女王様の恋愛捜査網
王がまた外遊に出たという報せを受けた朝、王宮の庭園に響いたのは、女王イデアの長く気だるげなため息だった。
「ふう……またなのね、まったく」
色とりどりの花が咲き誇る温室にて、女王イデアはレースの日傘を傾けながら、黄金色のティーカップを持ち上げた。涼しげなミントとハーブの香りに包まれた空間。だが、そこにいる女王の視線は、退屈という名の霧に沈んでいる。
「ねえ、母上。わたくし、昨日の夜会でこんな話を聞いたの」
最初に声を上げたのは、長女のソフィア王女。二十歳になったばかりで、知性と気品を備えた才媛である。読書好きで冷静沈着、父王の政務代理として補佐を任されることも多い。
「侯爵令嬢リリアナがね、婚約者の従兄と親密すぎるらしいの。隠れて手紙まで交換してるって」
「ええっ、それはまた……」
驚きの声を上げたのは、次女のカトリーヌ王女。十八歳の彼女は感情豊かで、噂話が大好き。舞踏会でも人気の華であり、騎士団の若者たちの視線を一身に集めている。
「わたしが聞いたのは、子爵家の娘が男爵夫人の夫を誘惑しているって話ですわ」
最後にそう口にしたのは、末娘のエリザ王女。まだ十五歳だが、観察眼が鋭く、年齢の割に冷静。動物を好み、庭園で猫に餌をやる姿がよく見られる。
「――ふふ。ふたりとも、面白い話をよく拾ってくるわね」
イデアはふっと笑みを漏らすと、うっすらと微笑を浮かべたまま指を鳴らした。
「クレストを呼びなさい」
その命に、侍女が一礼して下がっていく。
数刻後、庭園に現れたのは、栗色の髪に深い紺の礼装を纏った男性。伯爵家の三男であり、王国諜報機関《影の梟》の現役エージェント――クレスト・アーデンである。
「女王陛下、ご機嫌うるわしゅう。こんな昼間にわたくしをお呼びとは、一体……」
「まあまあ、そんな堅苦しいこと言わないで。幼馴染なんだから、ね?」
イデアは意地悪く目を細めて、笑った。
「昔、あなたが“好きだ”って言ってきたこと、覚えてる?」
「……ま、まさか、あれをまだ……」
「忘れるわけないでしょう? 玉座の間で、あんなに真剣に言われたら」
「っ……あれは若気の至りというやつで……!」
クレストが額に手をやる姿を、王女たちはくすくす笑いながら見つめる。イデアは気にせず、さらりと言った。
「ねえ、クレスト。あなたの情報網と実働部隊を、ちょっとだけ、わたくしたちの“遊び”に貸してくれないかしら?」
「……と、申されますと?」
「“恋愛捜査網”よ。社交界の恋愛スキャンダルを暴いて、少しだけ正してあげましょう。もちろん、本人のためにもなるはずよ。ね?」
「“スキャンダルを暴く”ですって……。そんなの、完全に貴族社会への喧嘩では?」
「違うわよ。これは、若者たちの“更生支援”なの」
「支援の名を借りた、女王陛下の気まぐれでしょう!」
クレストの叫びをよそに、イデアは涼しげに紅茶を啜る。三人の王女も、どこか楽しげに頷いている。
「まあ、私たちはただ待っているだけですわ。結果を聞くのが、今から楽しみ♪」
カトリーヌが目を輝かせる。ソフィアは口元に扇子を当てて笑い、エリザはじっとクレストを見つめて小さく言った。
「……断ったら、面倒なことになりそうですよ」
「……っ、まったく、女王陛下の周りは、敵だらけだ……」
クレストは観念したように深く息をついた。
「わかりました。ですが、捜査網を組むにあたって、実働班が必要です。優秀な人材を何名か――」
「もちろん。選んであるわ」
イデアはぱちんと指を鳴らした。
