九
日の昇りきらぬ朝。
いつものように宮の庭園で玉祥と稽古を始めた。
昨日の酒が残っているのか、玉祥はだるそうにしていた。
かくいう私もあまり万全とは言えない。残務処理だの手勢の者へ渡りをつけたる為の準備をしたりだのと、遅くまで起きていたからだ。
国の王としての家臣とは別にある、私個人で契約を交わした配下の者達に、夜の内に指示は出し終えている。後は私がいくつか確証を取り、彼らが上手くやるのを待つばかりで、私達の行動が早いか、朱晋達の企みが先に完成するか、正しく時間との勝負だった。
本来ならば私自ら動くなどという危険な真似はしたくないが、人手が足りないのだから致し方がないだろう。
配下の者達よりも、王宮内部に限れば私のほうが事情に通じてもいる。契約している人員は20名ほどで皆信用に足る人物なのだが、各地に散って情報を集めたり裏工作を行っていて、緊急に渡りをつけられるのは3人しかいない現状では、王宮内部での情報収集は私が引き受ける他なかった。
そして忍び込む手はずはすでに整えてある。
手勢を手に入れてからは久しく私自ら忍び込むと言うことを行っていなかったが、孤立無援の子供時代によく使った手で、その有効性は身をもって実証済みだ。
帝国は強大で、いくつもの小国を従えている。私の国もその中の一つ。
だが、帝国に敵がないわけではない。
テグシカルバという他民族国家がそうだ。
帝国とは全く制度も思想も違うその国とは、長い事敵対している関係だった。
かの国が小さく弱い国ならば、とうに滅ぼされていただろう。力が拮抗した二国間において、どちらも引くに引けない状況となり小競り合いが続いている状態だ。
私の国には内戦時代に帝国を裏切り、テグシカルバ側に付こうとした者がいた。その者は内戦で殺され、すでにこの世にはないが、その時の証拠物品が、未だ国で保管されている。万一その裏切りの事実が帝国の知るところとなれば、私はもちろん国は終わる。
ごく一部の家臣たちしかそれを知らないが、朱晋もそれを知る一人である。そして朱晋の性格を考えれば、それを使って事を起こすのは間違いがない。
第五皇子を味方に付けてわが国の裏切りを未然に防いだと喧伝して、帝国内部に高官を得るか私に成り代わって王となるかする目論見だ。
朱晋が頼りとする第五皇子は、佑茜を毛嫌いしている。
克敏が兄としてまた国の中心にいるものとしての責任感で、佑茜と諍うのとは根本的に違う。なんとしても佑茜を排除しよう、そしてそれに成り代わろうと虎視眈々と狙っている人間だ。性懲りもなく暗殺者を送り込んでくるのは日常茶飯事だし、無駄な言いがかりをつけては佑茜を追い落とそうと、日夜無意味な努力をしている相手だ。怠惰という点では佑茜とためをはる皇子でもあが、自分が低い地位に甘んじているのは生母の地位が低いせいで、正妃の息子である佑茜が邪魔をしているのだと思い込んでいた。サボってばかりの佑茜の持っている地位などわざわざ狙わずとも、真面目に執務に当たればそれ以上の地位に着くのも簡単である筈だが、彼の周りにはそれを指摘する人間はいないようだ。
その第五皇子ならば、佑茜の周りを固めている人間(私)を排除するに都合がよいとなれば、朱晋に肩入れもするだろう。
ただ、怠惰な皇子ではあるが猜疑心が強く、何の確証も保証もなく朱晋に力を貸す事はありえない。
朱晋にとっても危険な賭けではあるが、尤も重要な裏切りの証拠物件を差し出すことで、その信を得ようとするはず。もとより国と王を裏切るのだ、後はない。そのくらいの賭けに出るのは当然というものだろう。
だが、私はそれを確認したわけではない。
おそらくは是で間違いはないと思い定め動き出しているが、なるべく早い段階でそれを確認し、万が一読みをたがえていた場合はこれからの計画を少し見直さなければならなかった。
