十一
駆け出した私の背に向かって男は怒鳴った。
「その女を捕らえよ!」
一瞬だけ、男を完璧に伸してから逃げ出せばよかったかと言う考えがよぎるが、だが武器を手にしていたわけでもなく、人を呼ばれる前に無力化する事は現実的ではないと思い直した。
私はわざわざ建物の中を回って行くことはせずに、中庭を横断していった。このまま裏手に抜けて脱出するつもりだった。
中庭を掃除中だった庭師らが何事かと、ワラワラと集まってくる。
そしてその背後から、宮の警備の人間も駆けて来ようとしていた。
掃除道具をぶちまけたり、男の金切り声に人が集まらない方がおかしい。
「あんた、一体何事だ?」
庭師は困惑して尋ねてきたが、問答無用で殴り倒した。
「うっ」
強かに殴りつけた鳩尾を押さえて庭師はうずくまる。私は彼の手にしていた竹箒を奪った。
その間に私の周りには半径10メートル程の円を描いて人垣が出来ていた。走り寄って来ていた庭師や召使達は私が道具を奪うのをみて、それだけで気後れしたように私と距離をとってしまう。だが警備の者達はますます目を吊り上げた。
私は彼らの様子を冷静に観察した。
奴らのまとう色は警戒と……侮りだ。だれも女に対して本気で向かってきている様子はない。
それを見て取った私は、あえて一番人間の密集しているところに突入した。そこは警備の人間もいるが、同じくらい素人の庭師や召使もいる。私が彼らの間に乱入した事によって、軽く混乱が発生した。特に庭師や召使達は、人間の集中している自分達の方にわざわざ逃げ込んでくる事は無いと安心しきっていた為に、そのうろたえ方はかなりのものだった。
うろたえ混乱した彼らの中にあって、警備の人間はとても動きにくそうにしている。当然それを狙っていた私は手にした竹箒を振り回しつつ、庭師や召使を盾に警備の者達の手をかいくぐり、時には逃げ惑う庭師や召使を警備の者たちの方へ突き飛ばしたりと、あくどい手段さえ用いて人垣をすり抜けた。
人垣を抜けると、こちらにあわてて駆けつけてくる姿はいくつか見えるが、かなり疎らといってよかった。
その事に油断してしまったのか、すり抜けたばかりの人垣から追いかけてきた者に背後から衣服を掴まれ、後ろ向きに転倒しかけた。
あわてて足を踏ん張り転倒はこらえた。
「大人しくしろ!」
振り返るまでもなく、衣服を捕まえた者だ。
「よくやった!」
「そのまま押さえてろ!」
側にいた警備の者達が口々に言い、加勢すべく動いていた。
私は手にしていた竹箒を柄のほうを後ろにして、背後に向かって勢いよく突き出した。
「ぐほっ」
狙い通り竹箒は男の腹部に突き刺さる。掴んでいた手を離し、前屈みになったところを渾身の力で蹴り飛ばして、駆け寄ってくる男達に叩き付けた。それに数人が巻き込まれてもんどりうって倒れる。
その隙に今度こそ囲みを脱出した。
囲みを抜けたものの、依然として危機を脱したわけではなかった。裏手の竹林に向かってひた走る。
後ろから追っ手は来るし、バラバラと遅れて駆けつけてきた者たちに遭遇したりと、一筋縄ではいかない。
例え私の腕があまりよくなくても、本格的な訓練と日ごろの努力の成果によって、1対1ならばその警備の者達のあいては難しくはなかった。逆に言えば、彼らはその程度の腕前であったという事だ。
これが克敏やその側近方だったらこんなにすんなり逃げ出せなかった。いや、彼らではなくともこの警備の者達が克敏の宮の警備の者達と同程度の錬度であったら、囲みを脱出する事は不可能だっただろう。
心底冷や汗ものだった。
取り押さえられる事無く裏手の竹林にたどり着いたは良いが、追っ手をまくには至らなかった。竹林に入って姿は一旦見えなくなったものの、追っ手の気配はしつこいほどに付いて来る。彼らもまたこの竹林の向こうにある、下働きの詰め所そして王宮外への出入り口が存在している事を知っているからだ。
私の向かう予定の場所はそこではないが、そこに逃げたと見せかけるつもりだった。そしてそのまま姿をくらまして、何食わぬ顔で佑茜の宮に戻る心積もりで、こちらへ逃げてきたわけだ。だが、ほんの少しでいいから彼らをまかない事には、変装を解く事も佑茜の宮に戻る事もできない。下働きの詰め所に紛れ込んで、そこで彼らをまくしかないと腹を括った。
庭師から奪った竹箒は竹林に入る手前で投げ捨てている。こんな物を手にしていては目立ってしまって紛れ込むどころではないと判断したためだ。たとえ追っ手をまけても、変装をといたそのすぐ側に竹箒が落ちていては、正体を見破られてしまうからだ。
後ろばかり気にしていて、前方への注意がおろそかになっていた。
そんな事は言い訳にもならないが、その人影に気が付いたのは随分近づいてからだった。人影に私はギクリと体を強張らせた。相手は私よりも大分先に気が付いていたようで、私が目を向けるなり挨拶してきた。
「よう。朝から随分と賑やかだな」
ニヤリと人の悪い笑みで言うその人物は、本来ならここにいてはならない相手だ。
そこに立っていたのは、佑茜だった。