「元軍人で、腕は確かだけど女には甘いダルビッシュ。女スパイのミレディ、情報収集なら右に出る者はいない。あと、社交界の知識とペンの力を持った記者ライア。全員に声はかけてあるわ」
「……手回しが、良すぎる……」
呆れるクレストの肩を、イデアは優雅に叩いた。
「さあ、恋愛捜査網、発足よ。最初の任務は――浮気調査。とある若い男爵が、婚約者を裏切っているらしいの。ねえ、面白いでしょう?」
クレストは、もう逃げ場がないことを悟っていた。
恋愛捜査網、発足。
クレスト・アーデンは、深い溜息と共にイデアの命を受けた。最初の依頼は、若き男爵――ギルベール・バルソンの浮気調査。
婚約者は侯爵令嬢セシリア・ヴェルニエ。家柄、容姿、教養と三拍子揃った美しい令嬢だ。だが、その婚約者であるギルベールは、社交界でもやや軽薄で知られる男で、数ヶ月前から噂が絶えなかった。
「まったく、王家の気まぐれで、こんな任務とはな……」
クレストは舌打ちしつつも、集合場所に選ばれたとある秘密の館へ向かった。そこには、既にメンバーが揃っていた。
まず、入り口の壁に寄りかかっていたのは、長身で無精髭のワイルドな男。
「クレスト、お前がリーダーかよ。まあ、お堅い役人よりは、お前の方がマシかもな」
男の名は、ダルビッシュ・クロウ。かつて王国軍の特殊部隊に所属し、今は傭兵のような暮らしをしている。女好きだが腕は確か。
その隣、静かに椅子に腰掛けているのは、黒髪を高く結い、赤いルージュが映える妖艶な美女だった。
「本当に、この王国は面白いわね。こんな遊びに私を呼ぶなんて」
ミレディ・ローレン。若き公爵夫人でありながら、諜報活動に身を投じる裏の顔を持つスパイ。普段は優雅で上品、だが鋭い目をしている。
「私は取材でこの男の評判を何度も聞いたことがありますわ。女に金のかかる男、というのが大方の評価です」
そう告げたのは、インクの匂いを纏った女性記者、ライア・フォン・グレンダ。眼鏡を掛けたインテリ美人で、新聞のゴシップ欄でも知られたライターだ。
「では、さっそく作戦会議を始めよう。目標は、ギルベール男爵の浮気現場の証拠を押さえることだ。令嬢セシリアの名誉を守るとともに、婚約破棄の材料として提出できるだけのものを掴む」
クレストが言うと、ミレディが微笑んだ。
「今夜、男爵が訪れる予定の夜会があるわ。貴族の未婚令嬢が多数出席する舞踏会。彼、ああいう場で羽目を外すのが好きなの」
「俺が潜入して、目を光らせておく。あとはお前ら、外で証拠集めでもしてくれ」
ダルビッシュが立ち上がり、礼服の上着を軽く払う。
「私は使用人に化けて内部の情報を流しておくわ。男爵がどの令嬢に近づいたか、逐一伝えてあげる」
ミレディの瞳が怪しく光る。
「じゃあ私は会場外の令嬢達の噂話をまとめて、証言を集めておきますわ。いざとなったら、新聞にすっぱ抜く用意も万端です」
ライアがノートを開きながら言うと、クレストも頷いた。
「よし、行動開始だ」
その夜――
夜会場に現れたギルベール男爵は、まるで舞踏会の王のように、女性達の輪の中を軽やかに舞っていた。絹の刺繍が施された礼装に、香水の香り。完璧な笑顔と口説き文句。
「君の瞳に、月が嫉妬しているよ」
「まあ……男爵さまったら」
その声に陶酔する少女たち。その中に、既に婚約者がいる男だという意識は薄い。
だが、クレストたちは見逃さなかった。
ミレディが報告する。
「令嬢フレア・ロッシュと、離れたバルコニーに消えたわ」
ダルビッシュが後を追い、ライアは既にフレア令嬢の過去の発言をメモしている。