寝不足で鈍い働きの頭を振り、玉祥に向き直る。
今日も佑茜は不参加だ。昨日の今日だから、もしかしたら参加するかも知れないと思っていたが、私の思い過ごしだったようだ。
「大丈夫か?」
体をほぐした後に軽い打ち込みをやっているが、玉祥の動きに精彩がなく、私は思わず尋ねていた。
「うん。大丈夫。それよりお願いがあるんだけど」
「なんだ?」
「無茶目な打ち込みしてくれないか?」
「それは……昨日の?」
「そう。死を覚悟して切りかかってくる相手というのがどれほど厄介か、身をもって実感したんだ。佑茜様をお守りするには、僕は今のままでは足手まといにしかならない」
真剣な顔だった。
「無理なお願いだってのは判ってる。君にとっても危険な事だし」
私達は敵を倒すというよりは退けるという護身を基本にした型を取っている。打ち込まれたときの防御はもとより、攻撃する場合でも常に反撃される事を念頭にした動き。
戦時に将として前線で戦うにしろ、自分がやられて軍を指揮出来なくなるのは問題と、攻撃よりも防御を重点的に鍛えられてきたためだ。
確かに戦場では指揮官とは目立つものでかなり集中攻撃を受けるし、普段の生活でも佑茜を狙う暗殺者と渡り合って来たが、そのおかげで今でも生きていられる。
反面、暗殺者の場合はかなりの高確率で取り逃がしてしまっているので、いろいろ問題があるのは確かではあった。
玉祥は私にその防御を捨てて打ちかかって来いといっているのだ。はっきり言えば困惑せざるを得なかった。
だが、結局私は頷いた。
「わかった」
もしかしたらこれが何らかの切欠になるかも知れないと考えたのだ。
いつもよりも幾分か緊張した面持ちで向かい合う。
「いくぞ」
私の言葉に玉祥は頷いた。
思い切って打ち込んだ。
上段に構え勢いよく振り下ろす。みえみえのその動作はあっさりと避けられてしまう。
そうなる事は判っていたから動揺はない。
振り下ろした勢いを殺さないで切り替えして右肩上がりに斬り付ける。
右わき腹に切っ先が入るかというところで、受け止められそのまま上向きに刃先を流される。
がら空きになった胴体部に袈裟懸けで玉祥の剣が振り下ろされた。
私は際どい所で体をよじってそれを避けた。
ヒヤリと冷たい汗が落ちた。
足を振り上げ不安定な体勢のまま蹴り付け、距離を取った。
玉祥は蹴りが強かに入った大腿部を軽く抑えている。
詰めていた息を吐いた。
たったこれだけの打ち合いで、ドッと汗が噴出す。
「二若、怪我はなかった?」
「大丈夫。こっちこそ悪い、本気で蹴り付けた」
玉祥は最後の攻防を言っているのだ。
運よく避けられたが、袈裟懸けに振り下ろされたあの一撃は本当に際どかった。
怪我をしなかったのは私の技量でも、玉祥の技量でもない。ただ運がよかっただけだ。次も同じようにはいかないだろう。
防御する側も、攻撃をする側も、普段より意識していないと無駄な怪我の元だ。
私達は先程よりもずっと集中させて向き合った。
それからも攻守を入れ替わりつつ、同じ様な打ち込みを行った。いつもよりギリギリの攻防が続く。
その分消耗が普段と比べ物にならず、早めに切り上げようかという雰囲気になった頃、克敏の従者がやって来た。
「おはようございます」
礼儀正しく挨拶された。
佑茜の言葉通り、朝稽古に混ざりに来たのだ。
「代英殿、おはようございます」
「おはようございます」
私達も口々に挨拶を返した。
「遅くなりまして申し訳ありませんでした」
真っ赤な顔で息も荒い。
克敏の宮から急いで走ってきたのだろうということが一目瞭然だった。寝坊してしまったのだろう。
彼も随分飲まされていたようだし、昨日の酒宴を考えれば無理もない。
