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作る者・産む者・進む者

岐阜城・天守最上階。山々を望む広間に、織田信長(おだのぶなが)がいつものように腕を組み座していた。

桃慧(とうけい)は深々と膝をつき、頭を下げる。


此度(このたび)、新たな枠組みとしまして、傷病見立てが完成し、農民たちの訓練も一通り終えました。負傷人床(ふしょうにんどこ)の運用も滞りなく進んでおります」


信長は目を細め、扇を軽く打ち鳴らした。

「ほぉ……それは見事じゃ。たった二月でここまで整えるとは、そち……いや、桃慧、まこと恐ろしき才よ」


農民たちの奮励(ふんれい)ぶりを補足して伝える。

特に傷病見立ての精度と搬送の早さは、旧来の戦場では考えられぬほど効率的だった。


「ひとまず、私を(あたま)として動く足を得ました、私が走らずともこれで効率的に治療できます」

桃慧はそう信長に告げる。


「そうか、後は手と太き体が欲しいところだな。今は人手が足りぬが......枠は出来たな」


「はい、上様」

桃慧はひれ伏し頭を下げた。


「二人きりの時は名でよいと申して居るに、(せがれ)奇妙(きみょう)(後の織田信忠(おだのぶただ))と大して年は変わらぬではないか」


「しかし私めは上様に忠誠を誓い.....」

桃慧の声を(さえぎ)るように信長は言葉を放つ


「良いと申しているであろう、其方は余に歳、性別を超越し既に多大な利を与えてくれる忠臣、いや愛しき娘じゃ、前にも言ったが(せがれ)と夫婦になって本当の娘になってくれたらどれ程喜ばしいか、(しか)しそれでは桃慧の才を潰すことになる」


桃慧は額を自らの手の甲に押しつぶすほど頭を下げる


「"信長様"のご期待に添うよう....さらなる忠義と結果をもって御仕え致します」


信長はにこりと微笑み

「下がってよいぞ、桃慧、ご苦労であった...........っと言い忘れておったわ」


信長は床机から立ち上がり、窓辺へ歩む。夏の夕陽が彼の輪郭(りんかく)黄金色(こがねいろ)に染めた。


「北陸にて浅井・朝倉どもが小競り合いを仕掛けておる。柴田勝家がこれより兵を率いて向かうのだが……そちの新しき仕組み、小戦でこそ試すに良かろう」


「はっ……!」

桃慧は真っ直ぐに頭を垂れるが、その胸には一抹(いちまつ)の驚きがあった。

「なぜ、斯様(かよう)にお急ぎなのでしょうか……?」


信長は扇を閉じ、振り返った。その眼差しは炎のように鋭い。


「……九月、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を焼く」


「っ!?」


「奴らは朝倉・浅井・三好・顕如と結託し、この天下の乱を招いた元凶よ。徹底的に叩く。高僧達とその取り巻きたちは一人たりとも残らず討ち取る、根絶やしにする、高僧達と共に抗う僧兵もそれに付き従う女子供全てだ。其方は我が兵たちを癒し、その力を示せ、そして余の命に従え」


桃慧はその言葉に静かに息を呑み、両の拳を膝の上で握りしめた。

「かしこまりました。必ずや、その力……お見せいたします」


信長は満足げに笑みを浮かべ、

「うむ、それでよい。そちが居れば、この織田の軍は更に強くなる」

と背を向けた。



信長は直属の小姓に目配せし、「桃慧を下まで送り届けよ。丁重にな」と命じた。

小姓たちは思いもよらぬ待遇に慌てながらも、丁寧に桃慧を案内する。廊下のあちこちからも、戦場で名を上げた“信長公直臣の医師”を一目見ようとする者たちの視線が集まっていた。





