二十二
馬車に揺られながらペラリペラリと紙を繰って中身を精査していく。
出発前に都督から渡された書類だ。
「随分と綺麗な帳簿ですね」
凛翔は表情を消していた。
従者が写し取った修正前の資料と都督から渡された修正後の資料が両方とも握られている。
私は既に中身には目を通してある。
何を思ったのか手に取るように判る気がした。
都督から渡された資料と、昨日入手した資料は驚くほど違う。
準備された資料を初めから目にしていれば、帳簿に関しては問題ないと勘違いしてしまったかもしれないほど、都督の資料は良くできていた。
よくぞ一晩でこれだけの物を仕上げたものだ。
これだけ違うものが出てきていれば、それだけである程度は問題が判ろうものだった。
見事なものだった。
不正な増税、申告のない夫役、その他諸々。
この帳簿内に顕れていない問題、例えば賄賂だの談合だのはわからないが、本腰入れて取り組まなければならないのは事実だ。
本来ならある程度以上の不正や利権構造などの調査を行ってから視察に来るもの。
こんな風に何も調べずに来たのは初めてだ。
視察ですべての問題を裁可する事は不可能だ。
たとえ都督1人罷免したところで何の問題解決にもならない。
庁舎内の力関係が崩れて現状が悪化する可能性も高い。
可能な限りの問題の把握と事後の対策、それぐらいが関の山だろうか。
こんな好条件(皇帝の子息が同行している)というのに、まともな対処が殆ど出来ないだろうことがひどくもどかしい。
私にもっと実務能力があればと悔やまれてならなかった。
この視察を元に監査や恐らくは頂点の人間が挿げ替わる。
その新たな人材が、どこまできちんと解決させられるか、大いに不安だ。
下手をすればその人材が取り込まれて、問題をより大きくしかねない。
人は誘惑に弱い生き物だから。
何度もそういった事例を見ていれば人間不信にだってなる。
だけど時折ひどく清廉な人物がいて、また人を信じてみたいと思ったりもする。
小さくため息をついて拘泥を振り払った。
「ご不快ですか?」
表情のない凛翔に声をかけた。
人の良い笑顔を消し、無表情を貫いていると、どこと無く佑茜に似ている。
やはり兄弟なのだと妙なところで感心した。
「そうですね。あまり好ましいとはいえません」
凛翔は頷く。
チラリと後悔か罪悪感のこもった色が浮かぶ。
「先日はお1人だけにいやな役をさせてしまい申し訳ありません。本来ならば私が気づきなすべき事ですが」
強引に報告書を出させてそれを写させた件だろう。
あれだけ強引に出れば都督どころかその配下の官吏達すべてから悪感情を持たれたはずだ。
そして都督の反対勢力には余計な警戒心を植えつけた。
だがそれでいい。
私は今現在は凛翔の補佐であって、代表としてここに居るわけではないのだ。
代表が私ならばもう少し手段を考えたが、今回はこれで良いのだ。
むしろあえて私に対して悪感情を集中させるという意味ではこれ以上ないほどの大成功だ。
凛翔に対する印象は悪くなっていないはず。
部下(私)の手綱さえ満足に握れない皇子だと侮らせる事にも成功したはず。
取り込みは容易になるだろう。
実際はこうしてちょっとヒントを出すだけで、それなり以上に察する事のできる優秀な皇子であるという事は伝わっていない。
そんな素振りは見せなかった。
「お気になさらず」
「ですが」
「これが私に求められる役割だと考えています」
「……それでいけば、私の役割は間抜け皇子といったところでしょうか?」
凛翔に皮肉気な笑みが浮かんだ。
これだから頭のいい人間は扱いにくい。
「判っておられるのですか?ご自身を危険に追い込んでいるのだという事を」
都督からは目障りに思われ、場合によっては消される。
それを指しての言葉だ。
「存じ上げております」
「あなたがそのような危険を冒す必要は無いはずです。もとよりこの任務は私が陛下より賜ったものなのですから」
「必要ならあります。この地に生きる多くの民のためです」
私は断言した。
「私は関わったからには全力で取り組みます。時間も限られている上に、問題も山積みです。それらの何もかも良くする事は出来ません。ですが今よりもほんの少しでもましな状況になって欲しい。私はそのために官吏になったのであり、それが私が生きる事の意味です」
それ以外に何も持たない。
名も地位も何もかも私の握っているものは本来は弟のもの。
そして私の本来持っているはずの物は、すべて人に渡してしまった。
この矜持だけは誰にも譲る事は出来ないのだ。
そのためならば例え皇子殿下であろうと、皇帝陛下であろうと、誰にも邪魔はさせない。
「判りました。ですが、今後このような真似は控えてください。経験の浅い私は色々気が付かぬ点もある。それでもこの一行の責任者は私です。貴方を無事若飛兄上にお返しする義務もあります。何か考えがあるのであれば、私に必ず報告し、その上で行動してください。宜しいですね?」
「善処します」
是とは言えなかった。
互いに無言で睨みあう。
先に根負けしたのは凛翔だった。
「若飛兄上のお気持ちがわかった」
苦笑気味にいう。
いきなりの話の変化に私は戸惑った。
「貴方は見かけ以上にとても強情だ。これ程危なっかしく感じる人間は滅多に居りません」
危なっかしいとの評にかなり意外な念を抱いた。
その様に言われたのは生まれて初めてだ。
「真面目で誠実。官吏としては理想的な資質です。それゆえに敵を多く作ってしまう。それでは周りの人間は気の休まる暇は無いでしょう。若飛兄上が可能な限り任務を拒否されるのは、貴方の為なのかもしれませんね。若飛兄上が多く任を抱えていては、側近の貴方は必要以上に我武者羅に働いてしまう。民のために、部下のために、国の為に。そうやって無理を押していずれは身体を壊してしまうのが目に見えるようです」
確かに玉祥からは無理をするなと口癖のように言われる。
それは凛翔と同じ様に感じていたからなのだろうか。
だが、と思い直す。
凛翔は佑茜をある意味買いかぶりすぎだ。
あのクソボケは仕事よりも自分の興味あることをしたいだけだ。
そんな深遠な気遣いなどあるはずは無い。
そうでなければわざわざ人の仕事を増やすような厄介ごとを次から次へと作り出すものか。
そこだけは、どうあっても頷けなかった。