1.描けない景色
市街地から離れた丘の中腹に、一本の大樹がある。そこはフィモネにとって大切な場所だった。
深い皺を刻んだような幹や大きな洞に足をかけて上り、太い枝に腰を下ろすと、視界にはリュボンの王都の街並みが広がる。
その風景は、かつて優秀な魔術師を抱えた貴族が覇権を競い合い、大陸全体に「魔術の時代」と呼ばれるほどの栄華をもたらしていた頃の姿を留めていた。
ひときわ高く堅牢な構えの城を囲むようにして、円形の街路に沿って住居や商店が並ぶ家並みが何重にも輪を成している。その中に議会場や教会、アカデミーといった象徴的な建物を正三角形を結ぶように配した特徴的な街の形は、古いまじないの応用によって決められたらしい。
まじないの効果があったのか、それとも優れた魔術師を輩出してきた地として一目おかれていたお陰なのか、この王都は侵略や大きな災害などによって破壊される事が無いまま保たれてきた。今では往年の賑わいを残す一方で、百年以上も変わらない佇まいは国外では「古都」とも呼ばれているという。魔術の時代は過ぎ去った事を暗に示すかのように。
橙色の瓦屋根がつくりだすモザイク模様は快晴の陽射しに照り映えて、周囲の丘や草原の緑との間に鮮やかなコントラストを浮かび上がらせている。
祖父に教えてもらって以来、フィモネは数えきれないほどこの場所を訪れていた。とても嬉しい事があった時も、どうしようもなく悲しい時や寂しい時も。
やる事はいつも同じ。木炭の棒で、この風景を描くのだ。
幼い頃から絵が好きだったフィモネにとって、この場所から見渡せる特徴的な街並みと、その上に広がる空は、いつまでも魅力的なモチーフだった。
景色は変わらないはずなのに、いつも何かが違うように見える。単純に空の様子や光が変化するせいなのか、それとも自分の心がそう見せているのか…本当の理由は分からないままだった。だからこそフィモネは飽きる事なくここへ通い続け、夢中で手を動かした。
だけど今は、これまでとは違う。
平らな板にあてた紙には、城の外観がざっくりと描かれているだけだ。
鋭角を頂いた屋根を描いた瞬間に、迷いが手に伝わっていると気がついた。それから少しだけ木炭をカリカリと動かして、また止まって…そんな事を何度も繰り返している。
ここからの眺めは記憶に焼きついているし、見なくてもスラスラと描きあげてみせるくらいの自信があった。それなのに、今は手が別人みたいに鈍い。
理由は分かっていた。
ゆるりと風が立つ。すると銀色の細いラインが下から上へ、見慣れた景色の中をゆっくりと流れていった。同時に薬草の香りが鼻をくすぐる。
「…あ、あのう」
おそるおそる声を出しながら、フィモネは隣を向いた。
目に映ったのは、今朝までは「絶対に関わる事なんてない」と確信していた少女の顔だ。
風になびく銀色の髪の間から、大きな瞳がじいっとフィモネを見つめている。翡翠のように澄んだ緑色の中では、小さな光がキラキラと瞬いている。
まっすぐな眼差しに気圧されそうになるが、フィモネは溜め込んでいた言葉を遠慮がちに告げた。
「そ…そんなに見ないでください。私が絵を描いている所なんて、つまらないだけですから」
意外だったのか、翡翠の瞳が丸く開いた。
それから彼女…アンリ・デューディーはニッコリと目を細め、大きく首を横にふる。
「まさか、つまらないなんて!とってもステキです!」
無邪気に弾んだ、涼やかな声がかえってきた。
「へっ、ステキ…?」
今度は大きく首をたてにふる。銀色の髪が翼のように広がって、染みついている薬草の香りが濃くなった。
フィモネにとっては、それだけでも目を疑うような光景だった。アカデミーでは近寄りがたいほど神秘的な気配を漂わせていたアンリが、小さな子供みたいにコロコロと表情を変えるなんて。
「すごいなあっ…て、見とれちゃいます!今の真剣な目とか、それに手とか」
「手?」
フィモネは自分の手元に視線を落とすと、あわてて拳をにぎる。爪のすみに、今朝の絵具が残っていた事に気がついたからだった。
きょとんと首をかしげるアンリに苦笑いを向けて、ごまかすように話題を変えた。
「そ、そんな事はないと思いますけど…今日は調子が悪いし」
「ええっ!じゃあ、いつもはもっとすごいって事ですか?」
アンリが予想以上の食いつきをみせて、ぐぐっと顔を寄せてきた。瞳のキラキラがまぶしすぎて、フィモネは思わず顔をそむける。
ほめてもらうのは嬉しいけれど、その圧と距離の詰め方が想定外だ。正直、困惑の方が大きい。
どうしてこんな事に…ため息と一緒に出そうになる言葉をこらえながら、フィモネはアカデミーでの出来事をふり返った。