七十二
背負われたまま運ばれるというのは、存外疲れるものだった。
同じ体勢でしがみ付いていなければならず、体の各所が強張っていた。
それ以上に、人を一人背負って歩き続けていた二若の負担は、更に大きなものであっただろう。だが疲労の色など見せずに、二若は涼しい顔をしている。
日が沈むと、二若は少し開けた場所で足を止め、そこで火を熾し野営の準備を始めた。持参していた厚めの布を地面にひき、その上に私を横たえ、手際よく準備していく。
私はそんな二若をただ見ていた。
川から酌んだ水で持参してきた小麦粉を練り、それを木の枝に巻きつけ火で炙る。
暫くすると香ばしい香りが漂いだした。
火に当たる位置や角度を変えて、二若はその小麦粉を練ったものを満遍なく炙っていく。
「こんなものかな」
ほんのり焦げ目の付いたそれを私に差し出した。
「いい香りだな」
「食べた事あるか?」
「初めてだ」
「庶民の旅には欠かせない代物だ。ちょっと味気ないが我慢しろよ」
「行軍で粗食には慣れている」
「行軍って……味は二の次で、重要なのは量と栄養だけって代物のことだろ? それは粗食じゃなくて、ただの不味い飯だ。アレは別に粗食じゃねえし」
「そうなのか?」
「ま、あれが平気なら、これぐらいは大丈夫だろ」
そういうものかと聞き流し、私はそれに齧り付いた。
「なかなか美味いな。香ばしくサクサクした歯応えが良い」
半分ほど食べ、残りは二若に渡した。それ以上は食べられなかったのだ。
船でも船に乗る前でも、体調不良であまり食べられなかったから、私が残した事を二若は驚いていない。
食べ終えた後は、二若が持参した薬草などで薬を調合する。
出来たての臭い丸薬を手渡され、吐きそうになりながらそれを飲み下した。早くもとの調子を取り戻したいから拒否はしないが、二若の作る薬は心底不味かった。
薬を飲み込むのに精神力を使い果たし、敷物の上でぐったりとしていた。
しばしの沈黙の後に、二若は躊躇いがちに口を開いた。
「なあ」
声をかけてきただけで二若は先を続けようとせず、目で先を促すとようやく話を切り出した。
よほど言い難い事らしい。
……一体なんだ?
「一姫は夫婦の営みについて、どの程度の知識があるんだ?」
二若の問いに心持驚いた。
「子作りについて知識があるかという事か」
そう聞き返せば二若は目に見えて怯んだ。
「お、おう」
「馬鹿にするな。私とて夜の営みぐらい知っている」
「具体的には?」
「一つの褥で肌を合わせて寝るのだろう」
「まあ……そうだな。間違ってないが、もっとこう具体的に」
「睦みあいの事を聞きたいのか」
「そう。その睦みあい……って、んな言葉をよく知っていたな」
「宮殿では、時にとんでもない場所で睦みあっている輩が居る。私が知らない方がおかしい」
「じゃあ、そういう行為は知っているんだな?」
「当然だ。素肌をあらわにして互いになであうのだろう」
「……え?」
二若は唖然と言った表情となった。
「子作りの方法を知っているんだよな? 胡風に教わったんだよな?」
胡風という二若の口にした名に、胸がわずかに痛んだ。
彼女は私達三つ子の乳母であり、私と共に帝都へ来てくれた人物の内の一人だった。私に女子として全ての教育を施したのは、胡風であるといっても良いだろう。
「胡風は十歳の時に私を庇って死んだ。そういった教育は受けていない」
「じゃあ、閨中図画とか見たとかか?」
「閨中図画とは何だ?」
「お嬢様方の性教育用教本だ」
私は流石に呆れてしまった。
「あのな、私がそんなものを持っていたら可笑しいだろう?」
私は”男”なのに、”女”の読む教本など手に入れていたら、疑いを招くだけだ。
「普通は男同士で卑猥な会話になるものだが、そういった経験は?」
「ない。若飛皇子の前で、否、稼祥の前でそういった卑猥な会話をしてはならないという暗黙の掟がある。命が惜しいと誰一人として、そういった話題は出さないな」
成程なと、二若は大きく頷いた。
「つまり、全然知らないって事だな」
「……疎い方だろう」
私は渋々と頷いた。
これはかなり根の深い問題だった。
昔、僅かに目を放した隙に、佑茜が宮を抜け出し城下の街に出てしまった。それを追って私と玉祥もまた宮を抜けた。
あと少しで追いつくという時に、私と玉祥は変質者に遭遇してしまったのだ。身形の良い子供が余り治安のよろしくない場所をウロウロしていれば、人攫いやそういった良からぬ輩に行き当たるのは、ある意味当然の結末といえよう。
子供二人の抵抗など大したものではなく、玉祥は私だけでもと必死になって逃がしてくれた。だがその結果、玉祥は変質者に捕らわれの身となってしまった。
一人逃げおおせた私は必死になって佑茜を探し出し、玉祥を助けてくれと泣いて縋った。
佑茜を連れて急いで玉祥の元へ戻ると、玉祥は男に手篭めにされかけていた。
それを目にした時の佑茜の怒りは凄まじいものだった。
激怒した佑茜はその男を半死半生になるまで痛めつけ、私と玉祥は怒り狂う佑茜を震えながらただ見ているしかなかった。
私達を襲おうとしたその男の行く末がどうなったのか、私は未だに聞けずにいる。その位深く激しい怒りだったのだ。
今思い返すと、武術訓練が厳しくそして防御が主体となった内容となったのは、その時からではなかっただろうか。
以来、玉祥の前で、つまり佑茜や私の前で性的な話題に触れるものは居ない。佑茜の逆鱗に触れかねないと知っているためだ。
佑茜のそれはもう徹底していて、庭園の片隅や空いている室で不埒な行動をしていると見るやいなや、即座に乱入して宮廷からたたき出してしまう勢いだった。
玉祥が嫌な気分になる前に、その危険を徹底的に排除して回っているのだ。
しかしながら、それは玉祥のいない場所での事で、私はそれに巻き込まれ何度それを目撃する羽目になったことか。
「あのな、若飛皇子は庭園などで睦みあっている男女を見かければ、即座に乱入してそのような不届き者は宮殿から叩き出す程だ。側にいる私が疎くなっても不思議ではないだろう」
「へえ……」
「お陰で側にいる私も睦みあっていた男女の、あられもない姿を何度も目撃する羽目になった事か」
「あられもない姿で済んでいるのか……。不思議なんだが、それでどうして睦みあうなんて言葉を知ってるんだ」
「どこでもいいだろう」
「凄く気になる」
私はため息を付いた。
「若飛皇子以外の宮へ侵入したことが何度かある。その際に、下働き達が口にしていた」
「それを耳にして覚えたと……道理で偏って……」
ブツブツと二若は零し、最後の方はよく聞き取れなかった。