六十六
天井から幾人もの人間が行き来している足音がしていた。
賑やかな声も一緒になって運ばれてくる。
雑談をしている声、ふざけ合っている声、それらを叱咤する別の声。
てんでバラバラな動きだが、キビキビとした軍隊の動きとはまるで違うそれなのに、つつがなく川を遡っていっているのが不思議だった。
輸送船が運ぶ物品は知っている。
その数量や金額など、利益に関することはかなり詳しいだろう。
彼らの運ぶ物品の及ぼす影響や、その品の流れていく先について、おそらくはこの船の人間の誰よりも詳しいはずだ。
だが、私は彼らの暮らしを知らなかった。
こんなに活気があり、自由な空気が流れている物だとは知らなかった。
二若が世間知らずだと評するわけだと、妙なところで納得してしまった。
こういった世界の中で、二若は暮らしてきたのだなと私はそんな事を思った。
「気分はどうだ?」
二若が様子を見に戻ってきた。
「臭い。これでは休めん」
「仕方ないさ。二・三日の辛抱だ。……それよりも、何かあったか?」
「何かとは何だ」
「何か悩んでいるように見える」
「大したことではない」
私はそう言ったが、二若はジッと話し出すのを待っていた。
「民の世界と、私の暮らしてきた世界はあまりに違う。お前がどの面下げて私の代わりをしていたのかと思ったまでだ」
「なんだ。そんな事か。お前の衣装を着て宮殿に紛れ込めば、誰も疑わなかったぜ」
「本当か?」
「……まあな。だが流石にお前の衣装はきつかった」
その言葉にムッと眉をしかめた。
「当たり前だ。私はお前と違って女だぞ」
「女の癖に無茶をし過ぎだってこと」
「それをお前が言うのか?」
当て擦りのように言えば、心外だといわんばかりに眉を跳ね上げた。
「当然だろう?」
そう、当然だ。
私はすぐその意味に思い至り苦く思う。
二若は、祖国が嫌いだ。
私を身代わりに帝国に差し出した、家臣達を含め祖国を恨んでいる。
あの時はまだ二若を死なせる訳にはいかなかった。
だから私は死ぬかもしれないと知って、帝国へと旅立ったのだ。
例え私が命を落としたとしても、二若さえいれば祖国を存続させることは出来る。
二若の本当の身分はなくなろうとも、父の隠し子がいたとでも言えば周りは納得する筈だった。
否、納得させる筈だった。
父が死んだばかりの頃、時の皇帝は暴力の限りを尽くしていた。
気に入らないと言って官吏の首をはね、献上品がつまらなかったと言っては出入りの商人をその家毎潰し、数多の貴族や民が次々と殺されていった。
その皇帝より人質として若君を寄越せといわれた家臣達は、万が一の場合を考えてその身代わりとして私を差し出したのだ。
二若は最後までそれに反対して自分を連れて行けと抵抗していた。
だけどその願いは聞き入れられず、祖国に失望した二若は幼い身の上でありながら国を飛び出し、行方をくらました。
帝国に着いて慣れない男子としての生活をしていた私は、その報せに驚き倒れそうになったものだ。
以来十年。
二若からは一切の音沙汰もなく、生きているのか死んでいるのかも判らない状態だった。
前皇帝が亡くなられた時も、現皇帝が位に就き帝国内が落ち着きを取り戻してきても、二若は戻っては来なかった。
生きていてくれていると信じてはいたが、二若に王としての責務を負わせるということは、既に考えていなかった。
自由に生きてくれれば、私や妹の三姫では考える事も出来ない自由を生きてくれれば、それで良いと思ったのだ。
だから私は、二若としての私と、王女としての私の両方を闇に葬ろうと考えていたのだ。
祖国はいずれ国としての形を失うだろう。正当な後継者がいないのだから仕方のないことだ。
帝国に呑まれるのか、近隣国に呑まれるのか、それは判らないが緩やかな王朝の死が待っていた。
私と三姫は、それで良いのだと、穏やかなその終焉を既に受け入れていた。そして混乱など起きないように、その為の準備もほぼ終えた。後は”二若”という王を葬り去るだけだった。
いつかは無理が来るこの身代わりを続けていたのは、いずれ来る終りを演出するために他なかった。
跡取りの王を公的に殺す、ただそのためだけに機会を待っていただけだ。
私自身を本当に殺す予定ではなかったが、あの予知を見てそれでも良いと、自分自身を諦めたのは私だ。
だから行方をくらまし続けていた弟を詰るのは筋が違う。
二若は私達がそうやって、国の為に生きる事を良しとしていないのだから、言い掛かりでしかないのだ。
「……悪い。言い過ぎた。一姫だって好きで無茶をしていたわけじゃないってのは知ってる」
「構わない。お前の言う事は事実でしかないからな」
「だから! 何でお前はそう……」
もどかしげな複雑な色を二若は纏った。
「仕方がなかろう。それが私の性分だ」
私の言葉に二若は大きなため息をついた。
「知ってる。……それよりも、口調が戻ってるぞ」
「あ……。ごめんなさい。気をつけますわ」
口元に手を当てて、おっとり笑顔を浮かべ答えた。
二若は額に手を当て天を仰いだ。
「ぜひそうしてくれ」