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初陣、北近江の戦い

まだ朝霧の残る岐阜城下の医務所。荷駄車の前には(かめ)や木箱がずらりと並べられ、農民たちと医務衆志願者たちが緊張した面持ちで積み込み作業に励んでいた。


桃慧は白衣の袖をまくり、荷駄一台一台を見て回る。

「ドクダミは乾燥葉と生葉、両方積んだ? 湿らせた布で蓋をしておかないと干からびてしまうよ」

「はっ!この甕にまとめました!」


甕の中には、青臭い独特の匂いが漂っている。傷口に貼れば止血と殺菌ができる、戦場では欠かせない薬草だ。


隣ではヨモギの束を荷駄へ積み込む男たちが汗を流していた。

「それは火傷や止血に使うから、傷んだ葉を混ぜないよう注意して」

「心得ました、桃慧様!」


木箱の中には粉末状のウコンが小袋に分けて詰められ、慎重に縄で縛られている。抗菌・抗炎症の薬として、煎じ薬にも外用にも使える万能薬だ。


一人の娘が桃慧へ声をかける

「桃慧様、この草は何?」


「それはアロエと呼ばれる植物です。まだ数は少ないですが薬として栽培してました。火傷や胃薬、便の改善に良く効く薬草です。あまり一般的ではないですが非常に良く効くのですよ」


その娘はふーんと興味深そうにアロエを眺めている。

娘の名前はあやめ(菖蒲)、歳は14と桃慧の一つ下であるものの、薬畑で一番薬草に詳しく桃慧の元で薬を煎じたり干したりと快く仕事を良く手伝ってくれる。


「んっ!苦い!でも中の透明な所が柔らかくてぬるぬるするね、確かに火傷に効きそう」

あやめはアロエをぺろりと舐めると舌をベーっと出し渋い顔をしながらアロエを調べている。


すると宗庵(そうあん)が背後から歩み寄り、腕を組んで見下ろす。

「ふむ……見事な備えだな。まるで戦装束(いくさしょうぞく)を整える兵どもを見ておるようじゃ」

「兵たちが槍を持つなら、わたしたちは薬草を持ちます。戦う相手は“死”ですから」


桃慧の瞳は、静かに、だが強く燃えていた。


荷駄の奥には、小さな(つぼ)に入れられたケシの乳液が丁寧に包まれ、帳簿で管理されている。重傷者の手術時に使う鎮痛薬だ。晒麻布(さらしぬの)は大束にまとめられ、煮沸済みで清潔に保たれていた。

鉄の小刀と竹製の鷹爪金(たかつめがね)(※現代でいうピンセットの様なもの)は油紙に包まれ、医療用具箱に整然と並ぶ。戦場の煮沸消毒用の甕と鍋も積み込まれ、火打石も脇に置かれる。


「……よし。これで、どんな戦場でも命を繋げる」


桃慧が小さく頷くと、周囲の志願者たちも自然と背筋を伸ばした。

槍や刀を手にする代わりに、彼らが背負うのは薬草と(かめ)。戦場に挑む“医の軍”が、静かに旅立ちの時を迎えようとしていた。



荷駄の積み込みが終わり、医務衆たちは城下を抜ける街道に整列した。

見慣れた畑の景色とは違い、鎧姿の兵たちが往来する道を進むことになると思うと、志願した農民たちの顔には緊張と不安が隠せない。


「……本当に、俺たちが戦場なんかに行って、大丈夫なんだろうか……」

 一人の若者が呟くと、周囲の者たちも口々に同じような不安を漏らし始めた。


「俺たちは刀も槍もろくに握ったことがない……」

「もし、敵が攻めてきたら……逃げるしか……」


そんな空気の中、桃慧は荷駄の先頭に立ち、振り返って皆を見渡した。

白衣の袖を風になびかせ、小柄な少女が凛とした声を響かせる。


「大丈夫です。皆さんに求められているのは、戦うことではありません。救うことです」


その言葉に、一瞬ざわめきが静まり返る。


「わたしたちが行く先は、死と隣り合わせの場所です。だからこそ、あなた方の手で一人でも多くを生かしてほしいと上様(信長様)に(たく)されたのです」


桃慧はゆっくりと手を胸に当て、静かに頭を下げた。

緊張で顔をこわばらせていた農民たちの瞳に、少しずつ力が宿っていく。


そこへ宗庵が杖を鳴らして前に進み、声を張り上げた。

「お前たち、聞いたな!桃慧様は、これまで見て知っておるものも多いだろうが多くの民、兵を救いその腕は我らの誰より確かじゃ!(それがし)も医僧として、命を懸けて支える所存!」


