六十一
揺ら揺らとした中、目を覚ますと誰かに背負われていた。
短い頭髪から洞窟であった男とは違う別の人間だと判る。
洞窟であった人間の言っていたイチと言う奴だろうか。
「目が覚めたのか? 一姫」
私を正確な名前で呼ぶ。
まさか、と息を飲んだ。
『二若か』
舌が張り付きそれは声にならなかった。
毒の影響が抜けきれていなかったのだ。
身体には酷い悪寒があり、未だ熱も高い。
意識は朦朧として、すぐにでも再び眠りに落ちていきそうだった。
「ああ」
声にならなかったその問いに、私を背負う男はこたえた。
何故、今頃現れる。お前は何がしたい?
私は困惑しながら思った。
本物の二若ならば、この疑問は余すとこなく伝わったはずだが、答えなかった。
「身体が辛いことは判ってるが、しばらく辛抱してくれ」
とだけ言った。
それきり黙りこみ、黙々と森の中を進んでいく。
辺りは薄暗く、夜明け前の時間のようだった。東の空がうっすらと明るくなり始めている。
そうやって背負われたままかなりの距離を移動した。私には自分がどのあたりにいるのか、見当もつかない。宮殿近辺の地理に疎くなどはないが、ただの森の中では風景はあまりにも似通り、それがどの森なのか判断できるはずがなかった。
背負われたままずっと揺られ続け、気分はどんどん悪くなっていき、地面の上に降ろされた時は半ば以上意識が飛んでいた。
私に一言二言言葉をかけ、二若立ち去っていくのだが、彼が何を言ったのか聞き取ることは出来なかった。
一人その場に取り残され、地面の上に横たわったままどれほど経っただろうか。
どうにか状況が把握できるほど回復した頃には、夜明け前の薄明かりで照らされていた世界が、まぶしい光に覆われその全貌をはっきりと見せていた。
木々が作る影の角度から日が昇ってからかなりの時が経っている事がわかる。
直に太陽は中天にさしかかろうとするころだろう。
サワサワと水音もして近くに川があることも知った。
ぐるりと目だけを動かして周りを眺める。
片側は森で、その反対側は切り立った崖だ。
崖側に顔を向けた。
私から少しはなれると大小の石が転がっている。
サワサワとその先から水音も聞こえてくる事から、川を挟んだ向こう側に崖があるのだろうと判断した。
”崖”
私はヒヤリとした。
あれからどれくらい時間が経った。
皇帝主催の狩猟会は、何時行われる。
脳裏に浮かんだ一つの答え。
崖の上が賑やかになってきた。
人がいるのだ。
ハッハッハと細かな息をつきながら、腕の力だけで無理を押して上体を持ち上げる。
頭上は木々に覆われ、今私のいる場所からは、崖の上を仰ぎ見る事はできない。
私が横たわっていたのは、柔らかな下生えのある場所だ。
腹ばいのまま崖に向かい這って進んだ。
極僅かに移動するだけで、ひどく息が切れる。冷や汗なのか脂汗なのかよく判らない汗が噴出してくる。
どうにか木々の切れ間から頭上を仰ぎ見れる場所に来て、私は息を飲んだ。
崖の上に人が立っていた。
私の服を着て、私と同じ顔をした、人間。
逃げろ、と声を上げるが、擦れた音となって殆ど言葉にならなかった。
”あれ”は、私だと思ったのだ。
以前見た光景が思い出された。
”私”の背後へ朱晋が駆け寄り、不意をついて切りかかる。
二度三度と切り結び、”私”は崖下へ落ちていく。
そんな事になるために、私はお前の身代わりを務めていたのではない。
だからどうか。逃げてくれと、全身全霊で願った。
こちらを見下ろしていた二若は、ハッとして後ろを振り返る。
暫しその姿が消え、再び私の視界の中に現れた。
ジリジリと崖へと追い詰められていく。
そして私の見ている目の前で、足を踏み外したのか崖下へと転落した。
視界を遮る木々のせいで、どうやって落ちたのか最後まで確認できなかった。
あれほど高い切り立った崖から落ちて、無事でいるはずがない。
嗚呼、と声なく嘆いた。
久しく流した事のなかった涙があふれてくる。
無理をして動いた上に今の出来事で体から力が抜けていった。
指一本動かせそうになかった。