「気にする事はありません。それよりも体は大丈夫ですか?」
「そういう訳にはいきません。私から稽古をお願いしたのですから、お二方より先に来ているのが筋というものです」
確かにそうなんだけど……、彼が先に来ていたらそれはそれで結構困ったような気がする。
「しかも稽古を終わろうとされているところではありませんか?」
まさしくその通り。私と玉祥は顔を見合わせた。
二人ともかなり疲れ果てていた。
代英はやっぱりと、項垂れている。
なんとなく気の毒になった。せっかく此処まで朝早く起きて練習に来てくれたのに、やっぱり帰れというのは不憫すぎる。
「私達二人で代英殿のお相手を交互に勤める。で、残った一人が見ていて気づいたところを注意する。私達もすでに消耗しているし、互いの実力を確かめるという様子見にはいいんじゃないだろうか?」
「それはいいね」
玉祥は私の提案に賛成した。彼も代英を気の毒に感じていたようだ。
代英はパッと顔を輝かせた。
「よろしくお願いします!」
代英が疲労困憊で動けなくなるまで、彼の相手を玉祥と私は交互に勤めた。昨日の立ち合いほど危なっかしくはなかったし、よほど克敏やその側近方から注意されたようでそこまで無謀な攻めはなかったから、想像していたほど代英の相手は難しくなかった。その分簡単に勝敗が付いてしまって、代英はとても悔しそうにしていた。
その代英は今、地面の上に引っくり返って荒い息をしている。休む暇もなく私と玉祥の相手を何度もしたのだから当然だ。
だが、私はその体力に舌を巻いた。
正直もっと早い段階でくたばると思ったのに、彼は想像以上に粘った。年は私よりも下だが、力も持久力も完全に彼の方が上だ。今のつたない技術がもう少し向上すれば、私では勝負にならなくなるだろう。
私がこれ以上成長することは望めない。筋肉もこれ以上増やすのは難しい。玉祥は時期が来たら背も高くなるし体だって出来てくると言うが、私にはその時期は未来永劫来る事はない。
今はまだいいが、あと1・2年もすればさすがに不信に思われ、偽りがばれてしまうだろう。
早く手を打たなければならない時期に来ていた。
私は一人唇を噛んだ。
代英を宮に送っていく事にした。
少しやりすぎだった。彼は足元がフラフラしていて、一人で帰すのは不安だったのだ。王宮内で何かあるとは思わないが、こんなぼろぼろの状態を衛兵に見咎められて、不審者として牢にぶち込まれかねないという事情もあった。たとえそうなっても克敏がすぐ牢から出してくれるだろう事は知っているが、そんな面倒な事になるくらいなら送っていった方がいいに決まっている。
ちょうどあちらの宮の方に用もあることだし、好都合だった。
埃塗れになったため着替えだけして、代英と共に克敏の宮に向かった。
早朝だが昼間よりもむしろ人通りは多い。それぞれの宮に勤める召使達が慌しげに立ち働いているからだ。
「お二人ともお強いですね。いつごろから剣を始めたのですか?」
代英の言いように苦笑した。私も玉祥も強いと称されるほどではない。
だが、代英は純粋な敬意の色を纏っていた。本心からの言葉だ。
「もう10年になりますよ。代英殿は?」
「わたしは4年です」
成程、道理で技術が拙いわけだ。
「習い始めるのが遅かったのですね。なにか理由でも?」
貴族の子供は、嗜みとして幼い頃から剣を習う事が多い。あくまでもたしなみ程度で、武官にならない限りそこまで腕を磨くというものでもなかった。剣を振り回しても無様にならない程度で、護身術の代わりにもならない場合が多い。護衛を雇ったりと身を守る術は多々あるし、貴族なら剣の道に進まなくても文官として重用されることが多いので問題にはならないのだ。
それを考えると4年前から始めたというのは随分と遅いと言える。