ごつごつとした老僧の声が響くと、農民たちの顔にわずかな笑みが戻る。


「……桃慧一緒なら……」

「桃慧様の下で、俺たちもやってやるか……!」

「桃慧様に救われた命だ!ここで引き下がったら男じゃねぇ!」


士気は高くやる気は十分。しかし、恐怖はそれだけでは拭えない。


「皆さん、戦場にて我々が最後の砦になるべく進みましょう」


浪人、貧困者、戦傷者、厄介者と呼ばれた彼らは今桃慧の元で復活を遂げ織田軍の一員として産声を上げたのだ。


最後の点検として、桃慧は荷駄に手を置き、目を閉じた。

比叡山焼き討ちの前哨戦。医務衆の実地試験であり初陣。

これは、彼女たちが真に“軍”として歩み出す第一歩である。


「出発します!」


桃慧の声と共に、108名の小さな隊列が城下を離れた。

白衣と農民服が入り混じった奇妙な一団だったが、その背中には確かな使命感があった。


目指すは浅井長政(あざいながまさ)居城(きょじょう)小谷城(おだにじょう)より北西方面にある余呉(よご)木之元(きのもと)周辺。

主目標はの近辺で浅井軍へ牽制攻撃を行う織田軍、柴田勝家(しばたかついえ)隊の医療支援である。


戦域全体指揮するのは織田信長自身であるが前線を指揮していたのは不和光治(ふわみつはる)という柴田勝家の家臣である。




―――――岐阜城下を出立し二日半後




北近江の小谷城北西――木之本と余呉の地に、朝靄が薄く垂れ込めていた。


浅井長政の領内と織田方との境目にあたるこの地へ、織田信長の命を受けた柴田勝家の家臣・不和光治が約900の兵を率いて進軍し、村々に火を放って牽制を試みた。浅井方の守備はおよそ600~700。数の上では織田が上回るとはいえ、林と丘陵(きゅうりょう)が入り組む地形は小競り合いを激しく、そして混沌としたものに変える。


救走班は前線後方の第二線の位置へ散開し、開戦の時を祈るように待つ


医務衆は不和光治軍の右側後方を治療拠点とし陣を構え、医を意味する白地に朱の丸の旗を掲げ無言でその知らせを待っていた。



突如前線で鉄砲が(とどろ)き、男たちの喧騒(けんそう)が森を裂いた。戦の幕開けは突然だった。



ついに、出来れば聞きたくなかったその報が医務衆本陣に響く。鋭い鉄笛(てっき)の音が三度、短く響いた。搬送班が吹く合図――重傷者が搬送されてきたのである。


「治療の準備を! 止血薬と包帯を多めに!」

 桃慧の声が響くと、最初に運び込まれたのは、鉄砲玉を右肩に受けた兵だった。出血は激しく、脈は弱い。桃慧は膝をつくと素早く傷口を(あら)わにし、深さと弾の軌道を一瞥(いちべつ)で読み取った。

即座に見立て紙を確認し患者の容態を確認する

「貫通している……止血帯をここ! 麻布を固く巻け!」


その後も、折れた槍が腹に刺さった兵、投石で頭を打たれ意識を失った兵、脚を粉砕された兵など次々と負傷人床で運ばれてくる。


桃慧は普段の動きとはまるで違う、素早く止血、異物の除去、消毒、縫合を丁寧かつ神速とも呼べる速度で判断し治療していく。


「あやめ、薬を、煎じ薬!化膿予防薬を」

あやめもそんな桃慧の動きに必死についていこうと奮戦する。

一人の患者を片付けるとすぐさま次の治療台へ移り、血で染まった白衣を替え、手を洗い清め、治療に入る。


見立て紙を眺め患者の体を確認する

「左脚骨折!脈はあるが呼吸が浅い!」

すぐさま治療に入り(よど)みなき動きで一人、また一人と怪我人たちを治療していく。



戦場の混乱の中にありながら、医務衆の陣はまるで戦の裏に存在するもう一つの戦場のようだった。

兵たちは、陣の奥に白衣を着た少女と農民たちがひとつの軍のように機能している光景を見て、思わず足を止めた者もいたという。


戦は二刻(ふたこく)ほどで終結した。不和光治隊は浅井勢を押し返し、放火と牽制を終えると撤退した。しかし戦いが終わっても、医務衆の戦いは終わらない。桃慧は次々と担ぎ込まれる負傷者の処置に追われていたが集中力を切らさず只管(ひたすら)手を動かしていた。


宗庵は前線に(おもむ)き、残された死者の状態と死因を一人一人確認していった。


「この者、鉄砲による即死……この者も投石にて頭蓋骨陥没」


陣に帰ると黒い幕に囲まれた一区画、線香と酒が供えられた幕の中

「重傷七名、処置せず(むな)しく一刻内(いっこくない)に死亡。」


宗庵は旅立った者たちに手を合わせ僧侶らしく(きょう)を唱えその場を後にする。


戦場に静寂が戻ると、桃慧は筆を握り、負傷者の状態・処置内容、助けられなかった者たちの死因を巻物に記していった。これまでの戦場では、負傷者は名も知られぬまま野に捨てられることが常だった。しかしここでは、誰がどう傷つき、どのように死んだのか、すべてが記録された。


この戦での死者は浅井軍推定30。織田軍は死者14、負傷者29。死者14名のうち7名は鉄砲・投石による即死、残る7名は深手により処置せず虚しく死亡。軽傷者は全員が助かった。数こそ小規模だが、初陣にしては異例の成果だった。