その時、「桃慧殿っ! ここにおられたか!」

慌てた様子の丹羽長秀(にわながひで)の家臣が駆け寄ってきた。

(ひたい)には(たま)のような汗が浮かび、息も荒い。



「どうなされたのですか?」

「長秀様より、至急お連れせよと……! (あや)様が……奥方様が、産気づかれたのです!!」


「綾様が?」

桃慧は即座に顔を引き締めた。

「参りましょう!」



信長の小姓たちも驚くほどの素早さで(きびす)を返し、家臣に導かれながら丹羽家の屋敷へと向かう。道中、道を急ぐ姿に人々が「桃慧様だ」とざわめき、道を開ける。



長秀の屋敷の中では侍女(じじょ)や下働きの者たちが慌ただしく駆け回り、湯を沸かす者、布を運ぶ者の声が交錯(こうさく)していた。


 そこに、長秀の部下に頼んで診療所より取ってきてもらった白衣をまとった桃慧の姿が現れる。


「桃慧様が来られたぞ!」

ざわめきが一瞬にして静まり返る。混乱の(うず)が、彼女の一声でぴたりと止まった。


「湯は二つ、ひとつは洗浄用、もうひとつは保温用に。布は煮沸して、清潔な(かご)に入れてください」

落ち着いた声が夜気に響き、侍女たちが「はいっ!」と一斉に動き出す。

その姿はまるで戦場の指揮官のようだった。命を迎えるための“戦”の準備が、着々と整っていく。



産室(さんしつ)の手前には、年老いた産婆(さんば)たちが陣取っていた。

「腹を押してやらねばなりませぬ」「冷水を浴びせて気を引き締め……」

彼女たちは古い慣習を当然のように口にする。



桃慧は一歩進み出て、静かに、だが鋭く言い放った。

「それは母子の命を危険に晒す行為です。以後、私の指示に従ってください」



空気が張り詰めた。年老いた産婆の一人が反発しようと口を開きかけた、その瞬間

「退け!桃慧殿に一任する」


低くも力強い声が背後から響いた。丹羽長秀だ。怒気を帯びた眼差しが産婆たちを射抜く。

産婆たちは蒼ざめ、慌てて退いた。



産室に入ると、綾姫が横たわっていた。初めての出産の不安に、額には汗が滲み、瞳には怯えが浮かんでいる。

桃慧はそっと膝をつき、優しく手を握った。

「綾様、桃慧が参りました。大丈夫です。私が必ず、綾様もお腹の子ともに命をお守りします」


その声は穏やかでありながら、不思議なほど力強い。

綾姫はその言葉に涙を浮かべ、かすかに笑んだ。


「……桃慧来てくださったのですね、いてくださるだけで心強い、頼みますね」

綾は自分がこの場で一番苦しい身、しかし桃慧の頭を撫でる。


桃慧も嬉しそうにそれを受け入れる。


農民たちを訓練し、傷に苦しむ者たちを癒し見守りながらこの一月(ひとつき)桃慧は足しげくこの屋敷に通い詰め献身的に綾の体調を管理し、気分が落ち込まないよう見守ってきた桃慧。そんな二人の間には確かな信頼が出来ていた。



