七十三
船を下りてから数日が経ったある日、いつも通り野営をしていると、二若がふと顔をあげた。
厳しい顔で森の奥を睨んでいる。
「どうした」
私は同じように森へ目をやり小さな声で尋ねた。
二若はそれに答えず、無言で火の始末を始めた。
よほど拙い事態になっているらしい。
私は肘をついて身を起こした。
「何が、」
「しっ」
言葉を遮り音を立てるなと目顔で知らせる。
二若は森の一点を険しい表情で睨み据えるようにしていた。
意識は完全にそちらを向いているのに、手は荷物をまとめ撤収の準備をしていく。
荷物を何時ものように背中にくくりつけ、無言のまま身を起こしかけていた私を抱き上げた。
耳元で聞こえるか聞こえないかの声量で二若は告げる。
「追っ手だ」
耳を済ませるが不振な物音など何も聞こえなかった。
気のせいではないのかと目線で訴える。
首を横に振りそれを否定した。
「一昨日程前からおかしな気配はしていた。気のせいかと思ったが……」
「こんなところに、どうやって……」
「判らないが、確実に近づいてきている。完全に痕跡を消したつもりだったが、見落としている点があったようだ」
抜かったなと二若はごちている。
追っ手とは、どういうことだ。
私は死んだという事になっているのではなかったか。
それとも、私の追っ手ではなく、コイツ自身が何者かにおわれているのか。
川沿いを行くとはいえ、私達は道なき道をかき分けて進んでいる。その後を追おうとするならば、何か目印でもなければ不可能だ。
とすると……。
私はジットリと二若を見上げた。
「追われているのは、お前か」
ヒソヒソと可能な限り声を潜め言葉を発した。
「おい、人聞きの悪い事を、」
「私達の後を辿っているのは、恐らく犬だ」
二若の文句を遮り言うと、二若は真面目な表情で私に向き合った。
「どういう事だ」
「まだ試験的な取り組みゆえ数は限られているのだが、軍内部では追跡用の犬を飼育している。その管轄が克敏皇子だ。出張ってきているのが軍となると、私を追っているとは考えにくい。お前、軍を敵にまわすような、どんなヤバイ真似をした」
たかが属国の王一人が行方不明だからと、軍が出張ってまで捜索などしない。たとえしたとしても、あの狩場を探す程度だ。こんな山中にまで足を伸ばしているはずがなかった。
私に心当たりがないとなれば、おのずと二若が原因と考えられる。
答えろときつく見据えていると二若は視線を逸らしたが、二若は口を閉ざして私の言葉に答えようとしなかった。
「……」
どうやら何があっても言いたくないらしい。
頑なな雰囲気から、私はそれを察した。
仕方がないと話題を変えるべく口を開いた。今ここで問い詰めるのは得策ではない。最も優先されるのはここをどう切り抜けるかだ。
「私達の匂いを辿ってきているとなると、どうやって撒くかだな」
より強いにおいを発生させて犬の鼻をかく乱するか?
一時はそれで誤魔化せるやもしれないが、その後、体や衣装に付いたその強烈な匂いを目印にされる恐れもある。
手間と時間は掛かるが、一所を拠点に複数の匂いの筋を作り、どれが本物の道か判らなくするのがいいか。
犬の通れないような木の枝を伝い、撒くのがいいだろうか。
今の私の体力と残された猶予なども考慮せねばならない。
さて、どうするのが得策か。
そうやって考え込んでいると、二若は横を流れる川へと足を向けた。
「きついかもしれないが、少し我慢しろ」
意図を察し、身を強張らせた。
確かに川へ入ってしまえば、つまり水の中を通れば匂いは辿れなくなるうえに、難しい手間隙などかける必要もない。一番手っ取り早い方法といえるだろう。
だが、私は泳げないのだ。
その上、意識はハッキリしているとはいえ、毒の所為で未だ身体はあまり動かない。川に入るなど自殺行為だった。
おののく私を尻目に、二若は躊躇なく川に足を踏み入れた。ザブザブと小さな水音を立てて川の中に入っていく。
二若が進むにつれて水面はどんどんと上がり、とうとう胸の高さまできてしまった。
二若は私を抱えていた体勢から、背負うような形へと体勢を変えた。
「首に腕を回して。そう、つかまっているんだ」
紐で胴体部分を縛って繋ぐ。
川岸を振り返りそして水の中へと潜った。
とっさに息を止めるがすぐに苦しくなってしまう。
冷たい水に力が入らず、しがみ付いている腕が離れてしまいそうだった。
離れかけた私の手を二若が押さえる。
腰元でつながれた紐と、その手だけが私の命綱だった。
身体は水に流され、どちらが上でどちらが下なのかもわからない。
人の手に自分の命運を託すというのは、存外に気分の良くないものだ。
二若を信じていないわけではない。
むしろ奴以上に私を思って行動している馬鹿はいないだろうと確信できるほど、信じている。
だが、それと全てをゆだねられる事は違う。
私と二若のように長い間離れて暮らしてきて、互いの実力を知らない間柄だと特にそうだ。
二若が私の知識や技術を知らないように、二若の技能や実力を知らない。当然、二若が川の中へ足手まといをつれて入っていって、無事わたりきることが出来るかどうかなんて、私に判断できようはずもない。
不安が心を占めた。
それに二若は私の為になると思えば、私と三姫の為になると思えば、私達の大切にしているものに手をかける事を厭わない。二若にとっては私達の意思や希望は、それ程重要な事ではないのだ。
むしろ私達自身の意思が自分を不幸へと追いやっていると、そう考えている節がある。私達の政に対する姿勢への言動から、そういった思惑が透けて見えた。
王として、王族としての、私達の譲れない理念も何もかも、二若にとっては邪魔物でしかないのだ。
私達へ危害を加えることはない。だが、その信念の違いの所為で、私は二若を信じ切る事が出来なかった。