戦後、医務衆は佐和山城(さわやまじょう)退(ひい)いた。信長がここ佐和山城へ着城し軍議を開いたのだ。

ここで医務衆の初陣の報告を桃慧と宗庵が行う。


「続いて桃慧様よりのご報告です」


「桃慧、まずは無事を喜ぶぞ、申せ」

信長は扇を膝で打つと桃慧の瞳をしっかりと見ながら耳を傾けた。


「はい。この度の戦、医務衆総勢108名、救走班6班56名、物資搬送37名、宗庵様の医務衆12名及び御医頭宗庵様と共に出陣いたしました。戦場では傷病見立てに(のっと)り、負傷人床による搬送と、笛を用いた搬送伝達、すべて事項を記録いたしました。初運用ではありますが、大きな混乱はなく、搬送・治療は当初の推定より円滑に進行いたしました」


桃慧は用意していた簡略図(かんりゃくず)を広げ、布陣と搬送経路を説明する。

重臣たちは目を細め、戦場に少女が率いる医療組織があるという異様な光景を想像していた。


「ただ、搬送班の笛の吹鳴(すいめい)位置が曖昧(あいまい)であったため、一時的に伝達が錯綜(さくそう)いたしました。

今後は笛を吹く位置を搬送開始時と医務衆本陣から二百間(200m)手前に統一し、陣内で音を専門に聞き取る者を配置することで改善可能と考えます、また総大将様付近の布陣ですと早馬(はやうま)や伝令と経路が被り支障をきたす恐れがあり、これより医務衆の陣は第二線後方に布陣、重傷者と一刻(いっこく)猶予(ゆうよ)もない兵を助ける本陣と、軽傷者の治療と保護する第二陣と二手に分ける方法を取りたいと思います。」


その冷静な分析に、軍議の場の空気がわずかにざわついた。

十代半ばの少女が、まるで歴戦の武将のように戦場の改善策を語っている。それが異様であり、同時に驚異的だった。


さらに桃慧は報告を告げる。

荷駄車(にだぐるま)と医療品を格納する箱を改修し医薬品、水、食料を荷駄車から下さずとも使えるようにし、治療台(ちりょうだい)も荷駄車に備え付けとし、前線総崩(ぜんせんそうくず)れとなった際でも、速やかに後方の第二陣へ物資と人が後退できるように撤退線の確保を開戦前に思案(しあん)すべき事項だと思慮(しりょ)致したところでございます」


信長はこの報告を聞くとニヤリと笑い扇を膝へ置く。


すると宗庵も一歩進み出て、巻物を開く。


「この戦に置いての被害状況と敵方のおおよその情報を報告いたします。浅井軍、総勢推定600から700名、うち死者はおおよそ50名、負傷者は不明。不和光治隊920名、死者14名うち7名は即死、さらに7名は深手による治療困難放置、一刻以内に死亡、重傷者29名。軽傷者76名。重軽傷者は全員治療済み、現在も動けぬ重傷者は医務衆本陣にて治療中です。」


重臣たちがどよめいた。戦場でこれほど詳細な死因と負傷状況を即座に把握し報告した例は、過去になかった。


「……すべて、死因まで把握しておるというのか」

柴田勝家が低い声で問うと、宗庵は頷いた。

「今回は戦規模が小さく、搬送と見立ての仕組みが上手く機能したため可能でありました。これ以上の大戦では限界はございますが……仕組みさえあれば、戦場でも命を数として残せるのです」


信長はじっと桃慧を見た。白い衣にわずかに薄く血の跡が残りながらも、頭を深く下げるその姿に、家臣たちの誰もが言葉を失った。


その瞬間、静まり返っていた広間に、信長の朗々(ろうろう)とした高笑いが響き渡った。


「ハハハハハッ!やるではないか、桃慧!!」


その笑いは叱責(しっせき)ではなく、戦場で思いもよらぬ妙策(みょうさく)に出会った時の、天下人らしい痛快(つうかい)な歓喜だった。信長は立ち上がり、桃慧を見下ろす。その眼には明らかな信頼と興奮が宿っている。


「この傷病仕分けと搬送の仕組み……使える。次も使うぞ」


一転、真剣な声音に変わる。

桃慧は膝をつき、深く頭を下げた。


「ははっ」


「……だが今は休め」

信長は表情を和らげ、まるで愛娘を労う父のように、ひときわ柔らかな声で言い放った。


「戦はこれからだ。貴様の働き、しかと見たぞ」


その言葉に、宗庵も家臣たちも静まり返る。公の場で十五の少女が指揮する農民や浪人たちの集団を戦力として認めた瞬間だった。


「軍議は終いじゃ!」


信長の号令とともに、重苦しかった空気が一気に解ける。

桃慧は深く頭を下げ、宗庵とともに広間を後にした。

その背を、多くの武将たちが畏敬(いけい)と好奇の入り混じった視線で見送った。

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