「克敏様のお側にお仕えしたかったからです。お側にお仕えしてお支えしたいと。ですから剣を習い始めたのですが、なかなか思うように上達しません」
克敏は将軍の一人。側に仕えるのもやはり武官が多い。文官が仕えていないわけではないが少数派ではあるし、代英の判断は正しかった。
剣を始めるのが遅かったから、あれほど遮二無二なっているのかと、私は納得していた。
足元の小石に躓き、代英はふらついた。よほど消耗しているようで、どう考えてもやりすぎだった。
私は代英の腕を掴んで支えた。
「ありがとうございます」
「いいえ。お気になさらず。焦らずとも技術はおいおい身に付いていきます。代英殿が技術を身につければ、私など足元にも及ばなくなりますよ」
「焦っているように見えますか?」
「そうですね。お話を伺った限りですと、そのように感じましたが」
「実は衢雲様にも同じ事を言われました」
これには苦笑するしかなかった。
「あの、早朝練習に混じって本当にご迷惑ではないでしょうか?」
「いいえ。とても有意義だと私も玉祥……じゃない稼祥も考えていますよ」
うっかりいつもの呼び名を出しかけてしまった。
疲れて少々注意力が散漫になっているのかもしれない。気を引き締めなければ。
「有意義ですか?」
「私や稼祥は実力が同じくらいですし、剣の型もほぼ同じ。練習内容も毎日似たり寄ったりですからね。それも意味がありますが、代英殿のように私達にない型の相手と練習していると、自分の弱点など今まで気が付かなかった事に気づけたりしてとても有意義です」
「それを聞いて安心しました」
代英は疲れた表情ながら嬉しそうに顔をほころばせた。
代英がやってくるまで、玉祥と二人で交互に打ち込みをして、強くなるための糸口を感じたのだ。今までは打ち込まれたらそれを確実に受け止めて、隙を見て攻撃するという動作ばかりだった。
だが、あれは根本から違う。
ギリギリまで引き付けてそれをかわしつつ打ち込む。考えた事もない攻撃方法だ。とても危険だが、効果絶大だ。それを身をもって感じた。そしてそれを実現させるためには、まだまだ腕が付いていっていないということもだ。
代英と玉祥の立ち合いがなければ、気が付きもしなかっただろう。
わざわざ告げはしないが、代英には感謝してもいた。
そうこう話すうちに、克敏の宮に到着した。
「送っていただいてありがとうございます」
代英の言葉に、後ろめたい思いを抱きつつもそれに答えた。
「いいえ。また明日もお越しください」
「はい。ありがとうございます!」
宮の入り口で代英と別れ、佑茜の宮に帰ると見せかけ裏に回った。目的は第五皇子の宮だ。
代英を送ってくるのは隣り合った第五皇子の宮に近づく口実だった。多少戻りが遅くなっても誰も気にしないし、克敏の宮付近にいても疑われないからだ。
宮の裏手にある木立の影で、手早く薄手の上衣を脱いだ。下に来ているのは下女達が着ているような衣装だ。正確には全く同じものではないが、似た風合いのものを身に着けている。上衣は簡単に丸めて服の合わせに入れる。形を整えて胸のような膨らみにした。後頭部で高く結っただけの髪は軽く丸めて簪でとめる。簡単な女装の出来上がりだ。
女官に化けるのは無理でも、下女ならば難しい事はない。掃除や下働きをしている下女の全てを把握している貴族などいないからだ。しかも下女達は入れ替わりも激しく、多少見慣れない者がいても気にされることはない。だからわざわざ夜中に危険を冒して忍び込む必要はどこにもない。下女に扮して宮の中に入った方がよほど目立たないし、掃除をしている振りをしていればどこにいても怪しまれる事はないからだ。特に朝などは食事の支度やら身の回りの私宅のお世話等があって、下女達自身もとても忙しくしている。そこに紛れ込むのは簡単な事だった。