クレストは即座に動いた。予め仕掛けておいた魔導印――浮気の証拠を記録する水晶が作動した。
「おお、これは……!」
ライアが声を上げる。水晶に映し出されたのは、男爵が令嬢にキスし、手を握り、そして「セシリアには黙っていてくれ」などと囁く姿だった。
「決定的ね」
ミレディがにっこりと笑った。
クレストは、報告書をまとめながらぼそりと呟く。
「……こんなに簡単でいいのか?」
翌日、王城の応接室には重苦しい空気が漂っていた。
侯爵令嬢セシリア・ヴェルニエが、静かに座していた。美しいブロンドの巻き髪を揺らしながら、真紅のドレスに身を包み、瞳には揺るぎない意志の光を宿している。
その正面にいるのは、例のギルベール・バルソン男爵。そして、証拠を手にしたクレストと、控えの位置にミレディ、ライア、ダルビッシュが並ぶ。
「……セシリア、聞いてくれ、あれは誤解なんだ。ただの社交辞令で――」
「社交辞令で口づけを?」
冷ややかに問い返すセシリアの声に、ギルベールは一瞬怯んだ。
ライアが静かに証拠水晶を起動する。映し出されるのは昨夜のバルコニーでの情景。ギルベールの手がフレア令嬢の肩を抱き、唇が近づく。決定的な瞬間だ。
「……これは捏造だ!陰謀だ!」
「証言もあるのよ。フレア令嬢本人は、あなたに“婚約者には内緒で逢いたい”と何度も誘われたと話していたわ」
ミレディが涼やかな笑みを浮かべながら、鋭い声で断罪する。
「しかも昨夜だけじゃない。別の夜会でも、あなたは複数の未婚令嬢に“セシリアとは政略結婚で愛はない”と吹聴していたそうね」
ライアがノートを読み上げると、ギルベールは青ざめた。
「ちょっと待て、俺は……俺はただ……!」
「ただ、私の名を利用し、自らの虚栄心を満たしていた、というわけね」
セシリアは静かに立ち上がった。赤いドレスの裾が優雅に揺れる。
「私はあなたに、誠実であることを望んだ。愛とは言わないまでも、敬意を持ってくれると信じていたわ」
「セシリア、君までそんなことを……っ!」
ギルベールが手を伸ばそうとした瞬間、ダルビッシュが一歩前に出る。軽く肩をすくめながらも、その眼光は獣のように鋭い。
「触れるな。破談を申し出た令嬢に未練がましく縋るのは、貴族のすることじゃねぇよ」
「……ふん。貴族の分際で傭兵風情に……!」
「元・王国軍の大尉だ。舐めると痛いぞ」
低く唸るような声に、ギルベールは言葉を失った。
セシリアはその様子を一瞥し、毅然と告げる。
「この場を借りて、婚約を破棄いたします。ギルベール・バルソン男爵、あなたとの将来は、もう必要ありません」
静かな宣言が部屋に響き渡った。
沈黙。次の瞬間、女王イデアの拍手が響いた。
「お見事、セシリア。あの男爵、前から気に入らなかったのよねぇ。地位も財産も他人頼みで、自分の足で立ってない男って、見てて分かるわ」
イデアは玉座のような椅子に腰掛け、まるで劇場の観客のように満足げに微笑んでいた。横には、3人の王女――ロゼ、ミーナ、アナスタシアも並んでいる。
「ざまぁみろ、だわ!」
ミーナがにんまりと笑い、ロゼがひらひらと扇子を振る。
「セシリア様ったら、最高にクールだわ。まさに恋愛勝者」
アナスタシアが感嘆のため息をつき、イデアはくすくすと笑った。
「クレスト、あなたの働き、ちゃんと見てたわよ。うん、これなら次もお願いできるわね」
「は? ちょ、ちょっと待ってください陛下。今回だけって話だったのでは……?」
クレストの抵抗など、イデアには通じない。優雅に立ち上がり、言い放つ。
「いいえ? これは王命ですもの。王命には逆らえないでしょう?」
