰の内側から容赦なく「仏」を斬っている。
「ようやく....裁かれました」
炎の中に消えていく延暦寺の高僧たちは、桃慧の目にはもう“仏門の者”ではなかった。
救いの手を差し伸べる価値すらない冷たい結論だった。
あやめは震えながら、炎に背を向けて命を救い続ける少女を見つめた。
背に燃え盛る延暦寺、前には血塗れの患者たち。
血に染まる白衣を翻し、神業とも言える技術と速度で治療を続けるその姿は、慈悲深き菩薩にして、罪を断ずる閻魔の如し。




