六十八
バタバタと足音が入り乱れ、甲板の上が俄かに騒がしくなった。
一定の間隔でゆれていた船は、不規則な動きをしている。
岸に着いたという感じではなく、船に直接横付けしようとしているのだろう。
相手の船の起こす波によって、このように不規則にゆれているのではないだろうか。
二若の言っていた臨検がとうとう始まったようだ。
その二若は変装を終えると、作業へと戻ってしまっていたため、この場には私一人しか居ない。
胸の奥がざわついているような感覚だ。
これが犯罪者の気持ちというものだろうか。
私がこの臨検の捜査対象である可能性は捨てきれない。
犯罪など犯してはおらず、やましい事など何もないと胸を張って言えるが、見つかってはならない後ろ暗い理由はある。
戦場とはまた違った、冷たい緊張感があった。
数多の命に対する責任とその重圧にはくらぶべくもないが、自分の命がかかっているという点は共通している。
心の弱い者にはこの緊張感は耐え難いものであろう。
兵や警備の者を前にして、行動がおかしな物となる者が出るというのも頷ける。
だからこそ部下達はそういう不審者を見出す事に力点を置いていたのだと、私は身をもって理解した。
一生知りえるはずのない感情であったが、これも良い経験だろう。心中複雑な思いはあるが……。
だが一つ新たに判った事がある。
この緊張感の中、平然としていられる者はどうしようもない部類という事だ。
そういった者は手強いと、実感としても知識としても知っていたが、その理由がわかった。
平然としている者は、そうでない者に比べ確信であり、常習犯である可能性が高い。
緊張感を覚えない程、それに慣れ切ってしまう程繰り返して感覚が麻痺しているか、もしくはそもそも犯罪という意識がないかと考えられる。
これはどうしようもないと断じても良いはずだ。
そして表向きは平然を装える者も、それだけ心が強くまた覚悟を決めているということでもあり、手強くて当然というものだ。
課すべき刑の重さも、その辺りを考慮せねばなるまい。
国に戻ったら、その辺りの方を一度見直してみるか。
退屈にあかせてつらつらとそんな事を考えていた。
船の揺れは一度収まり、甲板をも静まり返っていた。
その状態がしばし続き、今度は軍靴の様な重い幾つもの足音と共に、再び船が大きく揺れた。
横付けされた船から乗り移ってきたのだろう。
さてどうなる事かと、船倉に横たわったまま他人事にように考えた。
そこへ二若が戻ってきた。
「双葉、全員甲板に集合するよう命令が出た」
私は頷き身を起こした。
こういった臨検では当然の対応だ。
相変わらず祁輿の者達はやる事が確実だ。
停船・横付け・乗り込みと、実に手際が良い。
久しぶりに体を起こすと、それだけで眩暈がした。
なるべく動かずにそれをやり過ごす。
「無理はするな」
二若のその声は心配げなものだった。
「大丈夫です。……行きましょう」
眩暈が治まりそう私は答えた。
立ちあがろうとした私を制し、二若は私を抱え上げた。
幼い頃は別として、そのような扱いを受けたのは初めてだ。
怪我をしたりして背負われた事は数知れないが、貴族のお嬢様のように抱え上げられるなどという事は全くなかった。
不安定なその体勢に、私は反射的に二若へしがみ付いた。
「そう。しっかり掴まっていろ」
ニヤ付いて二若は言う。
そのまま船倉を出て行った。
「自分で歩けます。降ろして下さりませ」
女言葉はやんわりとしか主張できず、もどかしい。
普段ならば降ろせと高圧的に命じれば事足りるのだ。
「病弱なお嬢様なんだから、当たり前のような顔をしていろよ」
悔しさに歯噛みする私に向け、二若はそういった。
もっともすぎて反論できなかった。
甲板に出ると明るさに目が眩んだ。
「……これで全員か」
「はい。お疑いなら船内を確認してください」
船長と誰かがそう会話をするのが聞こえた。
「いや……。そっちの女は随分具合が悪そうだが、病気か?」
「そうです。心の臓の病だとかで、高名なお医者先生に診て貰おうと兄妹で旅をしてるんです。人に移る病ではありませんよ」
船長の弁明じみたその説明に、他の船員や乗客らからもそうだそうだと同意の声が上がった。
「お前の演技は随分上手くいっているようだな」
小声で二若は私にささやいた。
それは随分と楽しげな声音で、わたしはコッソリと二若を抓り上げた。
私とて好きで女の振りをしているわけではないのだ。
そんな私達の方へ、カツカツと足音が近づいてくる。
腹立たしさを抓る事だけで収め、私は目を瞬かせた。
強い日差しに真っ白に染め上げられていた視界は、徐々に形を取り始めていた。
ようやくこの日差しに目が慣れてきたようだ。
足音のする方へと顔を向けた。
すると思いがけないほど近くにその姿を認め、反射的に体をのけぞらせた。
すかさず二若が体勢を崩した私を支える。
「驚かせたか。済まない」
「いいえ。こちらこそ。妹はこの通り病弱でずっと家に篭りきりで、あまり人に慣れていないものですから」
二若はシレッとそんな弁解を述べている。
私もその通りだと頷いた。
節目がちだった目を上げて、相手の顔を真っ直ぐ見つめ……。
控えめな微笑を浮かべた。
内心ではそんな暢気に微笑んでいられるような状態ではなかった。
その相手は、かつて佑茜配下で働いていた、元部下の一人だった。