「……やっぱり、そうなりますか」
クレストは深く溜息をついた。その背後で、ダルビッシュがニヤリと笑い、ミレディが「お楽しみはこれからね」と囁く。
ライアはすでに次の調査メモを取り始めている。
こうして、女王陛下の“恋愛捜査網”は、堂々たる初陣を飾ったのだった。
「それにしても爽快だったわねぇ、あのセシリア令嬢の見事な啖呵!」
午後の陽が差し込む王宮のサロン。女王イデアは、鮮やかなローズティーのカップを優雅に傾けながら、機嫌良く笑っていた。柔らかな金髪をふんわりまとめ、純白のドレスを纏った姿は、女王であると同時に、人生を愉しむ一人の女性そのものだった。
「“この男に未来はない”って、あの一言よ。あたし、鳥肌立っちゃった!」
「ふふ。言葉って、使いようによっては剣より鋭いものね」
「次もああいう華麗な展開がいいなー。恋敵を叩き伏せて婚約破棄とか、最高にスカッとするわ」
ソファに腰かけた王女三人娘――ロゼ、ミーナ、アナスタシアも、紅茶を片手に大はしゃぎだ。言いたい放題のこの空間には、いかなる重臣も入り込むことはできない。ここは、彼女たちだけの“劇場”だ。
そこへ、すっかり疲れた顔のクレストが現れる。
「陛下……王女殿下方……任務は無事完了しました。ギルベール男爵には爵位剥奪が検討されておりますし、セシリア令嬢の家門も誇りを保てました」
「ご苦労様。……で? 次の任務はいつ始まるのかしら?」
「いやいや、だから今回は“たまたま”手が空いていただけでして。僕は元々、諜報機関の実務畑の人間で――」
「クレスト、あなたの本領は“恋愛分析”よ。相手の矛盾を見抜き、心理の裏を読む。まさに適任じゃない」
「……陛下、僕は昔あなたに告白して玉砕したことを、まだこうしてネタにされるのですか……?」
「当然でしょう。あれほど美しい告白は今でも思い出すわ。『あなたの瞳は星々のように輝いていて――』」
「言わなくていいです! 二度とそのセリフを口にしないでください!」
顔を赤らめるクレストに、王女たちは拍手喝采。ミーナは涙をぬぐいながら「初恋って美しいなあ」と感動し、ロゼは「もう一度やって!」とせがむ。
アナスタシアが静かに呟く。
「でも、捜査網が続くのは悪くないわ。世の中の裏には、たくさんの嘘と欺瞞があるもの。……愛という名前で、人を縛る鎖も」
その言葉に一瞬だけ、イデアの表情が翳った。しかしすぐに微笑みへと戻る。
「そうね、私たちが暴くのは“恋の闇”。そして、少しだけ光を差すことができれば、それだけで価値があるわ」
ちょうどそのとき、控えていたライアがひとつの手紙を差し出す。
「次の案件が届きました。地方領主の令嬢からです。“不審な文通相手に心を奪われてしまいました。でも、本当に彼は貴族なのか分からない”と」
「おっ、新展開だな。文通相手の正体暴きってことか」
ダルビッシュがニヤリと笑い、肩を回す。
「……まさか、次は“筆跡鑑定”までやらされるのか……?」
「やるわよ、クレスト。あなたの恋愛探偵力、今こそ真価を発揮する時!」
イデアが立ち上がり、手をパチンと打ち鳴らす。
「さあ、女王様の恋愛捜査網――第二の事件、開幕よ!」
窓の外では、午後の陽光が燦々と輝いていた。優雅で愉快で、時に残酷な“恋の真実”を暴くため、彼らはまた、動き始める。
それは、退屈な日々に風を送る“最高の暇つぶし”。
けれどもきっと、どこかの誰かの心を、ほんの少し救う物語でもあるのだった。
好評ならシリーズ化します。
続編に期待の方は評価お願いします。