桃慧はすぐに頬を叩き気合を入れると体勢を整え、呼吸の方法を教えた。

「深く吸って、細く長く吐いて……波のように、痛みを流すのです」

経験から導き出した呼吸法。まだラマーズ法など知らぬ時代、しかし彼女は経験と知識で辿り着いていた。



体勢も、仰向けではなく横向き、やや上体を起こす体位に調整する。産道を圧迫せず、呼吸も通りやすい姿勢だ。

侍女たちには湯の管理、麻布の受け渡し、薬草や道具の準備など、役割が瞬く間に割り振られていった。


「全て、書き記せ」

長秀が側近に命じると、筆と紙が運ばれ、桃慧の指示・処置のすべてが克明(こくめい)に記録され始めた。



この日行われる出産が、後に“織田家初の記録的出産例”として伝わることになるとは、まだ誰も知らない。



静まり返った産室に、綾姫の呼吸と、侍女たちの規則正しい動きだけが響く。

戦場とは違うのだが、ここにも確かに“命の戦い”があった。

桃慧の瞳は、戦場で負傷兵を救う時と同じ光を宿している。



産室には、灯りが幾重にも重なり、(おごそ)かでありながら緊張に包まれた空気が漂っていた。

外では夜虫の声がかすかに響き、屋敷中の侍女や家臣たちは皆、息を呑んで産室の(ふすま)を見つめている。


「……綾様、ゆっくりと波がきたら…落ち着いて大丈夫ですよ桃慧がついています...…しっかりと……そうです......」

桃慧の声は年齢に似合わず落ち着き払っていた。15歳の少女とは思えない、その確固たる声音が場を支配する。


綾姫は桃慧の言葉に小さく頷き、再び桃慧が示した呼吸法を始めた。

「すっ、すっ、はぁ〜……すっ、すっ、はぁ〜……」


陣痛が頂点を迎えると、桃慧は自らの(そで)(まく)り上げ、周囲の侍女たちへ指示を飛ばす。

「湯をもう一度温め直して! 清潔な布を! 下腹部を支えてください!」


誰もが即座に動いた。

彼女の指揮には不思議と逆らえない。まるで歴戦の猛将が戦場で号令を下すときのような、圧倒的な「場の掌握(しょうあく)」がそこにはあった。


「綾様、今です……!」


桃慧の合図と同時に、綾姫は大きく息を吐き、力を込める。


「っ!!!!!!!!!!!」


その瞬間。

桃慧は一気に綾姫の下へ手を伸ばし、的確に赤子の頭を受け止めた。

熱く、小さく、そして確かな命の感触。


「頭が見えました……もう少し、もう少しですよ!」


再び波が押し寄せる。

呼吸法で無駄な力みを抑えていた綾姫は、残る力を振り絞り


「……はぁぁぁぁぁっ!!」


産声と共に、赤子がこの世に姿を現した。


「……おぎゃぁぁぁ……!」


その声は産室の空気を一変させた。

桃慧は素早く羊水(ようすい)と血を拭い、(へそ)()を切り、赤子を抱き上げた。

侍女が差し出した清布で包み、綾姫の胸元へとそっと置く。


「綾様おめでとうございます……!頑張りましたね.....」


綾姫の瞳から、大粒の涙がこぼれた。

「……ありがとう……ありがとう……!」


侍女たちも思わず涙ぐみ、長秀の側近は記録帳を震える手で書き留めながら嗚咽(おえつ)を漏らした。


その姿を見た桃慧は、ふーーーっとゆっくりと深呼吸し、布で額の汗を拭った。

(……よかった……この子も……綾様も……)



「丹羽様!」襖の奥の部屋で待っている長秀に桃慧は力強く落ち着いた声で呼びかける。


長秀は一瞬で襖を開きこちらを見て、思わず身を乗り出す。

「……っ! どうだった……!」


桃慧はほんの一拍(いっぱく)、呼吸を整えると

「元気な男児にございます!」



その言葉が響いた瞬間、長秀の目が大きく見開かれた。

「……男児……!」



長秀はその光景を目にした瞬間、武将の面影を一気に捨て、ただのひとりの夫として妻のもとへ駆け寄った。


「……綾……よく……よく耐えてくれた……!頑張ったな、よく頑張った」

その声は震えていた。戦場で幾度となく死線を越えてきた男が、いまはひとりの妻を心から労わる声だった。



綾は優しく微笑み、腕の中の赤子を見つめながら静かに応えた。

「この子……貴方にそっくりですよ……」


長秀は思わず顔を(ほころ)ばせ、そっと綾と赤子の頭を撫でる。周囲の者たちは誰も声を発せず、夫婦の静かな時間を見守った。





――――――その一方で

桃慧は黙々と出産に使った器具を洗い、血に染まった敷布を片付け、薬草を補充するなど、事後の処理を淡々と進めていた。余計な言葉は一切なく、その姿はまるで熟練の医師そのものだった。


ふと、長秀がその姿に気付き、妻子のもとから一歩下がって桃慧に声をかける。

「……桃慧……」


呼び止められた桃慧は、手を止めて静かに振り向いた。

長秀は深く頭を下げる戦場では決して見せない、心からの感謝だった。

「よく……やってくれた。本当に、感謝している」


桃慧は一瞬きょとんとした顔を見せた後、いつものように柔らかく微笑み、深く一礼した。

「母子ともにご無事で……丹羽様の支えがあったからこそです」


産声が収まり、室内に安堵(あんど)の空気が満ちた。

綾姫は、長時間に及ぶ出産の緊張から解き放たれ、細く震える息を吐きながら赤子を胸に抱いていた。その顔には達成と安堵、そして深い疲労がにじんでいる。


桃慧はそんな綾姫の様子を見て、夫婦の時間を邪魔することなく、静かに歩み寄った。

片膝をつき、まずは母体の容態を手際よく確認する。

脈拍、顔色、出血の量、経験から導き出される動きは(よど)みなく、若い少女の姿とは思えぬ冷静さだった。


「出血は止まっています……脈も安定しています。安心してお休みください、綾様」

桃慧は柔らかな声で囁き、綾姫の額にかいた汗を拭きとり、柔らかな布で頭を支え、気を落ち着かせた。


綾姫はその声に小さく頷き、長秀の手を握りしめながら(まぶた)を閉じる。

桃慧はすぐに部屋を静かに整え、薬湯と清潔な寝具を用意し、綾姫と赤子が落ち着いて休める環境を整えた。


「母体の回復が最優先です。今夜は、しっかりとお休みいただけますよう」

桃慧は長秀へ一礼し、必要なことだけを伝えるとすぐに下がり、他の者へ引き継ぎを行った。


彼女は筆と紙を取り出し、手早く今後の処置や食事・薬の管理方法を細かく書き記す。


「これが今後三日の指示書です。お薬と食事はこの通りに……夜間は赤子と綾様の体温をこまめに確かめてください、夜が明けましたら再度容態を確認しに参りますので」


静かな声でそう言い、側近に紙を手渡す桃慧。


その眼差しには、戦場で幾多の命を救ってきた医師の覚悟と、若き少女の優しさが同居していた。


全ての確認を終えると、桃慧は深く一礼し、屋敷を後にしようと玄関口へ向かう。

夜風が頬を撫でる中、ふと背後から複数の足音が。


玄関口で並び立つ家臣や側近たちの中に、白髪混じりの老練(ろうれん)な家臣が一歩進み出た。

彼は幾度(いくど)となく戦場を駆け、生死の境を見届けてきた歴戦の武人である。

しかし今、その厳しい眼差しには驚きと敬意が浮かんでいた。


「…桃慧様……某も何度か出産に立ち会った、だが」


言葉を区切り、老臣は深く息を吐いた。


「これほど落ち着いた出産の場は、生涯で初めて見た……。初産(ういざん)の綾様の不安を和らげ、産婆たちが慌てふためく中で全体をまとめ上げ、まるで風のない凪の海のようじゃった」


その言葉に、周囲の若い家臣たちも頷く。


桃慧は少し頬を赤らめ、困ったように微笑んだ。

「……ありがとうございます。私はただ、母子の命を守りたかっただけです」



老臣はその小柄な娘の姿を見つめ、ゆっくりと膝をつき、両手を地に突いた。


「桃慧様。その医の知と技、まことに信頼に足る。……これからも、我らが丹羽家一党、この度の活躍とこの御恩、決して忘れない感謝いたす」


玄関先で、静かに頭を垂れる老臣。他の家臣たちもそれに倣い、深く礼をした。


その光景を前に、桃慧は目を瞬かせ、ふっと優しく微笑んだ。

その日の夜道は月明りに照らされて青く、虫たちの声が天高く響き、戦国の夜とは思えぬ美しく自由な大海の様だった。


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